心の闇





「歯ぁが痛い」

明け方近く、それまでイヅルと激しく絡み合っていた市丸が突然頬を押さえて呻いた。

「牙が生え始めたんですよ」

イヅルはベットに身体を横たえたまま、溜息と共に答える。

「なんや。吸血鬼の牙も、普通に歯ぁ生える時と同じでこない痛いんか」

乳歯が永久歯に生え替わったのはそれこそ記憶にないくらい昔だが、市丸はその時と同じ痛みを覚えて唸る。

「歯茎を突き破って出てくるんですから、そりゃあ痛いですよ」

イヅルの目は開いていない。

今日……と言うより昨日からこっち、昼過ぎに抱き合ってから夜まで、食事と二度風呂に入ったくらいで、後はずっと抱き合い続けなのだ。身体が動かない。

「う〜、でもこの牙生えたら、吸血鬼の仲間入りやな」

市丸が言うのに、イヅルは眉を寄せて嫌そうな顔をした。

「そんな事くらいで吸血族にはなれませんよ。何の為の一年間だと思ってらっしゃるんですか」

「ほな牙生えた後はどないすんの?」

「暫くは人間の血は吸えません。オドの変換が自分では出来ないんですよ。だから僕の血を吸って貰います」

「ああ、模擬練習みたいなもんか」

「ええ、暫くはだから僕も傷だらけになると思います。案外牙を立てるのだって難しいんですから」

「ふ〜ん」

イヅルはもう寝かせてくれと言わんばかりに頭からシーツを被ってしまった。

一人残された市丸は、そんなイヅルの振る舞いに苦笑して、白い月を残して薄紫に明けていく空を眺める。

とうとう、こんな所まで来てしまった。

薄く笑って、部屋に籠もる淫靡で甘ったるい空気を流そうと、細く窓を開けた。

遠くで鳥が鳴いている。

いつもと変わらない夜明けだが、市丸は確かに人ではない生き物になっていた。

幼い頃、人ではない強い生き物に憧れた。

人はせせこましすぎる。

限られた枠の中で、いつか壊れる脆い物達をそれはそれは大事そうに抱え、奪い合い、壊し合い、失くしたと騒いでは、互いに守り合おうと約束してみたり、しかしその約束の陰で人を疑い、疑う自分に絶望し、絶望を世界に写し、再び混沌の中へと帰っていく。

そんな事にいちいち価値を見出せないでいる自分は、人ではないのだと思っていた。

金だとか、地位だとか、およそ人が人として生きていく為に必要なしがらみに、一切の価値を認められない。

そんな人があって良いわけがない。

市丸はだから、ここまで来た。

人が人でなくなる道を探して、そしてそれは運命のように、ここまで導かれてきたのだ。

自分には帰る場所も人もなく、行く場所も待つ者もいない。

自由という名の孤独に在って、それを幸せと呼ぶ放蕩者だった。

だからこれも一つの通過点に過ぎないのだと、そう思っていた。

市丸は別に吸血鬼になる為に生きてきた訳ではない。

いつか死ぬ時までに、満足するよう生きる為に生きているのだ。

だから自分が満足する為の人生を送るのに、吸血鬼になる手続きに付き合って貰う吸血鬼は必要だった。

笑顔で会って、好感を持って貰い、一年間上手く過ごして、そして消えるつもりだった。

それがまさかこんな吸血鬼だなんて……。

市丸はピクリとも動かず、シーツに埋もれて眠ってしまったらしいイヅルの顔を発掘する。

金色の髪が朝焼けに映えてキラキラと輝いていた。

幼さを残す表情は眉間に皺が寄って、生き辛いのだと訴えかけているよう。

市丸以上に孤独で、市丸以上に孤独に幸せを見つめる少年。

―――――そんな吸血鬼やなんて、アリかいな。

溜息と共にさらさらと前髪を掻き分け、白すぎる額にキスを落とす。

―――――可愛ぃらしぃ寝顔。

透き通りそうな不健康な白い肌に、光を糸に束ねて紡いだような金の髪、海の神々の娘よりも尚美しいといわれた古の王妃と同じ濃い青の瞳。

こんな綺麗な生き物がいるのかと、市丸はイヅルを見てそう思った。

いや、多分容姿だけなら似たり寄ったりの者もいるだろう。

彼が吸血鬼だったからか。

時の枠に縛られない憂いと、気高くも儚く純粋なその存在に、ひどく心惹かれた。

自分とはまるで違う生き物でありながら、同じ世界を見ているその瞳に、何が映るのかと問うてみたくなった。

頑なに拒絶する優しさや心地よさ、快感は一体彼に何を恐怖させるのか。

市丸は眠るイヅルの隣に身を横たえると、そっと頭を胸に抱き寄せ、吐息した。

「全部ボクの物にしたいて、そう思ったんよ」

例え君が君を嫌っていたとしても。

手に入れたいと思ってしまったのだから仕方ない。

今となっては市丸はイヅルをどう自分の物にするか、そればかりが心を占めて、己の満足も幸せも、この子次第と既に心を決めてしまっていた。






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「イヅル様、市丸様、お食事の支度が整いました」

「ん〜〜〜!?」

執事の呼び掛けに、最初に気が付いた市丸は、素っ裸で抱き合う己とイヅルの姿に少し焦った。

「あ、ああ。分かった。すぐに行く」

イヅルは怠そうに吐息しながら、ひらひらと手を振る。

「かしこまりました。湯は、如何致しましょう?」

「ああ、用意しておいてくれ。先に入る」

「かしこまりました」

一礼して部屋を後にする執事に、市丸はやっとそう言うものなのかと納得する。

しかし気持ち悪い。

「部屋入ってくる時くらい、ノックしたらええのに」

ぼそりと呟いた市丸に、のそのそと身体を起こしたイヅルは「ではそう言いつけておきましょう」と答えた。

「なぁ、あの執事さん、あん人も吸血鬼なん?」

「……ええ、そうですよ。彼はウォチャイックです」

「ウォチャ?」

初めて聞く単語に、市丸は首を傾げた。

「ウォチャイックです。元人族の吸血族ですが、王家の選抜ではなく、貴族が個人的に気に入って一族に加え入れた何の力も持たない吸血族です」

「はぁ、そんなんもあんねんなぁ」

「ええ。数は少ないですがね。大抵は労働階級として、彼のように貴族に仕えて貰っています」

イヅルの顔が皮肉に笑う。

市丸は勿論それに気付いたが、指摘することなく執事が置いていった夜着を纏い、「さ、飯や飯」と話題を変えた。

「そんなにお腹が空いたんですか?」

対してイヅルはまだ寝たりないのか、上半身は起こしたものの、シーツの上で愚図っている。

「なんや異様に腹減ってるわ。なんや空き過ぎて胸焼けしてる」

市丸が言うと、イヅルは「早いですね」と意味不明の返事をよこした。

「何が早いって?」

「その空腹感は食べ物ではありませんよ。血に渇いているんです」

「ええええええ!?」

市丸は大仰に驚いてみせる。

「ほなボク早速血ィ吸わなあかんっちゅうことか!?」

「ええ、そうです」

イヅルはやっとベットの端から足を垂らし、夜着に袖を通した。

「ほなイヅルの血ぃ吸うてええの?」

今にも飛び付きそうな市丸に、イヅルはしかめっ面を上げる。

「こんな所で始めたら寝台が血だらけになります。丁度良いから浴室で練習しましょう」

そう言ってふらふらと立ち上がり、市丸を待たずに部屋を出ていった。

相変わらずイヅルの態度は冷たい。

しかし市丸は段々そんな態度にも慣れてきていたので、特に気にすることもなく、わくわくとイヅルの後を追って浴室に降りていった。









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浴室は地下にある。

しかも大浴場と言って良いくらい、10人くらいは一緒に入れそうな湯船と、広くてがらーんとした洗い場は鏡張りで、観葉植物なんかも飾ってある。

一日前の晩から、ここを使うのは既に四度目ぐらいになる市丸は、いい加減慣れたのか、ぱっぱと夜着を払うと浴室へと足を踏み入れた。

浴室ではイヅルが先に、シャワーで身体を流している。

「イヅルはいっつも連れないね。もうちょっとボクに優しぃしても罰当たらんと思うけど」

ちらり、と振り返ったイヅルは「すみませんでした」と気のない返事。

どうせ言った所で変わりはしないことなど分かり切っていた市丸は、背後からイヅルのシャワーシーンを見つめてやろうと、その後は何も言わずにイヅルを見つめた。

「…………っ。言いたいことがあるんだったら言って下さい」

イヅルは鏡越しに、居心地悪そうに訊く。

「別にええよ。イヅルが冷たいんはよぉっく分かっとるし。悲しいからせめて視姦しとこ思て」

「〜〜〜っ」

イヅルはさっさと泡を流してしまうと、睨みつける視線のまま市丸を振り返り、「お待たせしました」と言った。

「さっそく吸血練習しましょう」

―――――吸血練習って……。

真面目な顔をしてそんな事を言うイヅルがちょっと面白くて、市丸はにやつく。

それをどう勘違いしたのか、イヅルは、む、と下から上目遣いで睨み、「真面目にして下さい」と怒った。

「ごめんごめん。真面目にしとるよ。どないしたらええの? 首に噛み付いたらええの?」

市丸は笑ってあしらい、イヅルと向かい合う。

「あちら、浴槽の縁に座ってしましょう」

そう言ってイヅルは浴槽の縁に腰掛けると、市丸を呼んで隣に座らせた。

「じゃあまずは腕で行きましょう。噛み付いて構いませんから、血を吸って下さい」

そう言って左腕を市丸に差し出す。

「へ? 血ぃ吸うのって首からじゃないん?」

面食らった市丸が訊ねると、「別にどこから吸っても一緒です」とイヅルは冷たく言い放った。

「でも腕からて、なんやカッコ付かんなぁ」

「最初は格好なんて気にしないで下さい。まずはちゃんと噛んで血を吸って、飲むだけで良いんです」

「んー」

市丸はごねたが、そこは吸血族として18年も先輩に当たるイヅルの言うことだ。

仕方なしイヅルの左腕を取ると、口元に近づけ、手首当たりに牙を立てた。

「……っ」

イヅルが息を呑む。

柔らかな肌の感触を舌で味わい、生えたばかりの牙で裂く。

意外にも肌は硬くて上手く牙は刺さらない。

少し力を込めて噛むと、イヅルがビクリと身体を竦ませるので、市丸はちょっと戸惑った。

「構わないから思い切り噛んで下さい。皮膚を裂くんですから思い切りです」

イヅルはそう言ったが、市丸はやっぱり躊躇う。

痛いんじゃなかろうかと思うと、イヅル可愛さに上手くいかない。

「大丈夫です。痛みは一瞬で快感に変わります。だから噛み裂いて下さい」

再びイヅルが言った所で、市丸は意を決して、思い切りイヅルの腕に牙を立てた。

途端、舌に拡がる鉄の味。

それが酷く甘くて、市丸はもっと、と心が欲するまま深く牙を埋めて血を啜った。

「……っん」

甘い声にイヅルを見れば、情事の際に見せるのと同じ、快感を湛えた表情。

陶酔するかのよう目を細め、半開きの唇から覗く赤い舌はチロチロと動いて甘い喘ぎを零した。

「痛ない?」

牙を抜いて、未だ鮮血の滴る手首を舌で舐めながら訊ねると、「ええ、全く」と夢見るような返事。

「血ぃがこない美味いやなんて知らんかった。それともイヅルの血ぃやからこない甘くて美味しいんやろか」

笑って言った市丸に、イヅルはふるふると首を振って「もっと吸って下さい。それでは足りないでしょう?」と言った。

「もっとって、もっと噛んでええってこと?」

市丸は細く血の流れる手首に首を傾げる。

これ以上傷を深くすれば、橈骨動脈を破いてとんでもない量の血が溢れるだろう。

それこそ死に至る程の失血になってしまうのではないか。

市丸は訝しんでイヅルを見たが、彼は薄く笑って「いいえ」と答えた。

「そこが噛み辛いのなら場所を変えて下さって結構です。右手でも足でも、首は血が滑りますから飲み難いですよ」

「そないあちこち噛み付いたらイヅルが傷だらけになってまうやん」

市丸が笑うと、「ええ、だから暫くは僕は傷だらけになるって言ったでしょう?」とイヅルも笑う。

なるほど、そう言う意味だったのか。

市丸は納得して、それならば、と噛み付く場所を探してイヅルの前に膝立ちする。

一糸纏わぬ白い裸体を晒すイヅルは、逃げる意志のない獲物そのままに、狩人の腕に捕らえられている。

「傷はどんくらいで治るん?」

「僕は吸血族ですから数時間で治ります」

「ほな人は?」

「噛み方に寄りますが、一瞬で傷跡を消す方法もあります」

「それどうやるん? ボクできたらイヅルにあんまし傷つけたくないよって」

ぺろりと内股を舐めた市丸の舌に反応を返しながら、先程の吸血の快感を残しているらしいイヅルは甘く吐息する。

「それは……市丸さんにはまだ出来ません。構いませんから好きな所を噛んで下さい。今みたいな傷跡じゃあ、ほら、もう血も止まってる」

イヅルが左腕を差し出し、先程の傷跡を市丸の目の前に晒した。

しかしもう血は完全に止まり、傷口も塞ぎ掛かっている状態のそこは、吸血鬼に噛まれたなんて思いもしないほどの掠り傷。

「ほんまやね」

「ええ。ですから遠慮せずにどこでもどうぞ。最初が一番渇くんだそうです。全然足りないでしょう?」

イヅルの指が市丸の髪を梳く。

まるで、さあ食べて下さいと狩人を誘う獲物のような倒錯感に、市丸は目の前の白い太股に唇を寄せた。

口を開き、牙を立てる。

ぷつり、と先程よりも簡単に刺さったそれに、甘い血が舌を伝う。

―――――甘い。

流れる血の量は焦らすように少しずつで、市丸はより深くと牙を立て、舌で傷跡を抉った。

「……っああ……っ」

甘い声が漏れる。

イヅルは市丸の髪に指を絡め、震えながら快感に揺蕩っていた。

―――――足りない。

一度箍が外れてしまうと、もう止まらない。

イヅルの足の間に身を滑り込ませると、牙を立てられる所を探して舌で肌を辿る。

脇腹の軟らかい肉を唇で確認すると、早速牙を立てて血を流した。

「っ……んんっ」

イヅルが仰け反って悦ぶのが分かる。

何度も噛み位置を変えて、細く血の流れるのを舌で舐め取り、その甘美な味に酔っていく。

胸の突起を通り過ぎ、肩口に小さく引っ掻くような傷を付け、赤く血がぷつぷつと玉になるのを舐め取る。

「っあ……っ……もっと、思い切り吸って下さっ」

イヅルが叫んで、市丸は快感に仰け反る背を支えると、弓なりに反り返った首筋に目が吸い寄せられた。

吸血鬼が何故首を狙うのか、市丸はその時、何もかも分かった気がした。

何て綺麗なラインだろう。

白い肌に透ける青白い血管。

柔らかな肌は舌を這わせるだけでドクドクと脈打つ血流を伝える。

愛おしむように丁寧に狙いを定め、ゆっくりと牙を挿し入れると、「ああああっ」歓喜の悲鳴が迸った。

血が滴る。

ほんの少しの傷なのに、首筋の傷からどんどんと血が溢れて、市丸の喉を満たしていく。

この満たされようはなんなのか。

「っ……ああああっ!!!」

喉が鳴るほどに血を吸うと、痙攣したようにイヅルの身体が続けざまに跳ねた。

口の端から血が零れ落ちるのが惜しい。

勿体なくて、牙を抜いた後も全て舐め取るように舌を這わせた市丸は、腕の中で大人しく項垂れる獲物の様子に胸が詰まるほどの愛しさを覚えた。

「イヅル」

声に滲む想いが伝わることを願いながら呼びかけると、「いちまるさ……」弱々しい返事。

「平気か? イヅル」

「はぃ……問題ありません」

思い切りいった後のように、ぐったりしたままのイヅルを抱えて、市丸は暫く座り込んでいた。







「もう大丈夫です」

市丸に抱かれていたイヅルが、そっと頭を上げて呟く。

「ボク、吸い過ぎたんやろか?」

大丈夫と言った割には、立ち上がることも出来ないらしいイヅルに、市丸は不安そうに訊ねる。

「いいえ。全く問題ありません」

そう言ったイヅルは、市丸を見上げて優しげに笑いかけた。

「…………!?」

市丸は驚いて言葉が紡げない。

出会ってから38時間目にして、初めて見たイヅルの優しい笑顔だった。

―――――こんな風に笑えるんや。

勝手に高鳴る鼓動を余所に、頭は異様なほど冷静にその光景を焼き付ける。

花のような、いや天使のような、何とも形容しがたい笑顔に、市丸は心ときめかす。

―――――この笑顔、いっつもボクだけにずっと向けてくれへんかな。

湯気と汗で貼り付いた髪を、そっと指で払う。

「イヅル、好きや」

囁けば、サファイヤ・ブルーの瞳が見開かれ、ふと笑みが消えた。

―――――あっ。

イヅルは市丸の腕から身を起こすと、まるで先程の笑顔などなかったかのように、今まで通りの冷たい表情で「湯船に浸かってから出て下さい。風邪引きますから」と言った。

ふらつく身体で湯船に入ろうとするイヅルを支えて、市丸はその腕を掴んで此方を向かせる。

「イヅル」

低い呼び声に、イヅルはバツの悪そうな顔を向けた。

「イヅル、何でそない必死でボクを遠ざけようとするんや?何で自分の気持ちに嘘吐くねん」

市丸の問いかけに、イヅルは目線を逸らして俯くだけ。

何も答えないイヅルに市丸は焦れて、湯船に押し倒すと馬乗りで叫んだ。

盛大に上がる水飛沫。

「ちゃんと言えっ!!!理由あるんやろっ!? 何でさっきみたい普通に笑わへんのやっ!?」

胸元まで湯に浸かって市丸を見上げるイヅルは泣き顔だった。

唇を噛んで、言いたいことがあるのに、まるで言ったら死んでしまうかのように頑なに閉ざしている。

「イヅルッ!!!」

市丸が名を叫ぶと、イヅルはあろう事か背中から倒れて湯の中に頭を沈めた。

「お、おいっ!?」

慌てて頭を引き上げようとした市丸の腕は、イヅルの腕で拒絶される。

「死ぬ気かアホォッッ!!!」

市丸の腕とイヅルの腕が飛沫を上げて攻防を続ける。

何分、いや何秒だったのかも知れないが、ともかく長い間、二人は互いに格闘しあっていたが、湯の中と外でふと目が合って、動きが止まった。

泣いているサファイヤ・ブルーの瞳。

涙は湯に溶けて、その形も色も分からなかったが、歪められた表情が悲鳴のように泣いている。

「イヅル」

呆然と呟いた市丸は、イヅルが何が言っているのに気付いて唇を目で追った。

「ボ……クヲ…コ…………ロシ……テ?」

―――――僕を殺して?

衝撃に目を見開いたまま、市丸は止まる。

腕を離されたイヅルは、それでも湯の中で泣いていた。

泡の立たない静かな水面。

呼吸しない生き物。

死なない吸血鬼。

絶望だけでは死ねないとイヅルは言った。

死にたいと思うだけでは死ねないのだと。

むしろ苦しいと、悲しいと、辛いと思っている時には死ぬことは出来ないのだと。

―――――それはイヅルのことなんか?

市丸は呆然とイヅルを見つめる。

絶望して、死にたいと願い、望み、それでも死ねない、それ故の嘲笑。

生きることと死ぬことが同意になって初めて灰となって消える。

笑ってはいけない。

泣いてはいけない。

感情を持たないように、必死で全てを殺すのは、灰となって消える為?

水底に沈み泣き続けるイヅルをそっと抱き寄せ、胸に抱き、市丸はその途方もない闇に呆然と静寂に飲まれる。

永遠を生きる生き物の、時に死なぬ生き物の、悲しい性を、息も止まるほどの衝撃で、ただ受け止めていた。









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