硝子の道化師





イヅルは暗い暗い水の畔に座っていた。

物音一つしない静かな湖畔。

黒闇に時折銀色に光る水面を眺めていると、膝を抱えた自分の指先からその闇が浸食し、影となって呑まれていく錯覚を覚える。

―――――どうしてここにいるんだろう。

考えて。

でも分からなくて。

そしてどうでも良かった。

煌めく水面が美しい。

薄く笑んだイヅルは、記憶に残るさらさらの銀色を思い出す。

日の当たる緑の庭に、風に吹かれた銀髪。

さらさらと、煌めいて、とても美しかった。

とても優しい色だった。

どうしてあの時、あの銀髪に走り寄らなかったんだろう。

ちょっぴり後悔する。

きらきらで、さらさらで、ふわふわの優しい色。

でももうここにはあの人はいない。

寂しいな。

思って、イヅルは首を傾げる。

―――――ああ、僕、あの人と一緒にいたかったんだ。

気が付いたところでどうにかなる訳でもないのに、一緒にいたかったと気付いた瞬間、嬉しくて涙が伝う。

一緒にいたいと思えるような、そんな人と出会えていた。

生まれた意味があるのなら、きっと自分にとっては、彼に出会うとがそれだったに違いない。

―――――市丸さん。

今どうしているんだろう。

今、彼はどこにいるんだろう。

彼はまだ僕のこと、覚えていてくれているだろうか。

ふと肩にぬくもりが降りる。

振り向いて、一瞬、寂しそうに笑った市丸の顔を見た…………気がした。








********************************






「気が付いたか?」

「え?」

目覚めると、イヅルは自分がふかふかの上等なベットに寝かされていることに気付いた。

「ここは?」

目の前には長い白髪。

浮竹は「俺の家だよ」と懐こそうに笑って、肩に置いていた手でイヅルの頭を撫でる。

「涅の屋敷から連れてくる途中、気を失ったんだ。覚えているかい?」

「はい。…………何となく」

曖昧な記憶を辿って、イヅルは頷いた。

藍染がやってきて、屋敷を追われたイヅルは、涅の研究室に実験動物として飼われ、左目を失って、そして何者かによって助け出された。

「あの人達は?」

牢屋のような飼育室に入ってきた女性と、背の低い男性。

どちらの声もイヅルに聞き覚えはなかった。

「ああ、彼らは……」

浮竹が背後を振り返る。

横たっわたままのイヅルにひょっこりと顔を覗かせた女性は、「松本乱菊よ。どう?調子は」小首を傾げながら優しく笑う。

「何とか声は出るようになったみてぇだな」

良かったな、とその奥から顔を覗かせたのは、背の低い少年と言って良いような外見の男。

「日番谷だ」

どえやらこの二人がイヅルを部屋まで迎えに来てくれた者達らしい。

「松本さん……日番谷さん……」

イヅルは名前を復唱し、ありがとう御座いました、と礼を述べる。

「へぇ、綺麗な金髪。本当に真っ青な目ね」

乱菊がイヅルの髪に手を伸ばす。

「ギンが言ってた通りね」

「ギン?」

イヅルは思わず縋るような眼差しで乱菊を見つめた。

「ギ……市丸さんを、ご存じなんですか? ……松本さん」

「乱菊で良いわよ。知ってるも何もアイツとは幼馴染みなのよ」

乱菊はベットの端に腰掛け、ふふふと笑う。

「アイツを吸血族に推薦したのもあたしだからね」

しかしそこまで言った彼女の表情は暗くなる。

「貴方には迷惑かけちゃったわね」

目線を外した乱菊は、イヅル足先の方を見て溜息を吐いた。

「…………どうかされたんですか?」

イヅルはそんな乱菊の様子に胸騒ぎを覚える。

身を起こしたイヅルの背を、浮竹が手を伸ばして支えてくれた。

「実は面倒なことになっててな」

深刻そうな口調に、イヅルは浮竹を真っ正面から見つめる。

「彼に……市丸さんに何かあったんですか?」

身を乗り出したイヅルを制して、しかし口を開いたのは日番谷だった。

「行方不明なんだ。藍染の野郎と市丸と。王室から指名手配が掛かってる」

「指名……手配?」

眉根を寄せたイヅルに、「ああ」と頷いた日番谷は、手に持っていた書状をイヅルに差し出した。

書面に目を通したイヅルは、呆然と目を見開く。

そこには吸血貴族である藍染惣右介が、王家の所蔵する要素結晶を盗みだし、逃亡に荷担した者として市丸ギンの名前が記されていた。

「これ……どういう、ことですか?」

自分が閉じ込められている間に一体何が起こったというのか。

イヅルは訳が分からなくて、三人の顔を順繰りに見つめる。

「今分かっているのは、王室の所蔵する要素結晶が盗まれたことと、その犯人が何らかの形で藍染であると判明されたこと、またその逃亡にどういう形が分からないが、市丸君が関わっていて、彼ら二人の行方が分かっていないこと、それだけなんだよ」

「王室は結局、どうやって盗まれたのか、藍染の目的は何なのか、そう言うことは一切公表していない」

浮竹と日番谷の言葉に、イヅルは項垂れる。

そんなイヅルの様子に、隣で溜息が聞こえた。

「手紙が来たのよ」

乱菊は懐から別の書状を取り出してイヅルに渡す。

「二日前の事よ。差出人のない手紙が届いたの。あたし宛にね。中身を読んでびっくりしたわ。消えたはずのギンから、貴方を助けて欲しいって書いてあって、すぐに隊長と浮竹さんに知らせたの。そしたら」

「君を涅の元に送るよう手はずを整えたのが藍染であることが分かったんだ」

浮竹が乱菊の言葉に頷く。

「吉良君、君は三日前に左目を失ったね」

「……はぃ」

イヅルは義眼の入った左目に手を添わす。

「それを依頼したのもまた藍染だったんだよ」

―――――まさか。

イヅルは思い付きに蒼白になる。

藍染の元に届けられた摘出された眼球。

そしてイヅルを助けて欲しいという市丸からの手紙。

「彼は…………それを見て…?」

「多分ね」

頷いた浮竹に、イヅルは飛びついて喚いた。

「じゃあ、じゃあまさか彼はっ、市丸さんはっ」

「落ち着け」

イヅルの肩を押さえた浮竹が、「まだ何も分からないんだ」と眉を寄せる。

「でもっ」

イヅルは気が気ではない。

市丸はイヅルを案じてくれた。

指名手配なんて掛かっている時に、手紙まで出して、助けて欲しいなんて。

それはイヅルの瞳を見たからではないのか?

摘出された瞳を見て、市丸はイヅルの状態を心配してくれた。

つまり危ないところにいるのだと知っていると言うことだ。

それを自分で助けに来なかった。

勿論、イヅルに会いたくなかったからかも知れない。

ただ単に姿を見られるのを恐れてかも知れない。

それでも、市丸が危険を承知でイヅルを他人任せにするとは到底思えなかった。

その上あの手紙だ。

姿を見られるのを恐れるくらいなら、他人に手紙なんて送らない。

きっと自分で助けに来る。

それをそうしなかった理由は
―――――

「市丸さん……」

肝の冷える思いで、イヅルは喘ぐ。

「僕の所為だ」

頑なに心を閉ざし、市丸を拒絶して、藍染に付け入る隙を与えてしまった。

「どうしよう」

顔を歪めたイヅルに、三人はただ同情の眼差しを送る。

「助けに行かなくちゃ」

少なくとも市丸の安全を確認しなければ、イヅルは安心できない。

「情報を……あるだけ全部の情報を下さい。お願いしますっ」

頭を下げたイヅルに、浮竹の優しい手が伸びる。

「落ち着けよ、吉良。お前一人が心配してるんじゃない。藍染のことだって、本当のところ、どうなっているのかさっぱり分からないんだ。真相を知りたがっている者は多い。きっと君の味方になる」

涙目で顔を上げたイヅルは、苦笑する浮竹と乱菊の顔を見て、涙を滲ませる。。

「大丈夫よ。アイツは簡単にやられるタマじゃないんだから」

「はい」

凍てつくような宿命の先に、ぼんやりと光が浮かぶ。

何もないと思っていたイヅルのまわりに、優しい腕が交差する。

最初にイヅルを好きだと言ってくれたのは市丸だった。

笑いかけて、イヅルの排他的な態度に真剣に怒って、そしていつでも真実の笑顔を求めてくれた。

手を伸ばせばちゃんとそこにあったはずなのに。

―――――ごめんなさい。

顔を合わせたら最初にそう、謝らなくちゃならない。

イヅルは膝を抱き込んで、ベットの上で丸くなる。

―――――ごめんなさい、市丸さん。

声を殺して泣くイヅルを、浮竹は優しく撫でてくれた。

「少し休め。まだ身体が本調子じゃないんだ。無理をすると倒れるぞ」

肩を押して布団に横たえると、「また新しい情報が入ったら教えるから」浮竹は部屋を出るよう乱菊と日番谷に合図する。

静かに閉じられた扉の音を聞きながら、イヅルは祈った。

―――――どうか、どうか無事でいて下さい。市丸さん。

それは初めて、自分以外の誰かの為にする、切なる祈りの言葉だった。











***********************************













「じゃあ松本さんも元は人族だったんですか」

何日かぶりのまともな食事をして、イヅルは向かいに座る乱菊に話しかけた。

「そうよぉ。ギンと同じ孤児院で育ったの。でもアイツ、14の時、突然ふらぁっと姿を消してさ。それきり。暫く見掛けなかったと思ったら、去年突然訊ねて来ててさ、吸血鬼を紹介して欲しいって」

乱菊は笑う。

「どこから聞きつけてきたのか、あたしが吸血族になったことを知っててね。自分もなりたいから、吸血鬼を紹介しろって言うのよ。それでまぁ、駄目元で頼んでみたら、オッケーが出ちゃって。そんであんたんとこに行ったワケ」

「自分で希望して……」

人族が吸血族の仲間入りをする時は、大抵吸血族側に目を付けられて交渉に入る。

人族側からそれを要求されることは少ないが、元々吸血族の存在をはっきりと認識している者自体が少ない所為だ。

それを自分からと言うのはどういう事だろうか、とイヅルは首を傾げる。

「永遠の命でも欲しかったんでしょうか」

呟いたイヅルに、「違うんじゃない」と乱菊は答えた。

「アイツはそんなロマンチストじゃないわよ。多分……興味以外に動機があるとすれば」

コーヒーを一口飲んで、乱菊はにやりと笑う。

「人族では手に入れられない何かを見付けたかったんじゃない?」

「人族では手に入れられないもの?」

イヅルは瞳を瞬いて考え込んだ。

人の目で見る世界、吸血族の目で見る世界。

そんなに違うものなのだろうか。

首を傾げたイヅルに、乱菊は「ほらこれ」と自分の腕時計を指さす。

「時間によって寿命の限られた人間は、時間にとても執着するわ。良くも悪くも身体の動く間も限られている。だとしたら時間に執着するのも、利益や快楽を得るのに焦るのも、肯ける話しでしょう?」

なるほど、とイヅルは頷く。

吸血族にとって時間ほど無頓着なものはない。

時間は飽きるほど、使い切れないほどあるものだ。

何をするにも焦る必要など無い。

そんな事よりも、何かに集中していられる、そんな刺激を求められることの方がずっと魅力的。

一瞬でも多くの時を恋や快楽に費やしていたい。

永遠を忘れていたいと望むのが吸血族の心理なのだ。

しかしそれを見付けてどうするつもりだったのか。

イヅルはやはり首を傾げる。

吸血族からすれば、時間によって定められた命を生きる人族の方が、ずっと色々な物を手にしているように思えるのに。

それを言うと乱菊は「隣の芝生はいつだって青く見えるものなんでしょ」と笑った。

「それよりそろそろアンタ、血を吸わないと干涸らびるわよ」

「…………そうですね」

イヅルは俯く。

吸血の必要頻度は個人差がある。

多分吸血族としての特殊能力によっても、その必要量などが変わるのだろう。

イヅルにとって、オドは過剰に摂取しても消化しきれない要素であり、その吸血頻度は1〜2ヶ月に1回程度で済む。

実に少量で燃費のいい身体なのだが、今回は市丸にそれを分けてしまっている為、確かに喉が渇いている。

だが、それは同時に市丸の渇きでもあるはずだった。

最初の吸血行為で分け与えたオドは、夫婦間で暫く共有される。

それは人間の初乳と同じで、イヅルの体内で生成されている免疫や栄養素のような物を市丸の身体に分け与えた訳だが、オドは吸血族の生命の根元であり、いわば体内機能として存在する心臓とは別に、乖離された第二の心臓のようなものである。

最初の吸血でそれを共有すると、一年間、この目に見えないオドという要素は夫婦となった吸血族間に空間や距離を無視して共有される。

つまり市丸が渇けばイヅルも渇き、イヅルが渇けば市丸もまた渇いていると言うことになる。

あの暗闇の箱部屋で、イヅルが激しい渇きと空腹に苛まされていた時、市丸もまた同じ飢餓に苦しんでいたはずだった。

今はまだマシだとは言え、やはりイヅルは渇いている。

それは市丸が何処かで誰かを吸血したからに他ならないが。

「松本さん」

重々しく呼びかけたイヅルに、暢気にクロワッサンの欠片を囓っていた乱菊が視線を合わせる。

「市丸さんと血を分けたのは、一度だけなんです。そんな成り立ての吸血族が、人から吸血することが出来るんでしょうか」

苦しめたかった訳ではないが、イヅルは自分のことで手一杯で、涅の所にいる間とても市丸のことまで考えやれる余裕はなかった。

しかし一旦、命と身体の安全を得ると、市丸のことが気がかりでならない。

「一回じゃ無理でしょ。他の吸血族から血を分けて貰わなきゃ、吸血したところで吐くわよ」

「そうですよね」

それは、今、あの時に比べて治まった渇きはつまり、市丸が他の吸血族に血を与えられたと言うことに結論する。

―――――藍染さんと……交わったのだろうか。

何故か心が痛くて、イヅルは俯いて唇を噛みしめた。

そうしなければ今頃、ひどい渇きに立っていられない状態になっているはずだと分かっていても。

市丸が他の者と交わるのも、吸血するのも考えたくない気持ちになる。

しかも現状では、下手をすれば藍染の元で、市丸はそれを強要されている可能性だってあるだろう。

もしも藍染が真実王室の遣いであったのなら、然るべき新たな相手を市丸に与え、特別な儀式をもってイヅルとの共有を断ち切り、今イヅルが渇きに癒されているはずはないのだから。

もしかして自分は、市丸に言うことを聴かせる為の、道具にされているのではないのだろうか。

イヅルはそれが奢りでも、可能性がなくもないことに焦りを感じる。

せめて、せめてきちんと食事とオドを採るべきではあるのだが。

「あの」

イヅルは思いきって乱菊に自分の秘密を打ち明けた。

「僕は……一人では人間を狩ることが出来ないんです」

「へ?」

乱菊は素っ頓狂な声を上げる。

「アンタ、生粋の吸血族じゃなかったっけ?」

「そうなんですが」

イヅルは俯いて、それでも苦々しく先を続ける。

「僕は、本当に、何の力もないんです。獲物とする人間を、催眠にかけたり、意識を失わせたりする事が……その、出来なくて。だから」

イヅルがオドを採る時は、誰か他の吸血族に獲物となる人間を狩って貰い、それを分けて貰うしかない。

恥ずかしい話しだが、18年間、そうして何とか生きてきたのだ。

だからイヅルの無能さは、ある意味、それに付き合わされた吸血族は皆知っていること。

王室がそれでも何とかイヅルに狩りの仲間を下賜してくれたのは多分、その純血種としての貴族の価値を認めて。

市丸のような、将来有望な新たな仲間を引き込む為の道具として。

それでも今はそんな事を言っている場合ではない。

少しでも市丸の憂慮を減らして、彼の身の安全を図らなければならない。

「お願いします。狩りに……付き合って貰えないでしょうか」

頭を下げて頼み込む。

乱菊は驚きに止まっていたが、「それは構わないけど」とあらぬ方を向いて思案する。

「実はちょっと面白いものを一緒に連れて帰ってきたのよね」

アンタと。

にやりと悪戯そうに笑う瞳が、どこか市丸と似ている気がしてイヅルは少し鼓動を早める。

「フリコリしーらしいんだけど、アンタと一緒に捕らえられてた少年。あの子に頼んでみたら?」

「え?」

確かに、そんな事を言っていた少年がいた。

―――――石田雨竜とか言う……。

イヅルは途切れ途切れの暗闇での記憶を辿って、雨竜のことを思い出そうとしたが、随分とお人好しな少年だという感想を持ったことしか思い出せない。

あの暗闇にあっては、姿を認めることは出来ない道理であるのも確かであった。

「ほらほら、フリコリシーが全滅した理由。確かあれでしょ? あの子達の血は、人間でも吸血族でもない特別な力があるって。秘薬とか儀式とかに使われて、それでいなくなったらしいじゃない」

「でもフリコリシーの血は、どんな作用があるか、個人によって異なるって確か」

「でも飲んで死んだ例は無いんでしょ?試してみるくらいなら大丈夫なんじゃない」

笑った乱菊の後ろに、不意に日番谷が現れた。

「辞めとけ」

「うわぁっ!?」

驚いた彼女は盛大に驚嘆の声を上げて振り返る。

「隊長っ!!突然後ろに立たないで下さいよっ」

「隊長?」

そう言えばあの部屋にイヅルを助けに来た時からずっと、乱菊は日番谷を隊長と呼んでいた。

今更疑問を持ったイヅルが首を傾げると、「ああ、王室十三師団隊の隊長なのよ」乱菊が簡素に説明する。

「王室十三師団隊……」

簡単に言えば王室所有の吸血族軍の師団長と言うこと。

それはつまり吸血族の中でも特に抜きん出て能力の高いエリートと言うことで。

「初めて見ました」

イヅルには全く関わり合いのない世界の人種である。

「フリコリシーの血を吸うのは辞めておけ。どんな副作用が出るか分かったもんじゃねぇ」

日番谷は腕組みのままイヅルを睨む。

自分の話題には乗らなかった日番谷の言葉に、イヅルは頷いてそしてその小さな姿をまじまじと見つめた。

「日番谷隊長は、どんな能力を持ってらっしゃるんですか?」

「……氷斬系だ。水と氷を操る能力だな」

純粋に興味だけで訊くイヅルに、日番谷は面倒くさそうに、それでもきちんと答えてくれた。

「凄い。水と氷を操れるなんて」

まるで御伽噺に出てくる吸血鬼だ。

イヅルは憧れと尊敬の眼差しで日番谷を見つめる。

「あたしも灰を操れるわよぉ」

乱菊が日番谷の前に割り込んで、「あたしも褒めて」とイヅルに詰め寄る。

「灰ですか?」

「そ。自分や相手を灰にする事は出来ないけどね。灰を出現させて、操って、戦えるのよぅ」

「…………凄いですね」

痛そうに笑ったイヅルは、目線を逸らした。

元人族の乱菊の方が、イヅルよりもずっと優秀。

そんな事は分かっていたが、やはり突きつけられると心苦しい。

「日番谷隊長も……元は人族なのですか?」

話題を変えたイヅルに、日番谷は「いいや」と答えた。

「人族の間で育ったけどな。俺は元々は純粋種だったらしい」

「人族の……間で?」

「何の手違いか、人間として育てられてたんだよ」

「それはまた……大変でしたね」

「ふん、別に」

日番谷はそう言って余所を向いたが、その小さな姿から、幼い頃にオドを十分に採らずに、大きな変調の元で育ってきたことは見て取れる。

「でも今は、王室十三師団隊の隊長をされるほど……なんですね」

凄いです。

呟いて薄く嗤ったイヅルに、日番谷が手を伸ばした。

「別に良いんじゃねぇか? 特殊能力がないくらい、お前の価値はそんな事で無くなったりはしないだろう」

椅子に座ったイヅルと、ほぼ目線の同じ日番谷は、強い瞳でイヅルを見つめる。

「そんなこと……僕は出来損ないですから」

その目を見つめていられなくて、イヅルは俯いてしまう。

しかし日番谷の手はそれを許さず、顎を掬うと、無理矢理顔を覗き込んだ。

「お前は綺麗だ。吸血族の中でも金髪碧眼は珍しい。それにこの色、明るい金や碧なんて、俺は初めて見た。この容姿ならどの貴族でも引く手数多だろう。人族を引き入れるにしても、十分な理由になる」

笑う彼はイヅルよりも年が上なのが、その空気から読みとれる。

至近距離の褒め言葉に、イヅルは頬を染めて、顎を捕らえられたまま瞳だけを泳がせた。

「獲物を狩る必要はない。俺の血を飲め。お前にだったら分けてやろう」

緑青の瞳が間近で誘う。

日番谷は力を使ってなどいないはずなのに、イヅルは目を逸らせない。

緊張に喉を鳴らしたイヅルに、日番谷が牙を剥いた。

「大人しくしていろ」

囁きに続いて、首筋に鈍い痛みが走る。

「っ……んっ」

甘い陶酔。

重く身体を駆けめぐる痺れ。

「あぁ…………っ」

目を伏せて快感に沈んだイヅルを背に、乱菊が部屋を出ていく音がした。

耳元近くで日番谷の喉が鳴る音がする。

一際きつく吸われて、イヅルは無意識に日番谷の首に手をかけた。

「吸え」

短い命令に、イヅルは牙を剥く。

項に牙を立て、数週間ぶりの血を吸い上げる。

「……っ」

吸って、吸われて、快感に墜ちていく。

イヅルはこの感覚が嫌いで仕方なかった。

生理的なこの快感に流される身体が、心が、嫌で嫌で仕方ない。

望んでそうするのが良かった。

けれどこれは食事なのだ。

否応なしに、そうしなければ生きていけない行為。

細く血を吸うイヅルの後頭部を、日番谷はそっと撫でてくれた。

「お前は綺麗過ぎなんだ」

呟きは空気中に霧散する。

「諦めろとは言わないが、もっと上手く生きろ」

そっと牙を引き抜いたイヅルは、緩く首を振って否定する。

「嫌です。嫌なんです。僕は、一人の人を愛したい。一人の人だけを愛して生きていきたい」

馬鹿みたいな、それが真実。

イヅルの願い。

性交にも似たこの錯覚に、イヅルは墜ちる身体に爪を立てる。

「力なんかなくっても、貴族なんかじゃなくっても、僕……っ」

不意に奪われた唇。

瞳を見開いて、イヅルは険しい日番谷の顔を見る。

歯列を割った舌は、強引に口腔蹂躙した。

「んんっ……んーっ!!」

椅子の背もたれに押し付けられて、強い力に抵抗もままならない。

嫌だと思う。

違うと心が喚く。

「っ……」

唇が離れた瞬間、イヅルは横倒しに逃げて市丸の名を呼んで崩れた。

日番谷の足もとで踞るイヅルは、泣きながら震えている。

諦めて、どうでも良いと、仕方ないと、何度となく言い聞かせてきたはずなのに。

自分が汚れることはこんなにも恐ろしい。

こんなにも許せない。

「この身体は市丸さんにあげたんです」

言い訳のようにイヅルは喘ぐ。

「一年間は、市丸さんの物になるって、決めたんです」

その後に、他の誰かを受け入れることが出来る保証なんてないけれど。

子供っぽいと、自分でもそう分かっていながら、まだ諦めたくはなかった。

好きも嫌いも良いも悪いも、イヅルはまだ自分の心と向き合おうと思ったばかり。

市丸のことだって、どうしてこんなに固執するのかまだよく分からない。

生きて行こうと決めたのは、市丸を助ける為、それだけだから。

出来損ないでも譲れない物がある。

イヅルは身を縮めて、硬く、日番谷を拒絶した。

「とんだ不器用者だな」

呆れた声が振る。

「だから、きっとそれがお前の価値だ」

足音が遠離り、ぱたんと部屋の扉が閉じた。

イヅルは涙目を上げ、自分が部屋に一人であることを確認すると、大声を上げて泣いた。

思えば、これが初めての号泣だった。








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