市丸が帰ってきたのは、彼が筍ご飯を食べたいと言ってから八日後だった。
「おかえりなさい、市丸さん」
「ん。何も変わったこと無かったか?」
「はい。何も」
いつもと同じ会話。
いつもと同じ光景。
違っているのは市丸の纏う女物の香水の匂い。
イヅルは泣きそうになるのを堪えて、市丸のスーツを抱え込むとクローゼットに走った。
これが初めてではなかったけれど。
市丸に恋人は居ないのかと、何度か訊いた事がある。
その度に彼は「そんなモンおらへん。仕事忙しぃて作ってる暇あらへん」と同じ答えを返す。
確かに市丸が家に恋人らしい女性を連れてきた事はなかった。
幼馴染みだという美人で豊満なスタイルの良い女性が一度だけ、けれどとてもサバサバした性格の彼女は何故か市丸に追い出されるように帰っていった。
それきり女性は一度も家に訊ねてきた事はない。
男性の友人も家まで訊ねてくるのは本当に希で、イヅルの聴いた限りでは休日はいつも自分と共に過ごしている。
本当か嘘かは別として。
それでもここ二、三年ほど、事務所泊も含めて、市丸はよく外泊するようになった。
いたたまれないのはその所為だ。
そんな時にこうやって、女物の香水を纏って帰ってくる彼を、イヅルはどう接したらいいのか分からないでいる。
自分の立場では、怒ったり悲しんだりするのはどう考えてもおかしい。
だから気付かない振りをしてやり過ごす。
「でもそれも限界なんです」
イヅルは市丸のスーツを抱きしめて、広々としたウォーキングクロゼットの中、壁を背にずるずるとしゃがみ込んだ。
幼い日、好きだという気持ちを持っているだけで何でも出来た時。
市丸が笑ってくれるだけで良かった。
脇目も振らずに、彼だけを見て歩いてこれた。
だけど今は気付いてしまっている。
来年の春は高校を卒業する。
大学は市丸と話し合った結果、此処からほど近い国立大の法学部に通う事になった。
センター試験の結果次第ではあるが、現在の成績では大丈夫だと担任からも太鼓判を押して貰っている。
受験が終わったら、バイトを探そう。
安い学生マンションの頭金くらいは作って、敷金と礼金はもしかしたら市丸さんに頭を下げる事になるかも知れないけれど、今更駄目も言われないだろう。
そうして彼から離れる準備をしたら、きっと言えるはず。
今までどうもありがとうございました、と。
どうぞもう誰に遠慮することなく恋人を作って家に招いて下さい、と。
独身でこんな大きな子供を抱えてしまっているハンデでも、家にいるのと離れているのではきっと違うから。
どうか自分の幸せの為だけに生きて下さい、と。
そしていつか市丸から与えて貰った大きな恩を、少しづつでも返していけたら良い。
それでも今はまだ言えないから。
だからせめて知らない振りをして、隠れて泣くくらいは許して下さい。
シャワーの音が微かに聞こえるのを思いながら、イヅルは眼が腫れないように必死で涙を堪えた。
「先輩の友達の店なんだ」
恋次はそう言ってイヅルの前で両手を合わせて頭を下げた。
「でもその店、夜しか開いてないんだろ?」
「だから頼んでんじゃねぇか」
その日、恋次は二年前に卒業したOBである、修兵の知人がOPENするというクラブへ誘われた。
OPEN記念でパーティをすると言うので、恋次まで修兵に誘われたのだ。
当の修兵は友人の手伝いでリザーブ側に回ってしまうらしく、恋次と一緒に行く訳にはいかないと言う。
しかしそんな店に行き慣れてる訳ではない恋次は、気後れからイヅルに同伴を願ったのだ。
「お前だったら元生徒会の関係で檜佐木先輩と仲良かっただろ? だから頼むよ」
「でも僕、居候の身だし、市丸さんに迷惑掛かるような事したくないんだよ」
「掛からねぇって。ちょっと行って、ちょっと顔出して来れば良いんだからよ。それに最近、仕事で忙しいって帰ってこねぇって言ってたじゃねぇか」
「それでも今日、帰ってこないかは……」
イヅルの携帯がタイミング良くメールの着信を知らせる。
まさか……と思えば、やはり市丸からで、今日も仕事で事務所に泊まると書かれていた。
「決まりだな」
恋次が勝ち誇ったように笑うので、イヅルもつられて笑った。
本当は泣きたかったのだけど、一人で帰ってこない人を想って待っているよりは、大学まで一緒の友人に恩を売っておいた方が良いかも知れないとイヅルは頷いた。
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ここ、本当は生徒会関係でごちゃごちゃあったんだよな……夢では(笑)
そう、これは私が台湾でイヅルに餓えていた時に見た夢の噺です(爆)