眠くない 眠れない








決戦の金曜日がやってきた。

何の決戦って、そんなのは決まっている。

今日こそは市丸さんと…………せめいキスくらいしたい。

既に志の時点で挫けがちなのだが、恋人になって初の金曜日なのだ。

土曜と日曜は事務所がお休み。

つまりどんなに市丸が疲れていようが、次の日が休みならば、多少の無理は聴いてくれるかも知れない。

イヅルは取り敢えず精のつく料理を、と考え、本日の献立は鰻料理だ。

市丸が帰宅するのは大抵九時過ぎなので、時間は十分ある。

下手な理由を作られてはいけないと、学校の宿題も予習も終了済み。

てきぱきと手際よく鰻と山芋のおろし蒸しを作り終えると、余りでうざくなんかも作ってみたりして。

甲斐甲斐しい奥さんぶりは、自他共に認められるほどに板に付いている。

それもこれも市丸を愛するが故、と思うと料理の味付けも市丸好みの薄味になるものだ。

「市丸さん早く帰ってこないかなぁ……」

そろそろ九時過ぎだ。

お風呂も沸いていれば、タオルやパジャマ、下着の準備まで完璧。

月曜に使って貰う為のワイシャツもハンカチもアイロン済みでスタンバイしている。

後は市丸が帰ってくるばかりに整えられた家で、イヅルはテレビを付けながら時計ばかり眺めていた。













時計が11時を回ると、イヅルはテーブルに突っ伏して泣いた。

―――何で帰ってこないの!?

携帯もテーブルの上に置きっぱなしだが、何度センター問い合わせしても『新しいメールはありません』の文字。

今までだって何の連絡もなく市丸が遅くなったことくらい何度でもあるのに、期待し過ぎていた所為で辛くて仕方ない。

恋人になる前は、もっと謙虚だった自分を思い出して、イヅルは額をテーブルに打ち付けた。

「いきなり飲み会になっちゃったとかかな」

だとしたら帰ってくるのは午前様だろう。

折角の料理も、もしかしたら市丸の口に入らずに終わるかも知れない。

鼻を啜って、ティッシュで目許を拭いていると、玄関の開く音がした。

慌てて駆けていくと、「たぁだいまぁ」と靴を脱ぐ市丸の姿が目に入る。

「おかえりなさいっ」

飛びつく一歩手前で出迎えたイヅルは、いきなり市丸に抱き締められて息を止めた。

「どうしたイヅル!? 何があった? 何で泣いてるんや?」

抱き締められたスーツの胸で、さっきまでの憂悶が嘘のように、幸せが込み上げる。

慌てる市丸が愛し過ぎて、泣いた顔のまま笑うと、やっと息を吐いた市丸が再度どうしたのかと訊ねた。

「市丸さんが遅いので、ちょっと心配になっただけです。心配掛けてごめんなさい」

「なんや、良かった。何かあった訳やないねんな?」

はぁ……と溜息を吐く市丸に、イヅルは嬉しくって仕方ない。

「市丸さんに会いたかっただけなんです」

そう言って、イヅルは市丸の背に腕を回して抱きついた。

「……っ、そうかぁ……ほんならええねん。中入ろか、ここ寒いしな」

微妙に市丸の語調がおかしい。

些細な違和だが、腕を解いて半ば強引にリビングへと行ってしまった市丸に、イヅルは首を傾げた。

「市丸さん?」

市丸がソファに放ったスーツを抱えながら、イヅルが呼ぶと、いつも通りの市丸が「なに?」と振り返る。

―――気のせいだったのだろうか。

「先お風呂にしますか? それともご飯の方が良いですか?」

それとも僕は要りませんか?―――とは、まださすがに訊けない。

仄かに頬を染めてイヅルが訊ねるのに、市丸は「風呂先入るわ」と浴室に出ていった。

イヅルは慌ててスーツをクローゼットに仕舞うと、ご飯とおかずを温める。

作りたての美味しさは逃したものの、ちょっとでも美味しく食べて貰いたい。

「良かったね」

愛情たっぷりに作られた料理達は、その愛情の注ぎ先である市丸に食べて貰えるのだ。

本懐を遂げられて、さぞ料理達も嬉しかろう。

ややあって、市丸が風呂から上がってくる頃には、食卓の上は湯気を立てる美味しそうな料理で飾られていた。

「はぁ〜、こら今日は凝ったモン作ったな。学校の後で大変やなかったんか?」

「いいえ。付き合い始めて最初の金曜だから、ちょっと奮発したんです。お口に合うと良いんですが」

頬を染めて言うイヅルに、市丸の表情が硬くなる。

「―――なぁ、イヅル」

いきなり真剣な空気になった市丸に、イヅルの笑顔も萎んだ。

「はい」

「そのことやねんけど、ちょお、話したい事があんねん」

―――そのことって、多分料理の事じゃないよね。

イヅルは急に不安に胸が締め付けられた。

それじゃあ、付き合うって事の方?

青くなるイヅルを置いて市丸は食卓に着くと、「先、ご飯食べよか。折角温かいの、冷めてもたら勿体ない」とイヅルを呼んだ。

いつものように、向かい合わせで食事をする。

市丸を取り巻く空気はもう元に戻っているけれど、イヅルは話が気になってそれどころではない。

「ん。美味いなぁ。この鰻」

目の前で嬉しそうに食べる市丸に向ける笑顔も、どこかぎこちない。

イヅルは喉から不安が迫り上がる気がして、食事も喉を通らなくなってしまった。

「イヅル」

「は、はい」

突然の呼びかけに、大袈裟なほど驚いてしまい、思わず箸で掴んでいたうざくが落ちた。

市丸が溜息を吐く。

「あの?」

笑えもしない、泣けもしない、イヅルの顔はぎこちない微笑を貼り付けたまま青ざめている。

「ご飯前にする話やなかったな。僕が悪かった、イヅル」

市丸がバツが悪そうに頭を掻くのに、イヅルは我慢していた涙腺が決壊しそうになった。

「イヅル、ボクな、めっっっっっっっっちゃ我慢してんねん」

「へ?」

思ってもみない台詞に、イヅルは思わず間抜けな声を上げた。

市丸は俯いて片肘を食卓に着き、額を押さえている。

「イヅルんとって、今はセンター前の大事な時期やろ? せやのにお前、どんだけボクを誘惑したら気が済むねん。そらイヅルが無意識なんは分かっとる。分かっとるんやけど、ボクにも限界言うモンがあるんや。頼むから手加減してくれ」

すぐには市丸の言葉は、イヅルには理解できなかった。

―――受験前なのに無意識の誘惑は手加減してくれ?

気付いたら赤面していた。

内心、うわぁぁあああああっ!!! とか、悲鳴を上げたい気分だった。

どうして良いのか分からない。

それは無意識じゃありませんとか言ったら、いけないのだけは分かったけれど。

―――どうしよう。

―――本当に誘惑しちゃったよ。

―――しかも我慢してるって!

―――受験前なの気にしててくれたんだ。

嬉しいやら、恥ずかしいやら、我慢なんかしないで下さいやら、イヅルは大パニックだ。

市丸も顔を上げずにいつまでも俯いている。

心なしかその耳が赤いようにも見えた。

「ぅあのっ」

このままでは埒があかないのは分かる。

市丸の言い分は聴いたのだ。

今度は自分が答えなくては。

イヅルは渇いてしまってしょうがない唇を舐めて、必死で言葉を紡いだ。

「ごめんなさい」

市丸が顔を上げる。

ちょっと照れた表情は多分初めて見る顔だった。

「いや。ええよ。ボクの忍耐が足りんっちゅう事やし」

「違うんですっ」

思わずイヅルは身を乗り出す。

「僕、僕、市丸さんに、市丸さんと、その、恋人らしい事したいって、思って、だから、我慢なんてしないで下さいっ」

顔面から火を噴く思いで、とうとう言ってしまったイヅルは、驚きに固まっている市丸を見つめた。

「僕、僕も、市丸さんと、し、したぃ…んです」

椅子に腰を戻した後は、縮こまって恥ずかしさに耐えるしかなかった。

市丸はまだ黙っている。

酸欠なのか、血が上りすぎたのか、目がチカチカしてきた。

「えーと」

市丸が向かいで本日何度目か頭を掻いている。

「気持ちは嬉しいねんけど、そらアカンやろ?」

市丸の言葉に、イヅルは目を見開いて訊ねた。

「どうしてですか?」

「そらお前、受験生やんか。一分一秒惜しんで勉強せんと、将来がかかっとんのやで?」

「でも、先生には合格を請け合って頂いてます。市丸さんの所為にして落ちたりなんかしません」

「イヅルの実力疑ってるんやないよ。せやけど、こらケジメの話やろ?」

「そんな。だって僕もう欲求不満で夜も眠れないのに」

しまったと思った時には、ぺろりと本音が口から飛び出していた。

しかし間髪入れずに届いた返事は予想外。

「そんなんボクかて一緒や」

互いに顔を見合わせて、その後は妙なお見合い状態だった。




















「せめて一緒に眠らせて下さい」

最終的には、市丸が折れてくれるという形で、決着が付いた。

子供の頃には何度も一緒に眠らせて貰った市丸のベットに、まさかこんな形で入ることになるなんて。

紺色のシーツにちょこんと座って、パソコンを弄っている市丸の背中を見つめる。

広い背中だ。

大人の男って感じがして格好良い。

毎日毎日、いつも市丸のことを想って過ごしてきた。

それはきっとこれからもずっと変わらない。

結局キスも出来なかったけど、今日は特別な夜になったから良いことにしよう。

この4日、毎晩寂しくて悶々と、眠れない時を数えて過ごしてきた。

だけど今日は寝たいだなんて思えない。

「イヅル、先、寝ててええで」

「はい。でもまだ眠くないです」

今日もきっと眠れないのだろうな、と、イヅルは愛しい背中に微笑んだ。







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初な。
初二人じゃ……(笑)