退廃の芳香





浴室で泣きながら市丸の首に齧り付いていたイヅルは、身動きした際、ボールを引っかけて水浸しになった。

思い切り泣いて、市丸に慰められ、やっと気を落ち着けたイヅルは濡れた服に目線を落とす。

「ともかく着替え。風邪引いてまうし」

「はぃ」

赤い目を擦ったイヅルは、素直に市丸の言うことを聴く。

そこは市丸にと藍染が用意した部屋であるらしく、服もクローゼットに収められており、調度品や家具も、藍染の部屋に比べると少し見劣りするとは言え、なかなかの物が揃えられている。

「気に食わんおっさんやけど、服に罪はないやろから。これ、着たってな」

市丸に手渡されたのはシルク地の白いフリルの付いたシャツ。

「これ……市丸さんが着てたんですか?」

何となく思い付いたまま質問したのだが、市丸は嫌そうな顔をして首を振った。

「似合う訳ないやろ。そういう服はイヅルみたいな子ぉが着て正解の服や」

確かに、市丸がこの服を着たところを想像するのは難しい。

苦笑でそれに袖を通したイヅルは、「ちょい待ち」と市丸に手を止められた。

「何ですか?」

イヅルは一瞬、浮竹の屋敷で世話になっている間、幾度か強制的に吸血された痕が残っているのかと焦ったが、最後に日番谷に血を吸われ、またイヅルが吸ったのはもう五日も前だ。

治癒能力の高い吸血族の肌に、その傷跡が残っているとは到底思えない。

首を傾げたイヅルの手首を掴んで、市丸はベットへと導いた。

「おっさんに身体の方は何もされんかった?」

市丸の質問に、そう言うことか、と安堵する。

ベットの端に腰掛けたイヅルは、同じく腰掛けた市丸に覗き込まれ、「いいえ」と首を振った。

「身体は……市丸さんがすぐに助けに来て下さったので何も」

少し恥じらって答えるイヅルの頬は赤い。

「乱菊の所では良うしてもらってたんか?」

「はい。松本さんが、浮竹さんと日番谷さんにお話しして下さって、皆さん凄く良くして下さって」

市丸の顔が迫る。

またキスされるのかと期待したイヅルは、ちょっと肩を竦めながら、それでも倒れずに持ち堪えた。

「ほなこの痕はなに?」

「え……」

しかし市丸が触れたのは首筋。

左の項辺りは、覚えがあるとしたら日番谷に血を吸われたくらい。

けれどその跡が残っている訳はなくて、イヅルは戸惑いに眉を寄せた。

「吸血痕がある。上手く隠してあるけど、バレバレや」

「え?」

イヅルは目を見張った。

「隠してある痕が……見えるんですか?」

吸血時に傷跡を消す方法は、吸血族の間に広く一般的に使われている。

獲物に吸血されたという記憶を残さないようにすることも。

それら催眠や幻視のような術は、虎や豹が生まれつき擬態に相応しい毛皮を持っているように、吸血族にも生まれつきある能力……と言われているが、イヅルにはない能力ではあった。

しかし日番谷に血を吸われたのは5日前であって、跡が残っているとしたらその後のことになる。

イヅルは少し考え込んで、あ、と小さく声を上げた。

「なに?」

市丸の口調は少し険を含んでいる。

「えっと……」

イヅルは言葉に詰まる。

思い付いた理由としては、同じ箇所を連続して噛まれた為に痕が残ったと言うところだが、それを素直に話して良いものか。

イヅルの心は揺らいだ。

元々イヅルは夫婦間以外での吸血行為、特に吸血鬼の血を与える行為に関しては倦厭しているきらいがある。

吸血鬼にとって吸血行為は食事以上に快感を伴う行為であり、特に相手に自分の血を吸わせる行為はその気がなくても、まるで情交を交わしているかのような錯覚に陥る。

それが嫌なのだ。

どうして嫌なのかと問われれば、生理的にとしか答えようはないが、それでも嫌な物は嫌なのだ。

しかし吸血鬼同士で吸血行為をする場合、これは互いに吸血するのが通例だ。

日番谷がしたことは当たり前の行為であり、むしろイヅルを想っての好意であったが、納得は出来ない。

眉を寄せ、口を閉ざしたイヅルに、市丸は食らいつく。

「浮気?」

肩を掴まれ、柔らかな毛布の上に押し倒されたイヅルは、返答に迷う。

―――――浮気……浮気なんだろうか?

市丸が何をもって浮気と言っているのかも分からなかったが、イヅルは困ったように頭上の顔を見つめた。

「浮気……という訳では……」

少なくとも日番谷にその気はないだろう。

しかし市丸は怒りの表情を収めない。

「誰かにイヅルの血ぃ吸わせたん?」

イヅルの喉が鳴る。

何故か急激な渇きを覚えて、市丸が渇いていることを知った。

―――――どうして……いきなり?

羽織っただけのシャツの首筋に、市丸の顔が埋まる。

「……っん」

左の項辺りに舌を這わされて、イヅルは身震いした。

「許さへん。あのおっさんも、この痕付けた奴も、イヅルの瞳ぇ刳り抜いた奴も」

低い囁きと同時に、肌を裂く感触が快感を背筋に掃く。

「……ぁああっ」

甘い吐息。

迷いのない吸血に、イヅルは夢見心地で市丸の背を抱く。

―――――上手くなったんですね。

離れている間、彼がどんな生活を送っていたのか、何があったのか、イヅルには分からない。

それでもたった少し、離れている間に市丸はイヅルの教えていないことを沢山、出来るようになったらしい。

それが悲しくて、イヅルはちょっと涙ぐんだ。

全部自分が教えていくんだったのに、と思うのは傲慢だろうか。

―――――傲慢だね。だって僕はもう多分、彼に教えられることは何もない。

市丸の方が余程、色々なことが出来るだろう。

イヅルに出来ることがあるとすれば、身体を差し出し市丸を完全な吸血族に迎え入れてやること。

「いちま……るさ……っ」

快感に途切れる声で名前を呼ぶと、強く、でも優しくイヅルを抱いて吸血に口吻ていた市丸はそっと唇を離した。

「市丸さん……抱いて、下さい」

イヅルがそう願うのは初めてのこと。

気を悪くさせたかとこっそり顔を窺うと、驚きの中に喜びの表情を見付けてイヅルは安堵する。

微笑みに腕を伸ばせば、強い腕がそれを捕らえ、ベットの中央へとイヅルを運ぶ。

「ええの?」

吐息の確認に、「はぃ」イヅルは快感に促されるまま、うっとりと頷いた。

肌をまさぐる手が懐かしい。

久方ぶりの温度に、イヅルは吐息を漏らして身を委ねる。

市丸の舌はまだ渇いていない首筋の傷から血を舐めているらしく、濡れた音がひっきりなしに耳に届いた。

「ん……っ」

不意に離れた唇が、血の味のキスをする。

甘い、蕩けるほど甘い味に、イヅルは陶酔へと堕ちていく。

下肢に絡まる指。

久しぶりの感触に腰が勝手に蠢いた。

ねだっているようなその動きに、気付けば頬が赤く染まる。

「あ……早くっ」

何かに急かされるように、性急に結合を訴えると、市丸は驚いたように動きを止めた。

「どうしたん? イヅル、離れてる間にごっつい積極的になって」

尻窄みに止められた台詞に薄く目を開くと、疑惑の色を放つ瞳がイヅルを見つめる。

「何かあった?」

囁きは低い。

怒りを知覚してイヅルは困ったように首を傾げる。

「他の奴に抱かせたん?」

きつい眼差しが心地良いと思うのは何故だろう。

イヅルは何も言わず、その綺麗な光彩を放つ紅水晶の瞳を見つめた。

「赦さへん」

怒りの滲む声が聞こえると、いきなり足を担ぎ上げられる。

市丸の牙が覗き、赤い瞳が獲物を捕らえるように射竦め、身動きの取れないイヅルの喉に噛み付く。

「っあ……ああああっ!!!」

二度目の吸血は、市丸が内へと押し入るのと同時で、イヅルは感じたこともない快感に飲み込まれながらシーツに爪を立てた。

悦いと言うには強烈すぎる感覚。

「っ……あ、ああああっ……っ!!」

身体を裂かれる痛みが、吸血の快感に押し流される。

まだそんなに慣らされてもいない、久しぶりの結合だというのに、身体は快感に蕩けて容易に市丸を受け入れる。

力が入らない。

「ああ、…………っああああんっ」

言葉の一つも紡げないまま、足首を掴まれて大きく開かれた身体で市丸を奥まで受け入れた。

「キッツ」

市丸が苦しげに呟くのが聞こえて、力を抜こうと息を吐けば、ゆっくりと楔が動き出す。

「あ……ああ……ぅああっ!!」

滑りの足りない入口が火がついたように熱い。

燃えてしまいそうで、奥歯を噛みしめて耐えるが、声までは殺せない。

「あああっ……ぃ……んんあっ」

全身の汗が噴き出して、引きずられそうな身体を持ち堪える為、イヅルは精一杯の力でシーツを掴んだ。

「イヅル……イヅルん中めっちゃキツイ。ボクと以外してへん、の?」

市丸の問いかけにイヅルは賢明に頷いて答える。

「良かったぁ。でも誰かに血ぃは吸われたんやね」

再び頷くイヅルの前髪を掻き上げ、市丸は額に口吻た。

「もう誰にもやらん。イヅルは全部ボクのもんや。離さへん。絶対離さへんよ」

小刻みに揺らされながら、イヅルは甘い酩酊に酔う。

市丸に捕まるならば本望と、心が叫んでいる。

―――――全部、全部攫って、全部、貴方の物にして下さい。

苦しい体勢で腕を伸ばし、市丸の首を抱き寄せたイヅルは、泣きながら深く口吻た。












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「ともかく脱出やなぁ」

一回だけに留まった情交に、けれど久しぶりの身体はすっかり疲れてしまって、イヅルは市丸と二人ベットに並んでぼんやりと余韻に浸っていた。

市丸はまだ元気が有り余っているようで、さっきから相槌を打ったり打たなかったりしている反応の薄いイヅルを後目に、一人で色々と今後のことを喋っている。

肝心の窃盗容疑に関しては、市丸はイヅルに全否定を帰した。

「そんな何の得にもならんこと、ボクがする訳ないやんか」

イヅルはそれを全面的に信じることにした。

確かに市丸には藍染を助ける動機がない。

実際、市丸は藍染に誘拐された被害者の一人のようなもので、イヅルと別れてから彼の研究に仕方なしに付き合っていたのだという。

「何の研究ですか?」

イヅルは訊ねたが、それについてきは曖昧な返事しか返さなかった市丸である。

「よう分からんけど、王室から奪ってきた要素結晶で、力を高めるとか、力を無くすとか、多分そう言う研究やと思う」

それでは何も分からないのと一緒だが、少なくとも市丸が一足飛びに色々な能力に覚醒したのもこの研究に付き合わされたお陰だということだった。

「どんな事が出来るようになったんですか?」

吸血族の能力は自然物を自在に操ったり、生き物の精神に作用して幻覚や暗示、洗脳などを施したりする能力の大まかな二つの物が大半を占めるとは言え、人によってその能力は大きく異なる。

例えば日番谷が水や氷を操作する能力に長けていると言うことは、逆に炎や催眠を得意としている訳ではないと言うことで。

松本も同じく操作系として、灰を操る能力と言っていたからには心理操作系は得意ではないのだろう。

そのように吸血族個人の能力は、その得意とする何かの能力によって、他の能力との差異が個人差となって出てくるのである。

「色々。ほんまに色々。吸血鬼って面白いんやなぁ。ホンマ色々出来るようになったわ」

「…………はぁ」

結局それでは何が何だか分からない。

しかしイヅルは詰問するほどの体力が残っている訳で無し、睦言にこれ以上は野暮な気がして、口を噤んだ。

深く溜息を吐く。

「疲れた?」

市丸がイヅルを振り返る。

「いえ……大丈夫です」

答えたイヅルに「ちぇー」と市丸は唇をとがらせた。

「さっきはあんなに素直やったのに、もう元のイヅルに戻っとる」

「え?」

イヅルは市丸を見つめ返しながら、どういう意味かと首を傾げた。

「ま、ええよ。イヅルはそっちの方がイヅルらしい」

市丸は納得したようだが、イヅルは未だ意味が分からずにいる。

自分らしい自分。

考えて、冷たいと言うことだろうかとちょっと反省した。

市丸はよくイヅルにそう言って拗ねていたのを思い出したのだ。

「あの」

欠伸をしている市丸に一応謝罪を述べてみると、ギョッとした顔をされる。

「イヅル、どっか頭でも打ったん?」

「え? ……いえ」

「ほんならもしかして、ヤバイ実験で頭ン中弄られたとか!?」

「いいえ。そんなことは……どうしてですか?」

「やって妙にしおらしぃて、もっとこうプライド高っ!て感じやったのに」

ああ、イヅルは納得した。

そう言う意味か。

「僕は僕の価値をやっと思い知っただけです。僕が出来損ないの欠陥品だと、やっと認められるようになっただけです」

呟いて、以前ほど辛くなくなっている事に驚く。

仕方ないじゃないか、と思えるようになっていた。

それが自分なのだから、と。

しかし自嘲と言うよりは哀愁のように笑うイヅルに、市丸は顔を顰めて見せた。

「誰が出来損ないの欠陥品やねん」

―――――市丸さんならそう言って下さると思ってた。

イヅルは嬉しくてどうしても緩んでしまう頬に、微笑みを乗せる。

「いいんです。そんな僕でも良いと言ってくれる人が居ることに気付きましたから」

イヅルは市丸に手を伸ばす。

「ありがとうございます」

瞳を閉じて、自分の唇を寄せながら、「市丸さんのお陰です」ずっと言いたかった言葉を紡ぐ。

そっと重ねるだけのキスをして、細く目を開けたイヅルは、しかし市丸が笑っていないことに気付いて肝を冷やす。

―――――気を悪く、させちゃったかな……。

そんな僕でも良いなんて、決め付け過ぎただろうかと、イヅルは内心焦った。

「あの」

謝ろうと口を開いた瞬間、強引に後ろ頭を引かれて深く舌を受け入れさせられる。

「んんぐ……っん」

驚きに一瞬抵抗した身体は、すぐにされるがままに開く。

市丸の求めるまま、奥深くまで受け入れて、必死で応えようと舌を絡ませ。

少しは良いと思って貰えただろうかと目を開ければ、それでも市丸の表情は険しいままだった。

「あ……の……」

ごめんなさい、と言いかけて、けれど言葉が喉に詰まる。

もしかして今の言葉で嫌われてしまったのかと思えば、喉が干上がって言葉は出てこなかった。

―――――どうしよう。

焦りだけが胸を埋める。

情けなくも潤んできた瞳で市丸を見上げれば、悲しそうな瞳で見下ろされた。

「イヅルは出来損ないでも欠陥品でもないよ」

そう思ってくれているのが分かるから、嬉しくて、ありがとうを言ったのだけど。

イヅルは伝わらなかった心内を苦く思う。

どうすれば分かって貰えるだろうと、身を寄せて市丸を見上げた。

「ありがとうございます」

口吻が駄目だったのなら、とまだまだ元気らしい市丸の下肢に手を伸ばす。

せめて手淫で抜かせてあげようかと、そう思ったのだが、触れたところで手は止められた。

「イヅル」

低い声。

怒っているのが分かって顔を上げられない。

―――――ど……どうしよう。

お礼も駄目、謝罪も駄目、キスも駄目、手淫も駄目なら、「あの」イヅルは困惑に息を詰める。

「そない悲しいことせんでええから」

市丸の腕がイヅルの肩を抱く。

優しくて、嬉しくて、応えたいのに応えられない。

どうして良いのか分からない。

甘えているだけでは、いつか飽きられて捨てられてしまう気がして、イヅルは焦るのに何も答えが浮かばない。

ただ市丸に抱かれて、俯いて瞳を潤ませた。

市丸が溜息を吐く。

「まずはここから出なな。この部屋は結界張ってあるから平気やけど、一旦外出たらおっさんのテリトリーやからなぁ」

話題転換に救われた気持ちで、イヅルは「はい」と答える。

「ほんで無罪釈明せなな。イヅル手伝ってな」

市丸の瞳に悲観の色はない。

焦りの色も、今は怒りも色を消している。

笑った紅水晶に釣られて、イヅルも笑った。

「ほなまずは寝て。イヅルが歩けるようになったら出よか」

「え、あの、僕なら大丈夫です」

イヅルは市丸を見上げたが、市丸は首を振った。

「あかん。無理したら」

「でも」

「寝なさい」

「…………はぃ」

結局、イヅルは無理矢理毛布に押し込まれ、目を閉じるよう促される。

市丸は毛布の上からイヅルを抱き締め、逃げ出せないよう捕らえてしまうと、髪を梳いて「おやすみ」を言った。

「もうどっこも行かせへんよ。ずっと一緒におるから」

「はい」

指先だけを出して市丸の指に絡めたイヅルは、そっと目を閉じて吐息する。

問題は山積みでも、市丸と一緒なら何でも出来る気がして。

全てが上手くいく気がするから不思議。

この腕の中にある限り、世界はとても優しい物であるような気がした。










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目覚めは爆音だった。

声もなく飛び起きたイヅルは、いつの間にか市丸の腕の中、抱きかかえられて暗い部屋の中にいた。

―――――っ?」

咄嗟に声を出すことをとどめ、市丸を見上げると。

にやり。

笑われる。

「起きた?」

「あ、あの、これは?」

「密告したってん。おっさんの隠れ家」

「……え?」

「王室十三師団隊……やったっけ? 偉いさんが仰山押し掛けてきてる。戦闘なっとる。取り敢えず巻き込まれんよう逃げてるけど、イヅル、自分で立てる?」

「は、はい」

硬い石畳みに足を降ろしたイヅルは、市丸に抱きかかえられながらここが何処なのかを確認した。

そこは屋敷から離れた倉庫かどこからしい。

茶色く汚れた窓硝子の向こうに、燃え上がる屋敷が見える。

―――――あそこが藍染さんの屋敷だったんだろうか。

自分達がいたのかも知れない屋敷が燃えるのを見て、イヅルは小さく息を呑んだ。

まるで映画の中の世界のようだ。

「こ、これからどうするんですか?」

イヅルは市丸に抱き付いて、不安に身を震わせると、「大丈夫」と市丸は笑う。

「頃合い見て捕まるよ。そんで全部話す。密告した時、ボク名前出しとるから、そこも点数なっとるやろ」

「じゃあ」

思わず市丸の腕を力一杯掴んで、イヅルは不安に瞳を揺らした。

「市丸さんは……離れてしまうんですか」

折角逢えたのに。

イヅルは涙ぐんで、けれど市丸は優しい手でイヅルの頭を撫でる。

「すぐに帰ってくるから。堪忍したってな」






その時だった。







「こんな所にいやがったのか」

背後で日番谷の声が響く。

イヅルは悲愴な顔で振り向こうとしたが、市丸の腕に抱きかかえられ、それは敵わなかった。

「こんにちはぁ」

市丸がおどけて挨拶する。

「てめえが市丸ギンか」

「そういう君は誰さん? 王室十三師団隊て子供もおんの?」

―――――ああ、それはっ!!

イヅルの内心の焦りを知ってか知らずか、日番谷は市丸の戯れ言は無視した。

「王室十三師団隊、十番隊隊長日番谷冬獅郎だ。窃盗幇助の容疑でてめえに指名手配が掛かってる」

「そうらしなぁ」

「ここで逃げるのは上手くねぇぜ。捕まっとけ」

イヅルがビクリと身を竦ませる。

市丸の胸に当てていた手を握りしめ、最後の名残を伝えた。

市丸が吐息する。

「分かってます。ボクはおとなし捕まりますよって。この子ぉ、大事に保護したってくれませんやろか?」

イヅルが市丸に抱き付く。

耳元で苦笑が聞こえて、イヅルは潤んだ瞳から波田が零れるのを感じた。

「大丈夫やから。ボク何も悪いことしてへんのやから、すぐに帰ってくるよ。せやから泣かんと待っといて」

市丸の声は優しくて、イヅルはどうしても腕が解けない。

「……はい」

返事はしたものの、動けないでいるイヅルごと、市丸は日番谷に歩を向けた。

引きずられるように歩きながら、倉庫から外に出る。

「吉良」

浮竹の声も聞こえたが、イヅルは顔を上げられないで、俯いたまま市丸の腕にしがみついた。

「……っ」

何も言えない。

行かないで、も、待っています、も。

ただ離れたくなくて、心に理性が追いつかなくて、どうしても腕が解けない。

「……っ」

市丸の指がイヅルの腕に掛かる。

優しく引き剥がされて、堰を切ったように涙だけが零れた。

「〜〜〜っぅ」

イヅルの肩を、背の高い誰かが後ろから抱える。

「すぐ帰ってくるよ」

もう一度、市丸はそう言ってイヅルの髪を撫でてくれた。

「……はぃっ」

すっかり裏返って、変な声になった返事に構う余裕もなくて。

イヅルは去っていく市丸の背を見ることさえ出来ずに、顔を押さえて泣きじゃくった。









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