息を切らせて、イヅルは生物室に走っていった。
普段は放課後、無人になると同時に電子ロックが掛かる設備になっているが、そこは天下の生徒会副会長、吉良イヅルである。
解除コードは知っていたし、何かあった時のためにカードキーは持っていた。
闇に包まれた無人の校舎に、肝を冷やして歩いていたが、生物室が近づくに連れ、別意味で胸が高鳴る。
外からは何の明かりも確認できなかったが、イヅルは小さく入り口のドアを叩いた。
―――市丸会長
と、呼びかけようとして、突然背後から何者かによって口を塞がれた。
強い力で羽交い締めにされる。
その容赦のない締め付けに、イヅルは悲鳴も出せず、抵抗は疎か身動きさえままならずに相手の懐に抱き込まれた。
大きな手はイヅルの口だけではなく、鼻も同時に押さえている。
お陰で軽く酸欠状態に陥ったイヅルは、途中で抵抗する力さえも失っておとなしくなった。
ぼうっとする意識に、ようやく拘束が緩んで、身体をくるりと反転、顔から胸に抱き込まれる形になる。
イヅルは靄がかる思考で、知った匂いだと気付き、窓から差し込む月明かりを頼りに乱暴者の顔を見上げた。
闇に浮かぶ銀の髪。
赤い瞳がちらと覗いて、常にない怒りの色を揺らめかせている。
言葉を紡ごうとしたイヅルの唇は、市丸の指で再び閉ざされた。
そしてイヅルを抱えたまま、ガラリと生物室のドアを開ける。
「あかんなぁ。仮にも四楓院家のお嬢さんが、夜中に自分とこのガッコの男子生徒を呼び出すやなんて、マスコミ当たりに知れたらスキャンダルやで」
―――え?
イヅルは市丸に抱かれたまま、引きずられるように生物室に入った。
胸と胸を合わせるように抱き合っているので市丸と対峙しているらしい者の姿は見えない。
「なんじゃ、お前。今日は外泊予定じゃなかったのか?」
しかし聞こえてきた声は紛れもない夜一の声だった。
「えらい可愛ぃらしぃて、この子の回りは危ないオッサンばっかしウロついとるからな。心配で心配で早めに帰ってきたんよ。まさかこんな夜中の校舎で、不良女教師に呼び出しくろてるなんて、思てもみんかったけどな」
市丸の語調は、常になく苛ついてキツイ。
自分の背をしっかりと、胸に抱き込む市丸の腕に、イヅルは何だか涙が出るほど安堵した。
顔を見ない間、あんなに否定した自分の立場が、会った瞬間に浮上する。
自惚れてしまいたいくらいに、市丸の腕がイヅルを抱く力は強い。
「しかもアンタだけならまだしも。オッサンっ!!!隠れんと出て来ィ!!!!」
市丸が吼えて、月明かりだけが差し込む生物室に、もう一つの影が揺らめいた。
「あっちゃー、バレてましたか。いつから気付いてたんです?」
そう言って現れたのは、縦縞の帽子に作務衣、下駄という出で立ちのもの凄く怪しい男だった。
市丸の腕の中で、首を回して光景を見守るイヅルは自然、市丸の制服のシャツを掴む手に力が加わった。
イヅルの頭を市丸が撫でる。
「安心しぃ。アンタが此処におるて知ってるんは僕だけや。副理事も知らん。そないな事よりボクが許せん言うてるんは、イヅルを人質にしよ思たことや。藍染のオッサンが手に入れたアンタの研究データ、一応取り返して来たんやけど、なんやムカツイて、バラ蒔きとうなって来たわ」
「おや?」
市丸は怒っているのだが、下駄帽子の男は動揺する素振りもない。
イヅルは分からない事だらけだが、取り敢えず黙って事の成り行きを聞いていた。
「ボクの探してたんは藍染はんが盗んだ山本のデータやない。アンタや、浦原喜助はん」
「へぇ。そいつはどうも、照れますね。なんつーか、愛の告白みたいッスよ」
「アホぬかせ」
微妙に緊張感があるのか無いのか分からない遣り取りだが、市丸の空気は痛いほど研ぎ澄まされている。
こんな市丸を、イヅルは知らない。
「浦原はん。アンタが昔、涅いう男と一緒に研究、開発しとったウィルスと、その抗ウィルス剤のデータは揃えさして貰いました。ボクの目的はこのデータを集め、消息不明やった浦原喜助はん、アンタを見つけ出し、ある病気の治療薬を作ってもらう事ですねん」
浦原と呼ばれた下駄帽子男の空気が変わる。
闇の中に異様に鋭く光る目が、チラと夜一と交わされた。
「いつまでも幼馴染みの女のヒモやってるんは、カッコ悪い言うもんやで」
「……なるほど。君の後ろには白哉君ではなく、山本老が直接居られるようッスね」
「夜中に悪いけど、外に車回してもろてるんや。ちょっと付き合うて貰えますか」
理事長室と制御コンピューターがある立入禁止区域の裏に、二台の黒い車が止まっていた。
如何にも高級車なそれには強面の運転手と、助手席にもう一人の男が乗っている。
浦原と夜一は、助手席にいた男に同じ車に納められると、市丸を待たずに車は走り出した。
残った車のドアを開いて、市丸はイヅルを振り返る。
「イヅル、ごめんな。なんや、ややこし事に巻き込んでしもて。怒ってる?」
ちょっと悲しそうに、困ったように訊ねる市丸に、イヅルは狡いと思った。
あんな風に抱きしめられて、こんな顔されたら、怒ってなんていられないじゃないか。
「怒ってません」
「ほんまに?」
「……本当です」
「その間ぁは、なによ?」
「今は怒ってないけど、もしこのまま市丸さんが一人で車に乗って行っちゃうなら、怒ります」
イヅルの台詞に、市丸はドアから手を離して、イヅルと真っ向から向き合った。
「なぁ、イヅル。さっき一緒に居って話聞いたから大体分かってる思うけど、ボク、嘘吐きやねんよ」
「はい」
しれっとして言う市丸に、本当は腹が立ったが、イヅルは何も言わず飲み込んだ。
「そんで、ややこし事件に関わっとって、イヅルにも迷惑かけてもた」
「迷惑だなんて思っていません」
「ん。でも下手したら命危ない可能性やってあったんよ」
「僕は迷惑だなんて思いません」
イヅルはムキになって言い返した。
市丸が苦笑する。
「しかもな、これが最後やないよ。これからもきっとボク、イヅルに嘘付いて泣かしてまうやも知れん」
「構いません」
「危ない事件に巻き込んで、イヅルが傷ついてまうかも知れん」
「その時は貴方が守ってくれればいいでしょう」
市丸が目を見開く。
イヅルは、む、として上目使いで市丸を睨んだ。
「今回は市丸さんに助けて貰ったけど、僕だって強くなります。いつかは貴方を守れる日だって来るかも知れない」
市丸は何も言わない。
しばらくの間、夜の闇が静寂で二人を包んだ。
イヅルは強い瞳で市丸を睨み付けていたが、その表情が微妙に泣いているように崩れた時、俯いて市丸が手を差し出した。
「後悔せぇへん?」
「僕は一ヶ月以上前に貴方を選びました。忘れたんですか?」
市丸の手を、しっかりとイヅルは掴む。
「ほんなら」
面を上げた市丸は、もういつもの市丸だった。
「ついておいで、…イヅル」
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このシーンだけは外せないでしょう。
「ついておいでイヅル」
ギンイヅ好きの名科白ですもんねvvv
ところで浦原さんが人物紹介に載ってなかったのは、意図的に、です。