謝罪の理由
イヅルが涅の屋敷から助け出され、早三週間の月日が経とうとしていた。
「何の情報もないんですか?」
イヅルは毎日のように浮竹の書斎を訊ねては、同じ遣り取りをするのが日課になってしまっている。
「ああ。王室十三師団隊も方々手を尽くしているようだが……」
藍染と最後に接触した重要参考人として、イヅルの側に付いている日番谷以外の隊長は、全員日々藍染の捜索に手を尽くしているらしい。
それでも何の手掛かりもないと言うのだから、イヅルに動く余地はなかった。
ただ来る日も来る日も市丸の身を案じ、保護され、ある意味では囲われたこの屋敷で、緩やかな時を過ごすだけ。
―――――このままずっと、市丸さんに会えなかったらどうしよう……。
イヅルはそんな日々に、自分の心境の変化を感じていた。
これまでは自分以外の全ては自分を否定する為にあると頑なに信じて疑わなかったイヅルだが、今は逆に、自分以外の誰かに自分を肯定して貰うことで、自分を保っている自分に気付いている。
勿論その最初は市丸で。
―――――まだお礼一つ言っていないのに……。
イヅルはあてがわれた部屋の窓辺に椅子を寄せ、果てなく続く空に願う。
―――――どうか無事でいて下さい。
両手を組んで深く頭を垂れたイヅルは、背後で響いたノック音に振り返る。
「はい?」
扉を押して入ってきたのは日番谷だった。
「ちょっと良いか? 王室からお前に、書状を持ってきた」
「え?」
今朝から姿を見ないと思っていたら城まで行っていたのか、とイヅルは納得しながら立ち上がる。
「どうぞ、そちらへ」
ソファを勧め、自分も向かいに腰掛けながら、日番谷の差し出す書状を受け取った。
「ここで読め。俺も内容を知っておきたい」
日番谷がそう言うので、イヅルは封を解いて中の文に目を通す。
「―――――っ!?」
しかしそこに書かれていたのは思ってもみない内容で、イヅルは驚愕に瞳を見開いた。
そこには市丸との正式な契約破棄の要求と、次なる相手との引き合わせの日時が簡素に書かれている。
「そんな……」
青くなって震え出したイヅルの手から、日番谷が「貸せ」と書状を奪った。
「……まあ、市丸の動向が知れない以上、いつかは来るとは思っていたが」
早いな、と感想を漏らす。
イヅルは「嫌ですっ」と叫んで俯いた。
「絶対に嫌です。大体市丸さんがその窃盗に本当に関わっていたかどうかも分からないのに、次ぎの相手なんてっ……そんなの……嫌ですっ」
市丸が藍染の逃亡を手伝った、と言う情報は、結局それ以上詳しいことも分からないままだった。
逃亡先も不明なら、逃亡理由も不明。
大体市丸に藍染を手伝う理由があるかどうかさえ疑わしいのに。
あったとして、自分の所為である可能性がある限り、イヅルに心の余裕はなかった。
市丸に例え飽きられ、もう自分では嫌だと思われていたとしても、それを本人の口から聴くまでは納得したくない。
イヅルは唇を噛んで、正面の日番谷を見つめた。
「拒否を……することは出来ませんか?」
日番谷は上体を前のめりに、眉を顰めていたが、「申請はしておいてやる」とだけ言った。
「どうなるかは分からねぇがな」
「はい……」
それでも、とイヅルは一縷の望みをかける。
それでも易々とここで頷いてしまうほど、イヅルはもう自分の命に、存在に、卑屈ではなかった。
「お願いします」
頭を下げたイヅルに日番谷が頷いて部屋を出ていく。
一人取り残された静寂に、イヅルは焦れて、そして決心した。
―――――市丸さんを捜しに行こう。
当てなど無くても、ここに立ち止まっているのと、彷徨うのとでは、きっと余り変わらない。
持ち物はない。
身一つで充分。
夕食を終え、屋敷の者が寝静まるのを待つ。
イヅルは別に監禁されている訳ではないので、庭先までの出入りは自由だ。
眠れない夜に風に当たる振りをして、そっと屋敷を抜ける。
気配を消す術や、姿を消す法など特別な事は知らないし、出来ない。
音をさせないように走るだけ。
浮竹の屋敷は郊外にある。
街に出る為の道は一本、延々と続く麦畑を突っ切る公道を行くしかないが、そこを通れば人目に付く。
仕方がないので迂回して、イヅルは畑の中、道無き道を歩いて遠くに見える森を目指した。
そこに入って、一旦川岸を下り、山を越えて別の街へ出る。
そうすれば何の力もないイヅルとは言え、少しは時間稼ぎになるだろうと必死で足を動かす。
夜明けまではまだ数刻ある。
日番谷当たりに気付かれないとは思えなかったが、まだ止められない。
連れ戻されるところまでは行こうと足を速めた時、風の音とは違う麦穂の揺れる音がした。
「……?」
闇夜に目を凝らし、腰辺りまである麦穂の波を見回す。
誰もいない。
勘違いだったかと、急いで前方を剥き直った瞬間、筋肉が嫌な音を立てて固まった。
「……っぅ」
口も動かない。
動かせなくなった視界に、黒い影がゆらゆらと空気の層から形を作り出した。
長身な、人の影、布に垂らしたインクがじわじわと染みるように、姿を現したのは藍染だった。
「やあこんばんは」
―――――藍染っ!?
イヅルは声も出ないまま彼を凝視する。
「わざわざ結界から出てきてくれてありがとう。とても仕事がやり易かったよ」
―――――なん……だって?
藍染はイヅルに近付くと、そっと左の前髪を梳き上げる。
「ああ、義眼を入れたんだね。よく似合っている。君の瞳は、とても役に立ってくれた」
―――――何に使ったんだっ!!
視線だけを険しく、身動き一つ、声一つ漏らせないイヅルに、藍染は嗤う。
「でも彼が煩くてね。どうしても君の顔を見るまでは仕事をしないと言うものだから。不本意だが、君も連れて行くことにしたんだ」
―――――何処へ?
彼というのは市丸のことか、とイヅルは出ない声に苛々を募らせる。
藍染の手がイヅルの顎を掬う。
親指が薄い下唇をなぞり、眇めた眼が酷薄に嗤った。
「役に立って貰うよ」
赤い舌が伸びて、動けないままのイヅルの唇をなぞる。
おぞましい感触に、目を閉じることも出来ず、ただイヅルはされがままに、胸をむかつかせた。
藍染の腕がイヅルの肩を抱く。
抱き込まれ、顔を胸に押し付けられるように、車にぶつけられるような衝撃が襲って、思わず頭がくらくらと揺らいだ。
地に足がついていない。
藍染は移動しているようだが、その方法は分からなかった。
ただされるがままに、人形のように持ち運ばれる。
指先一つ動かせないまま、イヅルは自分の無力に歯噛みした。
自分が利用されることはどうでも、市丸にもしかして迷惑が掛かるかも知れないと思うと、屋敷を出たことを後悔した。
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足が地に着いた途端、イヅルは背中からシャツを掴まれ、頭から後方へと勢いよく放られた。
「―――――っ!?」
固い地面を予想して身構えた身体は、盛大にスプリングを軋ませてふかふかの羽毛布団の上に墜ちる。
「な……なに!?」
いつの間にか身体は動くようになっていた。
言葉も喋れる。
しかし今度は薄笑いを浮かべた藍染に腕を掴まれ、頭上に縫いつけられると、押し倒されて捕らえられる。
「さて、おとなしくしていたまえ」
「な……に、まさか……?」
のし掛かられて、見上げた藍染の顔が近付く。
慌てて顔を背けると、首筋に口吻された。
「……っ!?」
「僕も君にこういう興味は持っていないのだけどね。協力しなさい」
不似合いな落ち着いた声の命令に、イヅルは首を振る。
「やっ……嫌だっ!!!」
腕は動かせなかったが、足は自由なので散々に藻掻く。
腰も使って身をうねらせ、少しでも逃れる隙を作ろうと必死に暴れた。
「聞き分けのない子はいけないな」
藍染の声に焦りの色はない。
「ぅぁあっ!?」
藍染声の聞こえた途端、再び筋肉が硬直する。
イヅルは藻掻いていた形のまま固まって、藍染の手で顔だけを正面に向けられた。
「君が僕に敵う訳がないだろう? それともそんな事も分からないお馬鹿さんなのかな? 君は」
至近距離のブラウンの瞳が嫌らしく嗤う。
「おとなしくしていなさい。良い子に」
言い含める口調は至って穏やかで、むしろ子供に言うように優しいとさえ感じる。
しかし瞳は冷ややかで、これ以上もなくイヅルを軽蔑しているのが伝わってくる。
「ああ……これでは不便だね。硬直は解こう。君には余計キツイかも知れないが」
イヅルの唇は動かない。
しかし藍染の言葉に、藻掻く形のまま固まっていた四肢は力無くベットに堕ちた。
それでもイヅルの意志では動かないことは一緒で、藍染にされるがまま、無抵抗に横たわっている。
―――――どうして?
ボタンを外され、露わになっていく胸を絶望に見つめる。
身体を抱き起こされ、シャツを脱がされた時も、イヅルはまるで傍目からは同意のように、おとなしくされるがまま。
唇も動かない。
瞬きさえ自分の意志では出来ない。
ただ定期的に自動に瞬かれる視界に、眼球だけを動かして。
「これでも良いが……やはり自分で動いて貰う方が楽だね」
藍染はまた独り言ちて、イヅルはまた不思議な感覚に身を起こす。
―――――な、なんで!?
起き上がった手が、勝手にズボンのバックルに掛かる。
イヅルの足元に膝をついた藍染の前で、意志に反して勝手に身体が服を脱ぎ捨てた。
―――――嫌だっ!!!
一糸纏わぬ姿で、藍染を見つめる自分の身体。
頬に生温い感触が伝い、自分が泣いていることを知る。
「おや、やはりキツかったかな」
藍染の手が伸びて、堕ちる寸前の雫が拭われた。
「まずは出来るようにして貰わなくちゃね。本番はこれからなんだから、今から泣いていたら保たないよ」
優しい微笑を裏切る冷たい目。
イヅルは前のめりに上体を折って、藍染の前に膝をついた。
―――――嘘だ。
イヅルの瞳からは涙が止まらない。
指が藍染のズボンへ、チャックを降ろす。
身体が操られていることは明白だが、これは自分の身体なのだ。
吉良イヅルの身体なのだ。
市丸にあげた、市丸の身体なのだ。
―――――いやだぁぁああああっ!!!
悲鳴を上げる胸中に反して、まだおとなしく納まっている藍染のそこに、口を近付づける。
下着から取り出したものに指を絡ませ、開いた口にそれを飲み込もうとした瞬間、轟音と共に部屋のドアが開いた。
なに、と思う間もなかった。
銀色に閃く刀身が視界を遮る。
藍染がいた場所に突き刺さったそれは、しかし目標を外してベットにゆらゆらと刀身を揺らした。
イヅルは藍染に指を絡めていた格好のまま止まっている。
振り向くことさえ出来ずにただ状況を聞き入っていると、懐かしい声が怒りを顕わに叫んだ。
「おっさんっ!!! どこ行ったっ!!!」
―――――市丸……さん?
動けないまま、イヅルは後方の気配に囁く。
―――――市丸さんなの?
床を鳴らす硬い靴音。
近付いたそれはイヅルを真横から強い力で抱き締めた。
「危なかったぁ……イヅル」
―――――市丸さんっ!!!
叫んで、飛びついて、抱き締めて、無事を確認して口吻たかったのに、イヅルの身体は動かない。
指先も卑猥なそれに絡めていた形のまま。
涙だけが滔々と流れ、呼気だけが小さく乱れた。
市丸の手がイヅルの手を握り込む。
懐かしい瞳に覗き込まれて、イヅルはただ泣いた。
「よしよし、もう大丈夫やから。怖かったな……イヅル」
―――――市丸さん。
唇一つ、指先一つ動かせないまま、市丸の胸に抱き込まれる。
頭を撫でられあやすように、よしよしと囁かれて。
ぎちぎちに固まっていた訳ではない身体は、市丸に握り込まれると素直に形を変えて胸に納まった。
「あのおっさん、ホンマ、後で殺しとくから。イヅル、もう心配せんでええよ」
―――――無事なんですか? 元気なんですか? 辛い思いをしていたのではないのですか?
訊きたいことは山ほどあったが、半開きの口のまま、イヅルはただ泣く。
市丸の腕がイヅルのシャツを拾い上げ、腕を通して着せ掛けてくれた。
市丸に目に付く傷や衰えはないようだった。
イヅルはされるがままにしている外無くて、無言で、ここは何処なのだろうとと考える。
首さえ自由に動かないまま、ただ立派な部屋であることは分かった。
高価な調度品や家具から、多分藍染の私邸なのだろうと思われる。
市丸が部屋に飛び込んできたことを考えても、彼が閉じ込め似られていたと言うこともなさそうだ。
もしかしたら初めからイヅルに最後まで手を出すつもりは無かったのかも知れない。
「イヅル」
すっかり身支度を整えてくれた市丸は、イヅルを覗き込んだ。
―――――市丸さん、無事で良かった。
笑いたかったけれど、頬が動かず、市丸に伝わったかどうかは怪しい。
市丸の瞳は苦しそうに歪められていた。
「イヅル、どこか痛いとかないか?」
答えられないと分かっていて訊いているようで、イヅルはただ市丸を見つめる。
「瞳ぇも……痛ないか?」
市丸の指先がイヅルの左前髪を梳いた。
―――――ああ、そうだ。市丸さんが気に入っていた瞳なのに……。
イヅルは少し残念に思ったが、目の前の市丸の憔悴ぶりに余計胸を痛める。
「ああ、……くっそ。ほんまにあのおっさん……っ」
痛そうに歪められた顔に、イヅルの胸も痛む。
―――――大丈夫です。
そう言いたくて、けれど唇は動かなくて。
市丸はイヅルを抱き上げると、部屋を移動した。
「ともかく催眠、解いてしまわなな」
久しぶりに感じる市丸のぬくもり。
離れていた間は多分、二ヶ月と経っていないはずなのに、もう随分と離れていたような気がして。
涙が止まらなかった。
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市丸は長い廊下を歩いて、目的の部屋に入ると、イヅルを抱えたまま結界を扉に描いた。
―――――いつの間に?
イヅルも勿論、その法は知っているが、描いたところで発動はしない。
しかし市丸がそれを描き上げると、図形は鈍く光って木戸の中に埋まって消えた。
イヅルは驚いて市丸を見上げたかったが、生憎首は自分の意志で動かないまま。
市丸はまず浴室にイヅルを連れて行き、「ちょお冷たいで。堪忍な」とタイルの上に座らせた。
ボールに冷水を溜める。
イヅルに向き直ると、何やら聴いたことのない呪詛を唱え、そっと雫を撒いた。
「…………ん」
やっと口が閉じて、身体に怠いような感覚が戻ってくる。
「イヅル、動くか?」
「……はぃ」
身体が鉛のように重い。
「おっさんの完全催眠に掛かっとったんや。暫くは抜けんかも知れんけど、ちょつとしたらすぐ元に戻るから」
市丸の手がイヅルの髪を梳く。
「市丸さん」
イヅルはやっと、市丸の名を呼んだ。
「市丸さんっ、僕っ」
自由になった途端、イヅルの顔は歪む。
涙が溢れて止まらなかった。
「無事で良かったっ!!!」
イヅルは市丸に抱き付く。
首に腕を回し、渾身の力を込めて抱き締める。
やっと逢えた。
無事だった。
一度は二度と会えないことを覚悟したのに、市丸が危険に晒されているかも知れないと思った瞬間、会わずに死ぬことなど出来ないとさえ思った。
市丸はイヅルにとって、魂の救済者のようなもの。
心を開かせてくれた大恩人。
市丸失くして自分に生きる意味など無いと思った。
「ボクは無事や。何ともない」
市丸の声はしかし沈んでいる。
イヅルが不安になって市丸の顔を覗き込むと、優しい指がやはり左前髪を梳く。
「イヅルは…………」
その時は口にすることも出来ないらしく、市丸は唇を噛んでしまった。
「僕は平気です」
イヅルは微笑む。
「僕はこのくらい、何とも。市丸さんさえ無事でいてくれたら、僕は」
続きは口吻で塞がれた。
―――――ああ、どれくらいぶりだろう。
濡れた舌の感触を受け入れながら、イヅルはうっとりと目を瞑る。
「…………んっ」
市丸の背に腕を回し、より深くへと導いて。
薄目を開けると、市丸もイヅルを見つめていた。
イヅルが微笑むと、市丸も笑ったが、何処か悲しそうでイヅルはより深くと舌を絡める。
「ん……んっ……んん」
唾液が顎を伝い、呼吸が上手くできないくらい、激しく、熱く、深く絡めて。
「はっ……ん」
唇が離れると、頭の芯が痺れるような感覚に陥った。
「いちまる……さん」
市丸はイヅルを支え、相変わらず悲しいような笑みを湛えたまま顔を覗き込んでいる。
「ボクがどんだけ心配したか分かってる?」
「……っ」
イヅルはそこで初めて、市丸の悲しみの意味を知った。
お気に入りの目が無くなったからじゃない。
お気に入りの身体が壊されたからではない。
イヅルが、市丸を置いていった。
イヅルが、市丸の気持ちを分かっていなかった。
その、悲しみ。
「ごめんなさい」
謝罪は素直に口を付く。
市丸は瞳を瞑り、深く吐息すると、「イヅルが無事で良かった」やっと嬉しそうに笑った。
「ごめんなさい」
二度目の謝罪は涙声になる。
嬉しくて。
まだ飽きられた訳ではなかったのだと。
市丸がイヅルを必要としてくれていることが分かって。
悲鳴を上げたいほど嬉しくて。
イヅルは市丸に齧り付いて泣いた。
「ごめんなさい」
市丸はしっかりとそれを抱き留めながら、イヅルの髪を撫でてくれる。
いつまでも、いつまでも。
イヅルが泣いている間中、辛抱強く、ずっと髪を撫でてくれた。
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