断裂
あれからイヅルは一度も笑っていない。
市丸ももう、イヅルに笑えとは言わなくなった。
―――――良かった。
イヅルはそう思う。
けれど心の何処かで、何かが悲鳴のように心を切り裂いていた。
―――――痛い。
イヅルは胸を押さえて、シーツの海で空気を求めて喘ぐ。
―――――痛いっ。
どうせ、どうせ救いはないというのに、どうして心は言う事を聴かないのだろうか。
イヅルは嗤う。
市丸は行ってしまう存在だ。
いつかは消えてしまう存在。
今は一緒にいても、今は身体を重ね合わせても、来年は違う者が現れて、イヅルはまた交わるのだ。
そうして吸血族の繁栄の為に、種の優性保存の為に。
―――――それ以外に僕の使い道なんてないじゃないか。
イヅルは枯れたはずの涙を滲ませて、自分の胸に爪を立てる。
イヅルには力がない。
何の能力もない貴族なんて、種馬くらいにしかならないのだ。
それさえ拒絶したらどうなるか。
『元人族の吸血族ですが、王家の選抜ではなく、貴族が個人的に気に入って一族に加え入れた何の力も持たない吸血族です』
自分の口から吐いた言葉が、イヅルの頭に鳴り響く。
『労働階級として、貴族に仕えて貰っています』
「同じじゃないか」
何の力も持たない吸血族、そのくせ貴族。
憐れみの対象にされるには十分で、絶望の原因にされるのもまた十分。
「何で生きているんだろう」
呟いて、嗤う。
「何で生まれてきたんだろう」
何百回、何千回、何万回と繰り返した自問を繰り返す。
「どうして死ねないんだろう」
―――――どうして生きていなければいけないんだろう。
まるで呪いだ。
苦しみ続ける為に、悲しみ続ける為に、その為だけにイヅルは生かされている。
ココロが痛い。
助けは来ない。
求めたら辛くなる。
辛ければまた死は遠くなる。
何処にも行けない。
どこにも行く宛などない。
ただ、雁字搦めで。
世界は閉じて。
息を殺して、心を殺して、早く早くとただ死を待つだけ。
自分の心が死ぬように。
笑ってはイケナイ。
泣いてはイケナイ。
何も感じないように。
何も思わないように。
絶望の淵に坐り続ける。
闇だけを見つめて―――――。
**************************
夜が来て、イヅルは部屋に戻ってきた市丸と十時間ぶりに顔を合わせた。
風呂場で初の吸血練習をして、やっと血を得たばかりの市丸はまたきっと渇いているはずだった。
血を与えなければならない。
「具合はどうなん?」
気分が悪い、と部屋に籠もっていたイヅルに、市丸は決まり文句を訊ねた。
「もう平気です」
イヅルは何事もなかったかのように無表情で答える。
「市丸さん、渇いているでしょう? もう一度僕の血を吸って下さい」
にこりともせず、事務的に告げたイヅルに、市丸は二の足を踏む。
「どうかされましたか?」
白々しい質問だ、と自分でも思ったが、余り自分の深淵に触れられたくはなかった。
市丸は近付かない。
イヅルは目を伏せて、「昼間は済みませんでした」と形だけ謝って見せた。
「すっかり取り乱してしまいました。反省します。今後あのような事は二度と……」
「もうええ」
市丸が言葉を遮った。
「もう沢山や」
吐き捨てるような物言いに、イヅルは微かに眉を寄せる。
「ご気分を悪くしてしまいましたか」
イヅルはどうしたものかと項垂れた。
市丸の気持ち次第で、自分の立場はなくなるのだと言う事を、すっかり忘れていたらしい。
イヅルはまた自嘲する。
「自惚れが過ぎました」
イヅルは寝台から降りて、床に素足を着けると、そのまま膝を折って土下座する。
「どうかお許し下さい」
市丸には、なんとしても立派な吸血族の一員になって貰わなければ困る。
「僕は貴方に拒まれれば、存在する意味さえ失くしてしまう役立たずなのです。どうか、お許し下さい」
頭を上げないイヅルに、市丸は冷たい一瞥を落とした。
「ようそんな事して恥ずかしないなぁ」
貴族が聴いて呆れるわ。
市丸は嗤った。
「靴でも舐めそうな勢いやん」
イヅルはそっと頭を上げ、目の前の市丸の足元を見る。
光沢のあるエナメルの靴先に、指先を伸ばした。
しかしそっと近づけた顔は、後ろへと足を引いた市丸によって拒絶される。
「貴方がしろと言うのなら、靴くらい舐めますが?」
イヅルは冷たく嗤った顔のまま、醒めた視線で市丸を見上げた。
「ぞっとするほど綺麗な顔やな」
市丸も嗤う。
「この身体は飽きましたか?」
挑発的な物言いに、市丸は「いいや。身体は好きや」と返した。
「では何なりと。好きに暴いて下さって結構ですよ。傷つけた所で死にはしません。貴方さえ望むなら、ナイフで切り裂き、手なり足なり食べられた所でいずれは元に戻ります」
それは酷く蠱惑的な誘いだった。
「食べても再生するんか」
「ええ。腹の内で溶けても、いずれは魂の元に肉体は復元されるのです」
「そないなっても生きてる言うんか」
「はい」
さあどうぞ。
そう言わんばかりにイヅルはシャツのボタンを外し、ズボンを脱いでベットの端に腰掛ける。
どうなったって構わない。
そう言わんばかり態度のクセに、指先の震えが裏切っている。
瞳は恐怖と悲しみに満ちている。
「馬鹿馬鹿しい」
市丸は踵を返して扉の取っ手に手を掛けた。
「そないな顔や食欲も失せるわ」
バタン、と後ろ手に扉を閉められ、イヅルは一人部屋に取り残される。
市丸の消えた扉を見つめて、イヅルは俯いて眉を寄せた。
不要な身体。
不要な存在。
「化粧でもしましょうか?」
誰も居ない部屋に呟いてみる。
「ふふふふ」
嗤って、そして涙が零れた。
「要らない役立たず」
ずるずるとベットを背から堕ちて、イヅルは床に踞って泣いた。
「誰も要らない……誰も僕なんか要らないのに、どうして僕は此処にいるの!?」
悲鳴のような問いかけにも、答えを返す者は居ない。
飽きられてしまった。
拒絶されてしまった。
市丸ももう自分なんか要らない。
市丸ももう自分なんか欲しがらない。
それがとても心地よくて、それがとても嬉しくて、イヅルは泣いた。
「要らなくて良い」
不要な存在で良い。
そうすればいつかは諦められる時が来る。
何もかも全部諦めて、何もかも全部どうでも良くなったら、そしたらきっと解放される。
そうしたらきっと楽になれる。
イヅルは泣いて、泣いて、結局一晩、ただひたすら泣き続けた。
****************************
次の日、真昼に来客があった。
ぼんやりと、ベットに凭れて虚空を眺めていたイヅルは、執事の言葉に我に返る。
「藍染様がいらっしゃいました」
「え?」
イヅルは訝しげな顔を上げて、脱ぎ捨てたままの服に手を掛けた。
「応接室でお待ち頂いております。火急のご用件との事ですが」
「わかった。すぐに行くからお待ち頂いてくれ」
執事は一礼して出て行く。
大急ぎで身支度を整えたイヅルは、それでも足音をさせないように階段を下りて、応接室に向かった。
「お待たせ致しました」
部屋に入ってきたイヅルに、背を向けるように庭を眺めていた藍染は冷たい微笑を返す。
「体調はどうだい?」
「え?」
思わず驚きに声を上げたイヅルに、藍染はチラリと執事に目をやる。
「彼から報告が来てね。君が体調を崩して、使命を果たせずにいる、と」
イヅルは蒼白な顔のまま、後ろに控える執事を振り返った。
「彼を責めるのは筋違いだよ。彼には報告の義務がある。そうだろう?」
穏やかな声に、イヅルは藍染を振り返って苦しい相づちを打つ。
「ええ。しかし……体調は元に戻りました。本日からまた使命に従事する所存で御座います」
「そうか」
藍染は再び庭に視線を戻す。
「しかし君のパートナーはどうやら、君を快く思っていないそうじゃないか」
「それはっ」
イヅルは声を上げたが、冷笑の一瞥に口を閉ざす。
「君らしくもないね。声を荒げるなど。どうやら本当に体調が優れないようだ」
「いえ。申し訳在りません」
イヅルは落ち着きを取り戻そうと、自分の左手を掴んで声を抑えた。
「君も知っていると思うが、市丸君は大変優秀な人材でね。王家からの期待も厚い。軽薄に扱われては困るのだよ」
「はい。存じております」
藍染の言葉裏を探って、イヅルは目を伏せる。
「どうやら君では役者不足だったようだ。王家から市丸君の采配を再考するよう委ねられてね。彼は僕の元に連れてくる事にしたよ」
「……しっ」
口を開いたイヅルに、藍染はそれを阻むように続けた。
「君には失望したと仰有っておられたよ。貴族に生まれた者として、この程度の使命は果たせると、そう思われていただろうからね」
イヅルの口は閉じる。
頭は下へと項垂れて、細い肩が震えていた。
「僕から市丸君には話しておこう。君には別に行って貰う所があるからね」
イヅルは答えない。
藍染はそんなイヅルの様子に構う事もなく、穏やかに先を続けた。
「君は君の価値を思い知る必要があるだろうからね」
イヅルは嗤っていた。
望み通りになって、嬉しいだろうと己に嗤う。
誰にも必要とされない存在。
こんな瓦落苦多に、今更イヅルは何の執着もなかった。
何処へなり連れて行くと良い。
好きに扱って好きにすると良い。
どうでもいい。
本当にどうでもいい。
しかし藍染が熱心に見つめる庭の先、ふと光揺れる銀髪を見付け、ギリリと胸が軋んだ。
「……っっ!?」
不意に涙が溢れる。
ひょろ長い背がぼやけて、血が出るほどに噛みしめた口から、小さく嗚咽が漏れた。
泣いてどうする?
何の意味がある?
イヅルは必死で心を抑えようと自分で自分に爪を立てたが、涙は溢れて止まらなかった。
心の悲鳴が酷くなる。
悲鳴に切り裂かれる心の傷から、殺して殺して殺し続けた想いが覗く。
―――――助けて。
ここから連れ出して。
愛して下さい。
もう一度好きだと言って下さい。
僕を好きだと、もう一度言って下さい。
けれどそれは言葉にならず、ただギリギリと歯を食いしばる音に掻き消えた。
陽の下で揺れる銀髪。
笑う顔。
優しい指。
甘い声。
―――――さようなら。
俯いて、イヅルは目を閉じた。
執事が部屋に戻って「馬車が着きました」と伝える。
「迎えの者が着いたらしい。一人で行けるかな?」
藍染の声に、「大丈夫です」イヅルは答えて、窓から映る市丸の姿に背を向けた。
自分には何も言う事はない。
ただ口を噤んで、御者に促されるまま馬車に足を踏み入れる。
行き先は訊かない。
何処だって同じだから。
もう市丸はいない。
一年……それが早まっただけの話し。
最初から分かっていた別れなのだから、今更嘆く必要はない。
それでも、イヅルの涙は止まらなくて。
俯いて、暗い暗い牢獄のような馬車の中で、ただあの庭にいた市丸の後ろ姿を思い出していた。
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馬車が止まって、御者が「着きました」と扉を開けた。
無言のまま降りた先で、イヅルはぼんやりと薄気味悪い屋敷を見上げる。
「お待ちしておりました」
声に導かれて、視線を降ろすと、少女が一人、扉の前に立っている。
「どうぞ、中に。マユリ様がお待ちです」
「マユリ様?」
呟いて、イヅルは記憶を巡らせた。
確かにそんな名前の貴族がいた。
涅マユリ。
学者…………だったか。
促されて踏み入れた屋敷の中は、外観の不気味さを上回り、ひっきりなしの呻き声や鼻をつく薬品臭が立ち込めて、この世ならざる雰囲気だった。
流石のイヅルも、背筋に悪寒が走り、嫌な汗を掻く。
少女は淡々とイヅルの前を先導し、地下室へと歩を進めた。
イヅルは黙って後に続く。
地下は巨大な研究施設になっているらしく、何をしているのかも分からない様々な色の液体の廻る管やビーカー、フラスコや試験管などが立ち並び、壁一面は大型の機械によって埋め尽くされていた。
少女の歩く先に、裸電球の下で動く白い影が映る。
奇妙な立ち姿を見ながら、イヅルはやっと自分がここに来た理由を推測し始めていた。
「マユリ様、吉良イヅル様をお連れ致しました」
「ああ、そこで待たせ給エ。私は今手が離せないのだヨ」
少女はイヅルに会釈すると、壁際に立つよう身振りで示す。
イヅルが従うと、自分も隣に並んで、涅を見つめた。
静かな空間の中で、涅の手元だけが忙しなく動いている。
―――――何をしているのだろう。
イヅルの位置からでは涅の手元は見えない。
気にはなったが訊ねる事はせず、ただこの先の自分の運命をだけを思う。
藍染は『君は君の価値を思い知る必要があるだろうからね』と言っていた。
あれはどういう意味か。
イヅルの価値はこの部屋にある塵ほどもない。
無用の長物。
むしろ一族の恥さらしな分、いくらか有害だ。
『君には失望したと仰有っておられたよ。貴族に生まれた者として、この程度の使命は果たせると、そう思われていただろうからね』
藍染はそうとも言っていた。
王家はイヅルを見限ったと思っていただろう。
自分はどうなるのか。
消えない塵の行く末など、イヅルには見当もつかなかった。
「ちっ、役立たずがっ!! また失敗だヨっ!!」
突然涅が叫んだ。
金属製の机が蹴られて、キーンという耳障りな音が響く。
「全くどいつもこいつも塵ばかり押し付けて、私を馬鹿にしているのかネ!?」
台詞はイヅルに対する物でもあったらしく、振り返った彼は蔑むような視線でイヅルをじろじろと見つめる。
「ふん、これはまた見事な塵だネ」
イヅルは謝るべきかどうか迷って、ただ会釈して見せた。
「お前、自分がこれからどうなるのか、聞いているのかネ?」
「いいえ」
涅は顎を逸らして嗤う。
「まぁ聞いた所で意味はないがネ。お前は私の実験動物としてここに寄こされた。精々良い結果を出してくれ。此処にいる塵のように、私を失望させるんじゃないヨ」
ゆらりと動いた涅の背後、銀色に鈍く光る机の上、ドロドロの赤い塊に付いた目がイヅルを見た。
「―――――っ!?」
驚きのあまり、イヅルは真後ろの壁に激突して、ガタガタと機械を揺らす。
涅は眉を寄せ、けれどイヅルには何も言わず、少女に向かって「さっさとソイツを部屋に連れて行くんだヨ。このウスノロ!」と喚いた。
―――――あれは生き物だった。
イヅルは吐き気に俯きながら、少女の後に続く。
皮膚が剥がれて肉が溶け、ドロドロの赤い塊と化したあれは、人の頭のように見えた。
錯覚だと思う端から、あんな状態で生きていられるのは吸血族以外にないだろうととも思う。
―――――僕もああなるのか?
イヅルは前を行く少女の背に訊ねようかと迷い、けれど唇は震えただけで言葉を発さなかった。
少女に連れてこられたのは、まさしく牢屋だった。
「ここが吉良イヅル様の部屋になります」
少女が鉄の扉を開き、イヅルを中に促す。
藁葺きのベットに襤褸布が掛けられていた。
錆びた鉄製の盆が一つ、コンクリートの床に転がっている。
窓はない。
電球もない。
虫や汚物がない事だけが救いと言った所か。
何もないその箱の部屋に入ると、少女は扉を閉め、ガチャンと錠の降りる音が聞こえた。
イヅルは扉を背に、ズルズルと床に崩れる。
「ふふふふ」
嗤いが零れた。
とうとうこんな所まで来てしまった。
「はは、ははははははははははっ」
笑いが込み上げて仕方ない。
―――――僕はもう存在する権利さえないんだ。
思ったら嗤えた。
知っていたけど。
本当はもうずっと前から知っていたけど。
もうすぐこの身体もドロドロに切り刻まれて、あの男の手慰みに弄ばれる事だろう。
涅マユリは名のある貴族だ。
さぞやこの木偶の坊を、いやこの無用の塵を、幾ばくかのくだらない成果に役立ててくれる事だろう。
「ははははははっ」
笑いが込み上げて止まらないのに、涙も止まらなかった。
市丸が好きだと言っていた、気に入ったと言っていたこの身体も、もうすぐ無くなるのかと思ったら。
最後にもう一度抱かせてやれば良かったと思った。
どうせドロドロの赤い塊になるのなら、市丸の手で壊して欲しいと、僭越にもそう、思った―――――。
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