大切なのは距離感





生まれて初めて夜遊びをした日、イヅルは市丸のものになった。

十年越しの片思い、まさかの成就にイヅルは戸惑いを隠せない。

けれどこうして市丸に抱き締められている事実が、イヅルに現実だと知らせている。

腕を放したら、何もかも嘘になって消えてしまう気がして、イヅルは市丸から離れられないでいた。

彼は夕飯は食べたのだろうか。

帰ってくるとは思っていなかったから、お風呂だって沸かしていない。

気が付いてイヅルは青くなる。

十年間、市丸が自分を養ってくれるせめてものお返しに、家事は全部引き受けてきた。

彼がそうしろと言ったことはなかったけれど、イヅルが好きでやってきたこと。

本当は市丸に喜んで貰いたかったからであり、好きになって貰いたかったからだけれど。

それがまさかこんな記念すべき日に何もしてないだなんて、どうしよう。

イヅルは今更ながら後悔した。

夜が遅くなるって分かっている日は、朝に風呂掃除くらい済ましていくのに、どうして今日に限ってしていないのだろう。

「イヅル?」

市丸の声がイヅルを呼ぶ。

微妙に不審がる声音に、イヅルは開口一番、謝った。

「ごめんなさい」

案の定市丸は変な顔をした。

「あの、ごめんなさい。僕、今日、まだお風呂掃除してないんです。ご飯も、だから、あの」

「イヅルゥゥゥ?」

市丸の語尾が変だ。

顔を上げると、呆れ顔の彼が映る。

「いきなり何やの。ボク今日事務所泊まるてメールしたんやから、出来てへんで当たり前やないの」

イヅルは黙って赤面した。

それは分かっているんだけど、この十年、そりゃあ最初は何も出来ないただの子供だった。

それでも毎日料理本を見たり、洗剤の裏の説明書きを見ては日々、家事に従事してきたのだ。

市丸の為に。

市丸に少しでも快適だと、喜んで貰う為に。

ちょっと背伸びするくらいの努力は当たり前に払ってきた。

毎日欠かさず温かいご飯とお風呂を出してきたのだ。

それなのに―――。

「何やの、この子は。そない風呂沸かしてへんかったのがアカンのかいな」

「だって、市丸さん、お仕事でお疲れでしょう? せめて家に帰ってきたら、暖かいご飯とお風呂ぐらい、欲しいと思うじゃないですか。それに、これは僕の仕事だって決めてたのに」

俯いたイヅルの頭を、市丸が撫でる。

イヅルが下を向いていて良かった。

市丸の顔は脂下がっていて、とてもイヅルには見せられそうもない。

こんな健気な恋人を、本気で貰ってしまって良いのだろうか。

出会ってしまったのが運命だというのなら、まるでこれは御伽噺だ。

市丸の胸中はイヅルには分からない。

分からなくて見上げる瞳は、何処か翳っていまいち幸せに浸り切れていない。

「まぁ、ええわ。ぼちぼち慣れていったらええ」

「何をですか?」

突然の市丸の言葉を、もちろんイヅルは理解できない。

縋り付いてくる瞳は、未だに市丸の気持ちを信じ切れないでいた。。

「僕がイヅルを好きって事、ぼちぼち分かっていったらええよ」

「そ……」

それは分かっています、とは言い難かった。

解決してない問題も多い気がする。

今日は女の人の香水の匂いはしない。

けれど、もしかしたら依頼者のものであるかも知れないし、あるいは仕事で出会う女性の物かも知れなくて。

かとい言ってここで問いつめるのは怖くて、イヅルは俯いた。

「イヅル、大切なんは距離感やで?」

市丸の指が優しくイヅルの頬を撫でる。

「いきなり全部変わったりは出来へんやろうけど、ちょっとずつ近づいたら、きっと安心できるようになる」

「はい」

確かに市丸の言うとおりだ。

十年、一緒に暮らしてきたとは言え、今、スタートラインに立ったばかり。

先は長い。

これから何年、何十年と連れ添っていきたいと思っているのに、焦りは禁物。

イヅルが微笑むと、市丸も笑った。

「これからもよろしくお願いします」

卒業したら出て行こうと決めていた。

その時には、今までありがとう御座いましたと言うつもりだった。

早く言わなくちゃいけないと思いながら、苦しくて悲しくて痛くて辛くてとても言えなかった言葉。

まさか代わりにこんな言葉を紡ぐことになるなんて、夢にも思っていなかった。

「ボクこそよろしゅう」

市丸がイヅルの手を取り、そっと指先に口付ける。

まるで何かを誓うように、目を閉じてそっと唇が触れた。

「ほなお風呂掃除はボクがするから、イヅルは温かいご飯、作ってくれる?」

「はい」

いつもと変わらない日常は、また、今日から新しく作っていく。










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新しい生活の始まりです。