信じられない 信じたくない








何度目かの目覚ましの音が聞こえて、イヅルは重い頭をゆっくりと上げた。

五時十五分。

そろそろ買い物に行って夕飯の準備をしなければ、市丸が早く帰ってきたら間に合わない。

点滴を受けて、多少は楽になったはずの身体は、それでも鉛のように重い。

イヅルは溜息を吐いて、何とか気合いを入れて起き上がると、携帯と財布だけを持って買い物に出掛けた。

冬空の日は短い。

段々と影を濃くする町並みを、イヅルはとぼとぼと買い物袋を下げて歩いた。

マンションまでの道はそんなに遠くないのだけれど、今日ばかりは億劫で仕方ない。

しかしその背に突然、聞き覚えのある声がイヅルの名を呼んだ。

「あれ、もしかして吉良君かい?」

「はい?」

振り返ると、人当たりの良い微笑を眼鏡で隠した長身の男が立っていた。

「あ、藍染さん」

「やぁ、久しぶりだね」

藍染は市丸の昔の恩師だ。

元々はロサンゼルスを中心に仕事をしていた市丸に、日本での事務所を開く切欠を作ってくれた人。

「あの、その節は大変お世話になりました」

イヅルが頭を下げると、

「おや、君に頭を下げられるとは思わなかったよ。僕は君に何かお世話をしたかな?」

おどけるように笑ってみせる。

「はい。市丸さんが日本で事務所を開いて下さったお陰で、僕は高校も大学も日本の学校に通えるようになりました」

「ああ、なるほど。市丸がどうしてもあの時期に日本で事務所を開きたいと言ったのは、その為だったんだね。君は元々日本生まれなんだよね?」

「はい。母方の血縁に、外国の血があったようですが、隔世遺伝なんです」

「そうか。それなら小さい頃は慣れない海外暮らしで大変だっただろう」

「いえ、市丸さんに頼り切りでしたので」

思えば、本当に昔から市丸には頼りっぱなしの、守られ続けだ。

イヅルは俯いた頭が上げられなくなる。

しかし藍染がそこで、ふと思い出したように顎に手をやって笑った。

「そう言えば市丸からお見合いの話し、聞いてるかい?」

「え?」

思わず困惑の表情で顔を上げると、藍染は穏やかに言った。

「今度の土曜なんだ。彼には散々世話を掛けたけれど、とても良い娘らしいよ。市丸も隅に置けないね」

イヅルは答えられなかった。

ただ笑おうとして、曖昧に顔が崩れただけ。

「吉良君も高校生だろう? 来年は大学生だったね。そろそろ恋人の一人でもいておかしくない年だ」

時間が経つのは早いなぁ。

そう言いながら藍染は笑っていたが、イヅルはもう笑えなかった。

「すみません。夕飯作らなくちゃいけないので、僕、失礼します」

最敬礼まで頭を下げ、後は振り返らずに走って帰った。














イヅルは笑おうとした。

本当は笑おうと思わなくても、笑っていられる大人になりたかったのだけど、すぐには無理だから。

市丸が帰ってくるまでに、普通の顔をして、笑って迎える練習をする。

けれど心が痛いと繰り返して、ちっとも上手くいかない。

―――お見合いするんだ。

そんな事ばかりが頭を回って、硬い南瓜の皮を剥く時、つい指を切ってしまった。

「痛い」

呟くと涙が零れた。

―――ヤバッ。

慌てて上を向いてみるが、堪えきれなかった一滴が頬を伝った。

信じられなかった。

信じたくなかった。

浮気されたとか、二股かけられたとか、そんなんじゃないんだから、と言い聞かせてみる。

お見合いするだけ。

藍染さんの紹介っぽかったし、きっと断れなくて、それで一度会うだけ。

それだけ、だよ。

必死で言い聞かせて、南瓜の煮付けを作る。

味見は何度しても味が分からなくて困った。

時計を見れば八時過ぎだ。

普通なら後一時間で市丸は帰ってくる。

大方の料理は出来たし、ちょっとフローリングにワックス掛けとこうかな。

納戸からワイパーとワックスシートを取りだして、リビングを回っている時だった。

鍵の開く音が聞こえた。

「お帰りなさい」

玄関に迎えに出ようとしたイヅルは、走り込んできた市丸にぶつかり掛ける。

寸でのところで踏みとどまったイヅルは、凄い勢いで肩を掴まれると、眼前で怒鳴られた。

「何やっとんのや!!」

「え……」

驚いて二の句が継げないイヅルの手から、ワイパーが強引に奪い取られる。

「い、市丸さん?」

訳が分からなくて市丸の顔を見上げると、眉間に皺が寄り、目許が鋭くなって酷く怒っている。

「何やっとんのやアホイヅルっ!!!」

再び怒鳴られて、イヅルは思わず目を瞑って縮こまった。

「いつからや?」

途端変わった声音に、イヅルは恐る恐る目を開いて市丸を見る。

今度は怒りよりも悲しみに近い顔に覗き込まれて、イヅルは困惑に眉を寄せた。

「イヅル、ちゃんと答え。いつから具合悪なったんや?」

「あ」

イヅルは反射的に市丸から一歩離れた。

それを強い力で留められて、再び同じ問いをされる。

イヅルは観念して「今朝からです」と蚊の鳴くような声で答えた。

大きな溜息。

イヅルはいたたまれなくて、「ごめんなさい」と頭を下げた。

心配を掛けさせたくてした訳じゃなかったけど、結果的に最悪を呼んだ。

―――何やってるんだろう。

泣かないと決めたはずの涙が零れるのを感じる。

慌てて手で押さえたけれど、間に合う訳もなく、市丸に見られてしまう。

こんなつもりじゃなかった。

もっとしっかりしたところを見せる予定だったのに。

市丸の腕がイヅルの腰に回る。

引き寄せられて、抱き締められて、耳元で溜息を吐かれた。

―――呆れられる!!

瞬間、背筋に寒気が走った。

同時に渾身の力を込めて腕を突っぱねていた。

市丸は驚いた顔をしてイヅルを見ている。

イヅルは市丸の腕を振り払って、呆然と目を見開いたまま、自分で自分の行動に驚いていた。

「あ、ご、ごめんなさい」

「イヅル?」

市丸が怪訝そうに呼ぶのに、イヅルは背を向けて逃げた。

自分の部屋に飛び込んで鍵を掛けると、そのままドアに凭れて泣いた。

―――僕は馬鹿だ。

市丸さん、怒っただろうか。

呆れただろうか。

もう付き合いきれないって思われただろうか。

それでもこれ以上、馬鹿で、餓鬼でどうしようもない自分を見せたくなかった。

「イヅル?」

ドアの向こう、市丸の声が聞こえて、イヅルはその場に崩れた。

もう限界だった。

身体が重くて、頭が痛くて。

心が痛くて、涙が零れて。

市丸が好きで、どうしようもなく好きで。

愛されたくて、でも、もう何も信じられなくて。

信じたくなくて―――。








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あわあわあわあわ……(イヅたんが大変!!)