何に対しての欲求不満





冬空の青さが憎い。

なんて、さすがにロマンチシズムに過ぎるだろうか。

イヅルは配られた古典の小テストを書き上げてしまうと、手持ちぶさたに空に溜息を吐く。

教室の空気は受験が近くてピリピリしているが、イヅルの胸中に雲を流すのは市丸ギンという男だ。

イヅルにとって、十年来の初恋にして恋人、そして保護者であり、同棲相手である彼。

付き合い出しのは3日前だが、イヅルには悩みがある。

この3日間、何もないのだ。

何もないとは、つまり、以前と変わった所が何もないのだ。

元々十年、一緒に暮らしてきた仲で、突然何が変わるというのもおかしいかも知れないが、寝る部屋だって別だし、お風呂だって別。

市丸は相変わらず仕事が忙しく、帰ってきてもご飯を食べて、風呂に入って、寝るだけ。

キスも勿論、そう言うことが一切無い。

これって付き合ってるって言えるの?

眉間に皺を寄せて、行儀悪く爪を噛んでみたりする。

今日び、初体験の年齢なんて低下の一途を辿る日本の健康的な男子高校生相手に、随分と清らかなお付き合いもあったものだ。

そりゃあ突然、交換日記なんて言われたら驚く前に、引いてしまうかも知れないけれど、何もないよりはマシかも知れないと思い始めている辺り、末期かも知れない。

「はぁ」

もしかして、付き合う以前より増したのかも知れない悩みに、イヅルは血巡りが悪いらしい目尻を揉んでみた。

隈の出来やすい体質なのだ。














夕飯のポークソテーを切り分けながら、イヅルには言ってみたいことが山ほどあった。

「味、大丈夫ですか?」

―――違うだろう。

自分で自分に突っ込んで、ちょっと涙ぐむ。

ポテトサラダを食べていた市丸は、片眉を上げて「美味い」と言った。

「そうですか。良かった」

思わず満面の笑みを浮かべてしまう自分は現金だと思う。

「あの、最近、お仕事は、ちょっとは落ち着いてきたんですか?」

市丸が黙りがちになるのは忙しい時だというのは分かっているのだけれど、訊かずにはいられない。

「いや。ややこし会合が仰山入ってて、頭痛いわ。イヅルは勉強どうなん?」

「あ、はい。受験も近いですし、面談がしょっちゅうありますが、第一志望で大丈夫だそうです」

「そうかぁ。まぁ、イヅルがよぉ頑張ってるんは知っとるから、あんまし無理しなや」

「はい」

―――しまった。終わらせてしまった。

料理の味も分からないくらい、思考がぐるぐるしている。

自分から切り出した方が良いのだろうか。

それとも忙し過ぎてそれどころではないから手を出してこないのだろうか。

もしそうだったら今言ったらウザがられてしまう???

一人で悶々と考えていると、いつの間にか、箸まで止まってしまっていたらしい。

突然、ぐにっ、とほっぺたを軽くつねられた。

「え?」

「イヅル、さっきから百面相なっとるで」

食卓に身を乗り出した市丸のアップに、イヅルは盛大に赤面する。

「なんやの? 何か言いたいことあるんやろ?」

市丸の指が離れると、イヅルは無意識に頬に手を当てて俯いた。

「どうして市丸さんは僕のこと、すぐ分かるんですか?」

「そんなんいっつもイヅルんこと見てるんやから。当たり前やん」

「そんなの」

ずるいです。

イヅルは益々俯いてしまう。

だって自分には市丸のことは殆ど分からないのだ。

こんなのフェアじゃないじゃないか。

「どうしたん?」

市丸がイヅルの額に自分の額をくっつける。

至近距離で覗き込まれると、いやと言うほど心臓が速くなった。

もうちょっと上を向けば、唇と唇が触れ合う。

意識すると、つい視線が市丸の唇にいってしまって、イヅルの鼓動は静まらない。

けれどすぐに市丸の顔は机の向こうに引いてしまった。

「ちょおトイレ行ってくるわ」

そう言って、一人残されたイヅルは思わず唸る。

こんな生殺し、いつまで続くんだろう。

市丸さんはもしかして僕とそう言うことはしたくないのかな。

それとも18になったらとか言ってたくらいだから、それまで子供扱いするつもりなのかな。

どちらにしたってこのままでは欲求不満でおかしくなってしまいそうだ。

涙ぐんで唸って、机に額をこすりつけながら、でも本当は分かってる。

幸せだって分かってる。

市丸さんが僕を好きだって言ってくれた。

恋人になれた。

それだけで十分だって言えないのは、何に対しての欲求不満なのか。

「やりたいから好きなんじゃないよ」

呟いて思う。

でも、好きだから市丸さんとしたいって思うのは、だめなのかな。








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市丸さん、ちゃんとトイレは換気しといて下さいね。