偶然聞こえた
その日、イヅルは朝から体が怠かった。
多分、前日に明け方まで冷えた廊下に踞っていた所為だろう。
結局、昨夜は一睡も出来ずに朝を迎えた。
7時半には家を出る市丸は、朝にはいつも通りに見えた。
しかし逆に、イヅルにはそれが辛かった。
些細な機微は無理でも、機嫌が良いのか悪いのかくらいは分かると勝手に思っていた。
しかし昨夜の態度を思い返してみても、市丸の機嫌は良いとは思えない。
それなのにいつも通りに見える市丸が、イヅルには余計辛かった。
ふわふわと浮き流れる雲に、一筋の糸を括り付けたと安堵する愚かな蜘蛛のよう。
それは錯覚に過ぎないのだ。
「ごほっ、げほっ、こんっ、こっ……っ」
「おいおい、風邪かぁ?」
一限目の休憩時間、恋次がイヅルの机の前でパンに齧り付きながら眉を寄せる。
「っ……ん、そうかも。何か喉痛くなってきた」
イヅルは口を押さえながら、赤い顔で恋次を見上げた。
「お前、顔赤いぜ? 熱あんじゃねぇの?」
恋次の右手が額の熱を計って、顔を顰める。
「すげぇ熱い。すぐ保健室行け。そんで早退しちまえ」
「でも、今日数学テストあるって」
「アホか、そんなの熱で茹だった頭でやっても意味ねぇよ」
恋次に腕を掴まれ、立ち上がらせられると、ふらりと眩暈を覚えた。
「おっ前、よくこんなんで学校来たな。保護者は何も言わなかったのかよ」
「そんなの」
市丸さんに見せる訳ないじゃないか。
イヅルは俯く。
恋次はイヅルを保健室へと引きずりながら、あからさまな溜息を吐いた。
「お前、もしかして保護者の前でも優等生やってんのか?」
「……当たり前だろ」
「ばっかだなぁ、お前。保護者ってもお前のは恋人だろ?弱いとこくらい見せて甘えとけよ」
恋次の言葉に、思わずイヅルは涙目になる。
そんな恐ろしいこと、出来る訳がなかった。
ただでさえお荷物な自分なのだ。
その上昨日は我侭を言って怒らせたばかりと来ている。
こんなんで、弱いところなんて見せたら、呆れられて捨てられそうだ。
これ以上甘えたりなんかしたら、罰が当たって一緒にいて貰えなくなるかも知れない。
「僕は、君と檜佐木先輩とは違うんだよ」
イヅルは憎まれ口を叩いて、何とか涙を堪えた。
保健室で熱を計ったら、37度7分だった。
イヅルは低体温気味なので平熱が35度台だから、しんどくて当たり前。
保険証は持っていたので、帰りに病院に寄って、点滴を打って貰った。
「お大事に」
薬を受け取って、いくらか楽になった身体で昼間の道を歩く。
普段は学校にいるので見ることのない景色に、酷い疎外感を覚える。
此処は自分の居場所じゃない。
そう思えて、イヅルは足早にマンションに向かった。
エレベーターを降りて左に。
奥の突き当たりの角部屋がイヅルと市丸の住居だ。
イヅルは力無い手で暗証番号を入力しようとして、ふとランプがグリーンなのに気付いた。
―――開いてる?
ドアノブに手を掛けるまでもなく、難なくドアは開いた。
このマンションのセキュリティーはかなり徹底されている。
まず入り口でカードキーと指紋認証をしなければマンションに入ることも出来ない。
更に部屋に入るには暗証番号の入力が必要だ。
その部屋のドアが開いているのだから、もしかして市丸さんが帰ってきているのだろうか。
そっと、音を立てずに部屋に入り込んだイヅルは、市丸の声を聞いた。
「分かってるよ。ボクかてええ年や。ちゃんと責任取るつもりやで」
―――何の話し?
思わず玄関先で足を止めたイヅルは、突っ立ったまま聞き耳を立てる。
「次の土曜やな。ほな先方の娘さんにはよろしゅう伝えといて」
ピッ、と電話の切れる音がする。
イヅルは慌てて部屋を出た。
ここで市丸と鉢合わせるのはマズイ。
急いで部屋と反対側の角に逃げ込んだ。
エレベーターを通り越しているので、市丸が部屋を出るつもりでも会うことはないだろう。
程なくしてタイルの上を硬い靴が鳴る音がして、ピタリと止まる。
エレベーター待ちだろう。
イヅルはドキドキして確認も出来ないまま隠れていたが、市丸の携帯の着信音が響いて、思わず耳を傾けた。
「あ、すんません。出先です。いやぁ、ちょっと見合い写真持ってこい言われまして。はぁ、今から戻りますよって」
エレベーターの開く音と同時に、市丸の声が遠ざかる。
イヅルは思わず顔を覗かせたが、そこにはもう市丸の姿はなかった。
部屋に戻ってみても、市丸が帰ってきた形跡は一切無い。
イヅルは何かに急かされるように市丸の部屋に忍び込むと、手当たり次第引き出しという引き出しを漁った。
そして部屋に設えた小さめのクローゼットの中、書類の束に埋もれた下に、柔らかい色彩の硬い本が幾つもあるのに気付いて、引き出しごと抜き出した。
手に取ってみると、それは見合い写真だった。
しかも一冊、二冊ではない。
十冊以上あるそれは、全て一人の女性のものだった。
イヅルにはその顔に見覚えはない。
市丸の年ならば、見合い話の一つや二つ、あった所で不思議はないだろう。
けれどこうも一人の女性の写真だけだと、逆に何かしらの意図を感じて仕方なかった。
「次の土曜って言ってた」
偶然聞こえた全てを要約すると、次の土曜に市丸はきっとこの女性と見合いをするのだ。
「責任取るって」
もしかして市丸はその見合いでこの女性と婚約するつもりだろうか。
―――僕がいるのに?
気付いたら勝手に涙が伝っていた。
恋人だなんて胸を張って言えるほど、今のイヅルには何の自信もなかった。
昨日、市丸はイヅルを餓鬼と言って、追い出したのだ。
市丸にとってイヅルはいつまでも守ってくれる者のいない、弱くて可哀相な被養護者に過ぎないのかも知れない。
好きだと言ったのは自分からだった。
しかも泣きながら、強引に、馬鹿みたいに縋って泣いた。
―――市丸さんは何て言った?
18になったら、と言っていた。
プロポーズするつもりだった、と。
もしかして、僕があんまり子供っぽくて、市丸さんに見限られちゃったのかな。
―――こんな馬鹿餓鬼だなんて、思ってもみなかったのかも。
イヅルは写真を元に戻して自室に戻ると、ぐったりとベットに横たわった。
自覚していたつもりだったけど、自分は余りに子供っぽ過ぎる。
市丸に失望されて当たり前なのかも知れない。
もっと大人にならなければ、もう好きだなんて言う資格もなくなってしまう。
頭痛と吐き気でグラグラする視界の端、目覚まし時計に手を伸ばす。
五時にセットして、それまでに寝て風邪を治すことにした。
起きたらちゃんと買い物に行って、風呂と夕飯の準備をして、市丸を笑って迎えよう。
もう泣いたり喚いたり我侭なんて絶対に言わない。
僕は大丈夫って見せなくちゃ。
ちゃんと大人だって、見せなくちゃいけない―――。
どろどろと深い眠りは、イヅルに何の安らぎも与えてはくれなかった。
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頑張れイヅル!ちゃんと幸せにしちゃるからな(><)