君と歩いていく








「海外出張……ですか?」

イヅルは夕食の後かたづけをしながら、聞き返した。

「……そうやねん。ホンマごめん!!」

市丸が座ったまま頭を下げて、両手を合わせて謝る。

イヅルの受験も終わり、後は発表を待つだけという3月の初め、市丸は25日からN.Y.に二週間ほど出張することになったと言った。

「仕方ないじゃないですか、お仕事なんだから。気を付けて行ってきて下さいね」

イヅルが微笑むのに、顔を上げた市丸は苦虫を噛み潰したような渋い顔。

「せやけどイヅルの誕生日に一緒におられへんやなんて……」

「大丈夫ですよ」

イヅルは微笑む。

「たった一回くらい、市丸さんが側にいない誕生日があったって、別に怒ったりしません」

そこまで子供じゃありませんよ。

微笑むイヅルに反して、市丸は渋い顔のまま溜息を吐く。

「せめて一緒に連れて行けたらええねんけどな」

「無理ですよ。大学、合格してたら12日には入学式なんですから」

「そうやねんなぁ。ぎりぎり間に合わんやなんて、ツイてない」

イヅルは市丸の背後から皿を取り上げ、ちょっと迷って、空いた手を市丸の肩に乗せた。

「市丸さんが無事に帰ってきて下さったら、僕は何にも要りません」

市丸がイヅルを振り返る。

「凄い殺し文句やね」

「でしょう? 市丸さんがN.Y.に行ってる間、浮気しないように、おまじないです」

二人でくすくす笑って、触れるだけのキスをする。

昨年の暮れ、好きだ嫌いだ、信じるの信じないのと、あれだけ右往左往した藍染と雛森の見合い話しも、年越しを過ぎた今は良い思い出となっている。

あれ以来、イヅルは市丸の気持ちを疑うことを、極力辞めるように務めた。

もともと疑り深い性格というか、幸せに浸りきれない心配性なのだが、そこは市丸の大人の包容力で補って貰っている。

それでも時々不安になる時は、目が合うとどちらからともなくする触れるだけのキスが、おまじないのように穏やかな心を呼び戻してくれた。

そうやって少しずつ、少しずつ、二人の気持ちが近づいているのを実感する。

お陰でイヅルは以前に比べて、落ち着いた雰囲気を持つようになり、市丸は逆にそんなイヅルに甘えるような雰囲気を持つようにさえなってきた。


















「―――っても結局、やってねぇんだろ?」

卒業を控えた3年生の3月は、学校もない。

一日中家にいて、家事に従事しているイヅルは久々の恋次からの電話に、思い切り市丸との惚気を語っていた。

「そうなんだけど。別にもうそんなのどうでも良いくらい、幸せだから良いんだよ」

「ほー、じゃ、お前は一生童貞のままで良い、と」

「……馬鹿なんじゃないの? 市丸さんとしたってそれは変わらないでしょ」

「あ、そか。でも受験が終わったらって話しじゃなかったのかよ」

「まだ合格が決まった訳じゃないだろ」

「頑張るなぁ、お前等。俺だったら欲求不満で死んでるとこだぜ」

「阿散井君とは違うんだよ。君こそ、檜佐木先輩を君の旺盛な性欲で殺さないようにね」

「あほか。すっげぇ大事にしてるっつの」

「はいはい、御馳走様」

結局、イヅルは市丸とはまだ最後までしてはいない。

イヅルが市丸を疑って、意地を張って倒れた日の中断から、再び受験終了までのお預けが、二人の間の暗黙の了解となっている。

けれど以前のように辛くはない。

市丸がイヅルをちゃんと想ってくれていると分かっているだけで、別に焦る必要はないと自分を納得させられた。

「まぁ、でもやっぱりちょっとは物足りないんだけどね」

受話器を元に戻しながら、イヅルは独り言る。

しかも今度の誕生日は市丸は海外出張で居ない。

18才の誕生日を迎えた暁には……と、少し期待していたのが延期になったのは残念だけど。

「焦る必要はないよね」

一生会えなくなる訳じゃない。

市丸はちゃんと自分の所に帰ってきてくれる。

その時には、きっとまた全てを与え合って愛し合える日も来るだろう。

―――市丸さんと、ずっと一緒に歩いていくって決めたんだから。

















校庭の梅の花も、盛りを迎えた3月10日、イヅルと恋次は3年間通い続けた高校を卒業した。

そして春未だ来、寒風に揺れる淡い陽光を浴びて、二人は気もそぞろに合格発表の掲示板を睨み付けていた。

―――あ、あった!!!

イヅルが自分の受験番号を見付けたのとほぼ同時に、恋次が隣で雄叫びを上げる。

「ぉおおおおおおおお!!!」

ガッツポーズで腰を落とす彼は、しかし次の瞬間、複数の叫声と共に胴上げの渦中にいた。

「おめでとー!!!」

あっちからもこっちからも祝いの声が叫ばれて、白熱の胴上げが、あちこちで繰り広げられている。

イヅルは思わず引いてしまい、ちょっと落ちちゃった子のような雰囲気になったが、これ幸いと掲示板前の集団から抜け出した。

―――市丸さんに報告しなくちゃ!!

綻ぶ顔もそのままに、携帯を取りだしたイヅルは、数件の着信に気付いて履歴を押す。

―――市丸さんからだ。

次の瞬間、再びバイブレーターが作動した携帯に慌てて出ると、「おめでとさん」の柔らかい声。

「市丸さん。もうご存じだったんですか?」

ちょっと拗ねてイヅルは訊ねたが、受話器の向こうでは「ううん」の返事。

「イヅルが合格するんは当たり前やからな。何も心配してへんかった」

「もぅっ」

嬉しくて、大好きな声に拗ねた言葉は、しかし全く効果など無い。

「イヅル、お疲れさんやったな」

「ありがとうございます」

「ほな、合格祝いのご褒美あげなね。南っ側の門から出たトコにおいで」

「え……え? 今、まだお仕事中じゃないんですか?」

「ええから、おいで。待ってるよ」

プツリと携帯が切れる。

イヅルは驚いてはいたが、期待に頬を紅潮させて、市丸の指定した場所に走っていった。

南門に着いてみると、彼の愛車があって、その運転席で窓を全開に手を振る市丸を見付けた。

「い、市丸さんっ」

息の乱れるままに駆け寄ったイヅルは、勢い余ってその首に抱きつく。

「えらかったなぁ、イヅル。よぉ頑張った」

頭を撫でて貰って、息を整えると、「隣おいで」と助手席に促された。

イヅルが言われた通りに座ると、市丸は車を発進させる。

「あの、何処に行くんですか?」

イヅルが慌ててシーツベルトをしながら訊ねると、市丸は笑っただけで、「ええとこ」と言って何も教えてはくれなかった。















市丸が連れてきてくれたのは美味しいコーヒーと軽食の、落ち着いた綺麗な喫茶店だった。

「このお店、よく来るんですか?」

「偶にな。仕事で使こたりするけど、私用で来たんは初めてや」

「良い雰囲気ですね」

仕事の忙しい市丸は、休日は余り遠出したがらないので、こうやって二人で出掛けるのが久しぶりなイヅルは、とても嬉しかった。

自然零れる笑みに、市丸も笑い返してくれる。

「市丸さん」

「ん?」

「素敵なご褒美を、ありがとうございます」

イヅルが頬を染めて小さく礼をすると、市丸は一瞬面食らって、しかしすぐに笑いを吐いた。

「ちゃうよ。ご褒美はまた別や」

「え? まだ他にあるんですか?」

「そうや。こんなとこ、ただの寄り道やし」

悪戯そうに笑う顔に、イヅルは首を傾げるが、市丸が楽しそうなので気にしない。

時間を確かめた市丸が、イヅルを促して席を立つ。

「ほな、行こか」

「はい。でも本当に何処に連れて行って下さるんですか?」

答えない市丸の車に再度乗り込み、着いた先でイヅルは無言のまま固まった。

「いらっしやいませ」

頭を下げるスタッフは全員浮世離れしている。

煌びやかなエントランスは市丸にこそしっくりしているが、学生服のイヅルには不似合いだ。

「お部屋までご案内させて頂きます」

中央のエレベーターではなく、奥の扉を開けたスタッフに導かれて、着いた先には彫刻が施されたエレベーター。VIP仕様が一目で分かるそれに促され、震える足で乗り込めば、高いビルなのにボタンなんて4つしかない。

緊張で一言も喋れなくなったイヅルが、やっと口を開いたのは、呆れるほどだだっ広いストートルームに着いてからだった。

「い、い、市丸さん、こ、ここ、これ」

「気に入った? ボクの知り合いの抑えとる部屋やねんけど、使てへん言うから譲って貰ろたんや」

「譲って貰ったって……」

そこは某有名ホテルのスイートで、多分一番広い部屋だろう。

家具も何もかもが重厚な雰囲気を醸しだし、落ち着いているのに落ち着けない。

市丸はそこに当然のようにスーツを放り出し、ネクタイを緩めると、机に用意されていた水を一口、イヅルを呼んだ。

「広ぉて使い心地もええし、夜になったらごっつぅ夜景が綺麗なんよ」

「はぁ、夜景ですか」

イヅルは半分放心状態だ。

その手を市丸が取る。

「せやから今日はここで美味しいもん食べて、イヅルと待ちに待った初夜を過ごそう思てんねやけど」

チュッ、と音を立てて指にキスされたイヅルは、やっと我に返って赤面する。

「しょ、初夜って……っ」

「受験終わったら、いう約束やったやろ?」

「…………はぃ」

市丸の顔を見ていられなくて、イヅルは俯いたまま頷いた。

その身体を市丸の胸に抱き締められて、ドキドキと高鳴る心臓を血の上った頭で聞く。

しかしそこでふと、イヅルは自分の学生服に気付いて、ちらりと市丸を覗き見た。

「あの、市丸さん」

「ん?」

「此処で夕食、食べるんですか?」

「そやで。レストラン予約してる」

「あの、でも、僕その、制服なんですけど」

「ああ、それなら心配いらん」

市丸が離れて、奥の部屋へと消えると、何やら大きな箱を幾つも持って帰ってきた。

「イヅルのスーツや。サイズは合うてると思うけど、後で袖通してみ」

「い、市丸さん、一体どれだけお金掛けたんですか? 僕、そんなに高価な物、受け取れないですよ」

イヅルが赤い顔のまま首を振ると、市丸はにやりと笑う。

「ほな制服でご飯食べ行く?」

「う……それは……」

こんな格好でこんなホテルの、きっと物凄いんだろうレストランなんて行ける訳がない。

困っているイヅルに笑って、市丸はスーツの箱を、空いたソファに退けた。

「イヅル、もう一つ渡したい物があるねん」

市丸はソファに座るイヅルの横に座り直すと、左手に持った小さな箱を差し出した。

「ホンマはイヅルの誕生日に渡そう思てたんやけど、出張やなんて行かなあかんようになってしもたから」

そう言って開いた箱から顔を覗かせたのは、銀色に輝くリング。

「石は小さめにしたよ? イヅルあんまりそう言うの好きやないやろ? せやけどイヅルに一番合うやつ思てかなりデザイン直させたから……」

ふと市丸が口を噤んで、目の前で音もなく涙を零すイヅルをそっと抱き寄せた。

「イヅル。ボクと一緒におって。これから先も、ずっと、ボクだけのもんでいて」

「〜〜〜っ」

イヅルは指輪も受け取らずに市丸に抱きついた。

言葉が何も出てこない。

―――前にもこんな事があった。

胸が熱すぎて焼き焦げてしまいそうになりながら、イヅルは記憶を巡る。

市丸に好きだと伝えた時、絶望に責っ付かれながら、それでも胸がいっぱい過ぎて涙が零れた。

どうしてこの人は、こんなに僕の中をいっぱいにするのだろう。

どうして市丸さんは、こんなに僕を幸せにしてくれるのだろう。

どうして僕は、市丸さんと出会えたのだろう。

10年前、両親が一度に他界した。

あの時はもう二度と笑う事なんて無いと思った。

誰も信じられなくて、もう誰も僕の事なんて好きになってくれないと、そう思った。

それなのに。

それなのに市丸さんが僕を見付けてくれた。

僕についておいでって、そう、手を差し伸べてくれた。

あの瞬間、僕は貴方の物になったんです。

あの時からずっと、僕は貴方の物なんです。

「イヅル、返事は?」

「はい」

涙は止まらなかったけれど、イヅルは精一杯微笑んだ。

「はい。ずっと、ずっと、僕は市丸さんと一緒にいます。ずっと、市丸さんだけの物です」

10年前から、ずっと―――。

市丸の唇がイヅルのそれに重なる。

塩辛いキスに、微笑みを合わせた市丸は、そっとイヅルの指にリングを通した。

「イヅル、愛してる」

「僕も、愛してます」

君と歩いていく。

どこまでも、いつまでも。

誓いはキスで始まって、きっと最期まで、ずっと一緒にいるから―――。












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