水晶体幻想





明かりの差さない箱の中では、時間など知る術はない。

イヅルは堅いコンクリートの上に座り続け、永遠のような時を虚ろに過ごした。

喉が干上がっている。

市丸に血を吸われてから食事も、オドも採っていない。

死なない生き物とは言え、吸血族も腹は減る。

喉も渇く。

イヅルは飢えていた。

そのうえ箱は寒かった。

段々と歯の根の合わなくなってきたイヅルは、ガチガチと歯を鳴らしながら闇に目を凝らす。

何も考えるなと思う端から、恐怖と後悔と悲しみと憎悪が入り混じり、イヅルの心を掻き乱す。

死ぬのならば今が良い。

消えるのならば今消えたい。

いない神に向かって祈ったりしている自分が滑稽で。

けれど数時間か、はたまた何日か後には訪れる苦痛の時を思うと、恐怖で頭がおかしくなりそうだった。

吸血族にだって痛みはある。

人と同じように。

いや、一族の中には身体を切り刻まれたところで何ともないと言う能力を持つ者もいるらしいが、イヅルにとってはそんな特別なことは何もない。

怪我をすれば痛む。

市丸には平気だと言ったが、あれだけ噛み傷を付けられれば、治るまでの陶酔の切れる数時間はひどく痛んだ。

しかし身体を切り刻まれれば、きっとそんな比ではない痛みが襲うはず。

干上がった喉では唾も飲み込めず、イヅルはただ震えて仕方ない身体を抱き締めて、凍える闇に坐り続けるしかなかった。









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鉄の擦れる音が響いた。

キーキーと高い音で錠が外されたことを知る。

イヅルの背後で扉が開いた。

数時間ぶりの光が差し込んで目が痛い。

踞った腕に顔を隠したイヅルに、少女の声が響く。

「吉良イヅル様、マユリ様がお呼びです」

イヅルは自分の身体が無意識に大きく震えだしたことに気付いて嗤った。

―――――まだしがみつこうというのだろうか。なんて浅ましい。なんて醜悪。

まるで体と心が別になってしまったかのように、震える身体とは逆に、心は冷え切っている。

それでも何とか壁伝いに身を起こしたイヅルは、震えてガクガクしている膝を手で押さえて、ゆっくりと少女の後を追った。

「遅いっ!!!」

再会の挨拶は罵声で始まった。

「何をクズクズしているんだネ!? 私は忙しいんだヨ!!!」

涅はどうやら不機嫌らしく、地団駄でも踏みそうな勢いで喚いている。

申し訳在りません。

そう言おうとして、イヅルはすっかり喉が潰れてしまっていることに気付いた。

声が出ない。

しかし涅はイヅルのことなど全く見ていないらしく、少女にイヅルを向かいの椅子に座らせるよう指示した。

「どうぞこちらへ」

少女に腕を取られ、イヅルは鈍く光る銀色の金属椅子に坐らされる。

それは足の先から頭の上まで金属板が支える、丁度歯科医師の使う診察台に似た作りになっていた。

ただ、足首と膝、腿、腹、腕、首、額とそれぞれに金属の輪っかが付いており、椅子に固定される。

身動きできなくなったイヅルは、天井の明かりが眩し過ぎるのに眼を眇めた。

この部屋に初めて来た時は薄暗いとさえ思ったのに。

既にこの目も壊れてしまったのだろうか。

涅は何やらイヅルの真横でガチャガチャと金属の擦れる音を立てている。

今から身体を切り開かれるのだろうか。

それとも何か注射でもされるのだろうか。

どうにでもなれ。

イヅル後頭部が重く痺れるのを感じる。

ただ強い光が目を刺すことだけが辛い。

すると涅の顔がイヅルの顔を覗き込んで、光を瞬間遮った。

「まったく、この忙しい時に何を考えているのかネ」

イヅルに向けての言葉ではないのは分かった。

ぼんやりと涅を見つめる。

「今からお前の眼球を摘出するヨ。私は忙しいんだ。動くんじゃないヨ。邪魔をしたら硫酸のプールに浸けるからネ」

はい。

唇の動きだけで答えたイヅルに、涅は薄く笑った。

「素直な材料は好きだヨ。お前はどうやら自分の分を弁えているようだネ」

意図せずイヅルは気に入られたらしい。

涅は銀色に光る平べったい器具を手に、イヅルの左目に手を掛ける。

右目は閉じて、イヅルただ大人しく涅のされるがままに横たわっていた。

―――――っ!!!」

グリッと言う感触と衝撃。

しかし痛みは一瞬で、左目の衝撃も少ない。

ただ何も見えなくはなった。

「終わったヨ」

―――――え? これで終わり?

イヅルは恐る恐る右目を開く。

血の海を想像していたが、意外にあっさりと、状況は目を閉じる前と変わらない。

ただ眩しい光が自分を照らすだけ。

左目の感触は穴が空いたという感じはしない。

ただ違和感があって、異物感がある。

イヅルは下を向いて何やらしているらしい涅を見つめた。

「見てみるかネ? 自分の目を」

涅はそう言って手元の硝子瓶をイヅルに差し上げる。

透明な水のような液体の中に、丸い球体が浮かんでいる。

青い模様のそれは、グロテスクでもあり、綺麗でもあった。

不思議そうにそれを見るイヅルに、涅は機嫌良く「見事な物だろう?私の手に掛かればこの程度の手術は数秒とかからんヨ」と語る。

「大人しくしていたからネ、特別に義眼を入れておいたよヨ。自分では見えないだろうがネ」

ありがとうございます。

唇だけで礼を述べると、涅は再びイヅルの顔を覗き込んだ。

「お前は面白い反応をするネ。なかなか肝の据わった性格なのか、はたまた神経が破綻しているだけか。まぁ、良い。気に入ったヨ。そう言えば餌を与えていなかったネ。かなり飢えているようだ」

イヅルの拘束が解かれる。

身を起こしたイヅルは、瞬間眩暈に襲われて前倒しに崩れたが、何とか腕で支えて倒れ込むのは堪えた。

その左手にチクリとした痛みを感じる。

見やれば涅がイヅルに注射器を刺していた。

「栄養剤を注入しておいたヨ。身体は大丈夫だろう。後はオドを摂取すれば衰弱も納まるが……」

涅はネムを呼ぶ。

「飼育室に餓鬼が一匹いただろう。後でこれの所に連れておいデ」

「はい」

「大人しく、私に協力していれば気を掛けてやっても良いヨ。これからも自分の分を弁えて、私の実験に協力することだネ」

はい。

栄養注射も喉の渇きは癒さない。

相変わらず声が出なかったので、イヅルは小さく会釈して涅を後にした。

ネムみに導かれ、再びあの箱部屋に連れて行かれる。

扉が閉じると闇の中で、イヅルはくったりと横たわる。

―――――疲れた。

熱も痛みも感じない、見えない左目にそっと手を添える。

あの眼球をどうするのだろうか。

忙しい時に何を考えていると涅は怒っていた。

きっと誰かからの依頼だったのだろう。

目玉でも集めているのかな。

思って、結構綺麗だった自分の眼球を思い出す。

市丸はイヅルの目を気に入っていたようだった。

あれがいつか市丸の手元に行って、愛でられる時が来ると良いなと思う。

役立たずでもこのくらいは価値があるらしい。

嗤って。

けれどきっと藍染が言ったのはこんな意味じゃないと声もなく独り言ちる。

自分には何の価値もないと思えと、彼はそう言うつもりだったのだろう。

実際、もうイヅルには何の権利も残されてはいない。

ただあの男の言う通り、隷属するだけ。

しかしそれがどうしたと嗤う。

今までと何が違うと言うのか。

運命にイヅルの選択肢など最初から無いのだ。

ただ与えられる全てを受け入れて、良いとか嫌だとか勝手に思って、それでも何も変わらない。

瓦落苦多の命なんてそんな物だ。

イヅルは目を閉じて、少し眠ることにした。








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再びキーキー言う金属音で目が覚めた。

あれからどれくらい経ったのだろう。

やはり光で痛む目を庇いながら、イヅルは扉を振り返る。

そこにはネムと呼ばれた少女と、そして見知らぬ少年。

「離せっ!!!」

叫ぶ少年は後ろ手に拘束され、足もよく見れば鎖で巻かれている。

不自由な体をくねらせ、ネムの手を逃れようと抗っていたが、イヅルの前に突き飛ばされて倒れ込んだ。

「っ!!!」

側頭部をぶつけたらしい彼は痛みに踞る。

「マユリ様が吉良イヅル様に、石田雨竜様の血を吸うようにと仰有っています」

―――――石田雨竜。

それが少年の名前らしい。

ネムの言葉に顔を上げた雨竜は、イヅルを睨み付ける。

「化け物め」

悲壮な罵りに、イヅルは薄く笑った。

ネムが扉を閉める。

箱部屋は再び闇に閉じ込められた。

イヅルはただ坐ったまま、雨竜のことなど忘れたようにぼんやりと空を見つめている。

雨竜は身を起こし、イヅルとの距離を取ると、闇の中で様子を窺う。

しかしイヅルに全く自分を襲う意志がないことを悟ると、「血を吸わないのか?」と口を開いた。

イヅルは答えない。

相変わらず喉は潰れている。

「…………喋れないのか?」

ただ闇に飲まれては消える雨竜の言葉を、イヅルは半分聞いていない。

喉は渇いていたが、どうでも良かった。

「…………あんた、吸血族じゃないのか?」

イヅルは声もなく嗤う。

吸血族は吸血族でも、出来損ないの瓦落苦多だ。

存在価値としてはきっとこの少年の方があるだろう。

血を吸ってまで自分の冒して良い命ではない。

踞ったまま動かないイヅルに、雨竜は少しにじり寄る。

さっき一瞬、部屋に光が差し込んだ時に見えた顔は、自分とそう変わらない年の男に見えた。

―――――まぁ、吸血族の年齢は見た目では分からないが。

雨竜はじっと目を凝らして闇の向こうのイヅルを探った。

死んだように動かないイヅルに、雨竜はもう少し近付く。

「相当……弱ってるみたいだな」

同情のようにも聞こえる声に、イヅルはやっぱり声もなく嗤った。

そうしてどれくらいの時が経ったのか、雨竜はイヅルの真横に坐っていた。

「おいアンタ、死ぬんじゃないだろうな?」

死んだところで何か困ることでもあるのだろうか?

イヅルは疑問に思ったが、口には出さない。

「流石に目の前で死なれたら、吸血族だって後味悪いだろう」

なんだそんなこと。

イヅルはこの雨竜という少年が相当なお人好しであることに気付いた。

何だか微笑ましい。

「ちょっとくらいなら飲んでも良いけど……」

雨竜はとうとうそんな事を言いだした。

「でも僕、フリコリシーだから飲めるのかどうか分からないが」

フリコリシー?

イヅルは記憶を巡らせて単語を引き出す。

ああ、確か人と同じ生理組織を持った突然変異型の吸血種……だったかな。

しかし絶滅したって聴いたけど。

イヅルはやっと雨竜を振り向く。

多分イヅルよりも年下の雨竜は、痩せぎす眼鏡でお世辞にも美味い血を持っているとは思えない。

ああまで言っても吸血しようとしないイヅルに、雨竜は眉を寄せ、怪訝な顔で見返していたのだが、お互い闇の中で相手の動向は一切分からないままだった。









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そこへまたキーキー言う金属音が響いて扉が開いた。

眩しい光に手で影を作ったイヅルは、ネムではない者の声を聴いてビクリと身を跳ねさせる。

「おい、生きてるか?」

「あららー、ほんとに何にもない部屋ね。超殺風景」

男の声と女の声。

だれ?

問おうとして、けれどやはり声は出ない。

コンクリートを踏む靴音が近付いて、誰かに腕を掴まれた。

「かなり弱ってるな」

男が言って、「立てるか?」イヅルの身を引き上げる。

「何だ君達は!?」

雨竜の声が響いて、「助けに来てあげたのよ。てかあんた誰?」女の声がのんきに答えた。

イヅルは引かれるままに腰を上げようとしたが、膝が嗤って崩れる。

それを支えてくれた身体に目をやると、銀色の髪が映って、一瞬イヅルはビクリと動きを止めた。

「おい?」

男が訊ねて、イヅルは、違う、と心に言い聞かせる。

違う違う。彼は市丸さんじゃない。

男はイヅルを支えてくれたが、どうやらかなり小さな体躯らしく、引き上げるまでには至らない。

「おい、松本!手を貸せ!!」

「ああ隊長、その子は隊長の身長では無理ですよ」

反対側の脇を別の誰かが支える。

イヅルはどうやら完全にいかれてしまっているらしい目の所為で、上手く状況が把握できない。

隊長と呼ばれた男は不機嫌そうな空気を纏っていたが、イヅルから離れ、雨竜の方に向かったようだ。

「大丈夫?…………じゃないわよね」

松本と呼ばれた女性に訊ねられ、イヅルは、大丈夫です、と口を動かす。

「喋れないの!?」

女は声を落として焦ったように言ったが、イヅルが首を振ると「喉が潰れているのね」と納得した。

ともかく力業でイヅルは部屋を連れ出され、また長い長い地下の階段を今度は登っていく。

何処に行くのか。

助けとはどういう意味なのか。

何も分からないまま、イヅルはただされるがままに階段を登った。






「巫山戯るんじゃないヨ!!!」

涅の喚く声が聞こえる。

木製の扉をノックする音が聞こえて、隊長と呼ばれた男が「吉良を連れてきた」と部屋に入っていく。

「この貸しは高く付くヨ」

涅が凄んだ相手は、長い白髪を背に流してゆったりとソファに腰掛けたまま、「ああ、分かっている」と落ち着いた声で答えた。

男が振り返る。

「やぁ、すっかりやつれちまったな吉良君」

浮竹さん?

イヅルは声の出ない喉で、知人の名を呼んだ。

浮竹十四朗はイヅルと同じ下級貴族でありながら、上級貴族にも劣らぬ高い能力を持った吸血族であり、イヅルの数少ない友人の一人である。

勿論、普段から交友がある訳ではなく、時候の折に触れ集められる貴族としての務めの際に顔を合わせ、誰も話しかけないイヅルの側に偶々話しかけに来てくれる人、と言うだけではあったが。

「かなり弱っているな。声も出ないのか」

憐れみの籠もる声に、イヅルは俯く。

「ともかく彼は俺が引き取ります」

「好きにし給エ」

吐き捨てて余所を向いた涅に、浮竹は黙礼して席を立つ。

イヅルの前まで来ると、そっと髪を撫でられた。

「もう心配しなくて良い。辛い目に遭ったがよく頑張ったな」

大きくて温かい手が頭を撫でる。

イヅルは霞む目で浮竹を見、何か言おうとして、しかしそこで力尽きて意識を失った。









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