箱庭





市丸と離れて、イヅルは結局また浮竹の屋敷に身を寄せていた。

日番谷からの話しでは、あの戦闘の後、藍染は再び姿をくらましたらしい。

市丸は窃盗幇助の容疑こそ晴れたものの、藍染捜索の協力に拘置された状態。

一旦は手の離れた状態であったイヅルの私邸も、藍染からの要請による差し押さえであった為、再び戻ってきた。

すぐにでも屋敷に帰れるとは言え、またあの執事との憂鬱な二人暮らしに戻る気にはなれず、ずるずると居候生活を続けていたのだが。

「言っておくが、俺は親切で言ってやってるんだぞ」

日番谷は腕組みでイヅルを見上げ、睨み付けるように凄んだ。

「分かっては……いるんですが。でも」

口籠もったイヅルは青い顔で机に伏せている。

「市丸に血を与えてそれきりなんだろう? 共有状態とは言え食事しないんじゃ動けなくなるぞ」

「はぃ……」

イヅルは目の前の料理に視線を向けはするのだが、手を付ける気にはなれない。

市丸と離れて、精神的に疲れたのか、食欲があれから全く湧かないでいた。

「喰えそうな物があるんなら言え」

「はぁ……」

何とも要領を得ないイヅルに、日番谷は切れかけている。

しかしそれでも、頭を上げることさえ出来ず、イヅルはぐったりと机に伏せていた。

「血か? 吸血の方が良いのか?」

肩口に手を伸ばされ、イヅルはびくりと身を竦めて首を振る。

「いいえ。それは……要りません」

イヅルの瞳が怯えに染まる。

すぐに手を離した日番谷は、溜息一つ、背を向ける。

「ともかく、一口でも良いから喰え。でなきゃ次は強制的に吸血させる」

言い置いて部屋を後にした小さめの背中に、イヅルは眉を寄せて吐息した。

何も食べる気が起きない。

何もする気が起きない。

市丸が藍染に捕まっているかも知れないと思っていた時よりも、今のイヅルに生気はなかった。

気がかりはあの書状である。

市丸と結婚契約を破棄し、次なる相手との契約を指示した書状。

あれについての返答は未だ来ていない。

それも仕方ない話しだ。

あんな大事件が起こった王室は、そっちで忙しく、イヅルの方には手が回らないのだろう。

しかし指定された日は刻一刻と近付いている訳で、待ってくれている訳ではないのだ。

実際、残された日は後五日。

後五日の内に返答がなければ、もしかすればイヅルはその新しい相手と契約を交わさなければならない。

市丸との契約を破棄して。

―――――市丸さん。

早く帰ってきて欲しいと望む反面、無理ではないかと思っている。

何せ市丸はもうイヅルの手の届かないレベルにまで達してしまっているのだ。

吸血族としてはきっと将来を有望視されていることだろう。

なれば然るべき相手を再検討に掛けられる可能性は大いにある。

イヅルでは市丸を吸血族に変えることは出来ても、その能力を引き出すような指導は出来ない。

―――――市丸さん。

イヅルはあれから結局、一度も市丸の名を呼んでいなかった。

呼べば思い出されて、余計に辛くなる。

分かっているから呼べない。

もしこのまま二度と会えないと言うのなら、二度と口にせずにいた方が汚されない気がする。

再会に優しい言葉を掛けて貰った。

笑って貰った。

大事にして貰った。

この記憶があれば、暫くはきっと生きていける。

胸が詰まるほどの悲しみも、慣れればきっと暫くは生きていけるはずだから。

「大丈夫」

自分に呟いて、けれど市丸の言葉ほどイヅルを安心させてはくれなかった。

時計の針だけか無情に時を刻み続ける。

今日が終わっていく。

今日が終われば明日が来て、残された日は後四日になってしまうのだ。

イヅルは机に伏したまま、壁に掛かるアールヌーボー調の時計を見つめ、溜息を吐く。

起き上がる気力もない。

目を瞑り、そのままそこで眠ろうかと思っていたら、部屋をノックする音が聞こえ、「寝るならちゃんとベットで寝るんだぞー」と言う浮竹の声が響いた。

―――――父親がいたら、きっとこんな感じだったのかな。

イヅルはちょっと思って、何とか身を起こす。

イヅルの両親は物心付く前に他界した。

故にイヅルを育ててきたのはあの屋敷に雇われた執事や、王室が回してくれた世話役なのだが、イヅルに吸血族としての力の皆無を知ると、物心付く頃にはあの執事と二人きりにされた。

18歳になるまでは何の役にも立たない穀潰し。

散々叩かれたイヅルへの評価が、ここでは一切聴かれない。

―――――こんな家で生まれたのだったら良かったのに。

思ったが、それではきっと浮竹に酷い迷惑を掛けてしまうことになる。

やはり今在るままが最良なのだろうとイヅルは毛布へと潜り込んだ。

―――――明日、浮竹さんに屋敷に帰ると伝えよう。いつまでも迷惑かける訳にはいかないし。











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「本当に一人で大丈夫なのかい?」

浮竹は何十回も確認したが、イヅルは頑として「大丈夫です」を繰り返した。

そうして主人を売った執事のいる屋敷に戻ってきた。

18年、ずっと暮らしてきた屋敷はやはり馴染んだ空気に包まれていて、その凍てつくような冷たさとは裏腹に、懐かしくイヅルを迎え入れる。

手荷物一つ無い軽装で玄関ポーチに降り立ったイヅルは、恭しく頭を下げる執事に笑顔で「ただいま」を言った。

「お帰りなさいませ、イヅル様」

外見だけは若い執事はイヅルの為に玄関の戸を開けてくれる。

促されるまま足を踏み入れたイヅルは、「湯の用意を」と言いつけた。

屋敷は静まりかえり、藍染が訊ねてきたあの日から寸分変わらぬ佇まいでそこにある。

今までの出来事が嘘みたいに、市丸の居ない屋敷でイヅルは白く息を吐いて自室へと階段を登った。

夫婦用の寝室を通り過ぎる時に、少し足を止めたが、すぐに先のイヅル個人の部屋へと歩き出す。

もしかすればもう必要のない部屋かも知れず、はたまた四日後には市丸とは違う者と使うことになるかも知れない部屋。

中に入りたいとは思わなかった。

「こちらにおいででしたか」

執事はそう呟いて、イヅルに湯の用意が整ったことを告げる。

「分かった」

イヅルは執事の前を通り過ぎ、浴室へと歩きながら、自分が平然と振る舞えている事実に少し安堵していた。

執事に否がないことはイヅルもよく分かっていることである。

とは言え感情は別だろう。

元々快く思われてはいないことは知っていた。

イヅルがまだ幼かった頃、イヅルの世話役にとやってきた貴族の従者であるウォチャイックと、執事が二人で話しているのを耳にしたことがある。

その時彼は『出来損ないのクセに』と言った。

もちろんそれはイヅルのことで、彼は吸血族の中でも労働階級という最下層の身分にある自分と、何ら変わらない無能者であるイヅルを嘲笑ったのだ。

けれどそれも仕方のないことと、分かってもいた。

実際イヅルには何の力もなく、自身でさえ、自分の無能に絶望していたのだから、誰にそう言われようと反論のしようはなかった。

ただ、唇を噛んで俯き、傷ついたところで仕方ないと、諦めろと言い聞かせるばかりで。

絶望に比例して、吸血族は死ねないのだと、何度も自分に言い聞かせた。

それが市丸が来てからと言うもの、世界は一転した。

たかだか見目の良さだけで、彼はイヅルを気に入り、好んで優しい言葉を掛けてくれた。

しかしそんな彼に頑なに拒絶の色を見せた自分に、それでも彼は辛抱強く、イヅルの心さえ掬おうと手を伸ばしてくれた。

―――――藍染さんが来るまでは、だけど。

それでも藍染によって市丸と引き離された後も、イヅルは結局市丸に守って貰ったようなものだ。

市丸の幼馴染みという松本の助けによって、浮竹と、そして日番谷によって保護された。

その三人がまた、イヅルを否定しない奇特な吸血族ばかりで。

イヅルは久々の自宅の湯殿で湯浴みしながら薄く笑う。

まるで夢のような時だった。

悲しいことや、辛いことや、苦しいこともあったが、有り得ないような救いを幾つも感じることが出来た。

「その代償に左目一つなんて安い物だよね」

笑って、義眼の入った左目を押さえる。

大体にしてこの左目とて、治癒能力の高い吸血族では何年かすれば元に戻ってしまうかも知れない。

イヅルにとって、左目と交換に得た物があったとすれば、それは紛れもなく市丸との出逢いであったと、今更ながら幸せを噛みしめる。

多分、一生分の幸運を使い果たして、彼に出会ったのだろう。

それでも後悔しないくらい、良い夢を見せてもらった。

「大丈夫」

何度目かの呟きに、やっと心が追いついてくる。

この思い出を胸に、きっと生きていける。

―――――市丸さん、幸せでいて下さい。

もう二度と会えないとしても。

祈って、身を清め、イヅルはまた市丸いない日常に戻った。












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結局、王室からの回答は来なかった。

―――――つまりそれは……そう言う意味だよね。

イヅルは日付の変わろうとしている時計を見上げて、イヅルは薄く笑う。

まるでここは娼館だ。

客待ちの娼婦気分とでも言おうか、イヅルは一人きりの夫婦の部屋、主寝室のベットの上でゆったりと足を伸ばして座る。

煙草か酒でも趣味にしようかな。

そうすれば少しは格好が付くかも知れない。

今夜は呆れるくらい綺麗な月夜。

市丸が来た時とは大違い。

あの日は大雨で、外を行く馬車の影は不気味なほどに光って見えた。

今夜の馬車はきっと、輪郭もくっきりと闇の中に浮かび上がることだろう。

見る気は起きなかったが。

「大丈夫」

口癖になりつつある呟きを口に上らせる。

僕は大丈夫。

市丸さんのことを想って、目を瞑っていればそれで良い。

ああ、それとも相手は何も知らない人だったらどうしようか。

僕がリードできるわけもないのだから、二人で途方に暮れたところで、朝までにケリを付ければそれで良い。

何にせよ相手もこの瓦落苦多相手に多くは望みやしないだろう。

この義眼、そして痩せ細った骨ばかり目立つ身体。

もう少しまともな見栄えにしておかなければ、相手に気の毒だと想ったりもしたが、食欲は相変わらずなのだから仕方ない。

このまま何も食べずに、骨と皮ばかりになれば、それこそまた涅の屋敷へと逆戻りさせられそうだが。

―――――構いやしない。

所詮何処へ行こうと、何処にも市丸はいやしないのだから一緒。

イヅルは嗤った口のまま膝を抱える。

指先がさっきから酷く冷たく、ずっと震えている。

右側だけの瞳がずっと、それを他人事みたいに見つめて。

屋敷の時計が一斉に鐘を打ち鳴らし、真夜中の到来を告げた。

さすがに寝室で出迎える訳にも行かず、イヅルは怠い身体に鞭入れるように立ち上がる。

部屋を出ると、遠く馬車の蹄の音が聞こえた。

ゆっくりと応接室に歩く。

逃げ道はないのだし、今更泣こうが喚こうがするべき事は一つだけ。

自分が存在する意義さえ、きっとそれだけだから。

執事が出迎えに出るのを背に、イヅルは応接室のソファに座った。

相変わらず暖炉には火が入れてある。

気が利くのか、それともただの都合なのか、イヅルが指示した訳ではないのだが。

足早に屋敷を歩く硬い靴音に、またも相手が男だと察して、イヅルは苦笑一つ、立ち上がって客人を迎える準備をした。







「いら」

最後まで言葉を紡ぐ必要はなかった。

相手が部屋に飛び込んできた瞬間、イヅル目掛けて抱き付いてきたから。

着やせする腕に抱き締められて、イヅルは驚きに呆然と瞳を見開く。

「ただいまっ」

柔らかい銀髪が頬を撫でている。

懐かしい匂いは紛れもない市丸の物で、イヅルは確信と共に瞳を潤ませ、骨張って震えてばかりいる指で市丸の背を抱いた。

「市丸さんっ!!!」

封印していた名前を呼んで、イヅルは声もなく泣く。

本当は悲鳴でも上げて泣き喚きたかったが、どんなに口を開けても、声が出なかった。

ただ力一杯抱き付いて、身を震わせて涙を流す。

市丸はイヅルの髪を撫でながら、しっかりと抱き締めて、「お帰りは? 言うてくれへんの?」と優しく笑った。

「お……帰り、なさいっ」

何とか絞った声で伝えて、イヅルは精一杯笑う。

上手くいかなくて、袖で涙を拭おうとしたら、「ああ、あかん。赤くなる」と市丸の手に抑えられた。

「そない怖かった?」

市丸に支えられて、イヅルはソファに腰掛ける。

「ボクがおらん間、ご飯食べてへんかってんて?ガリガリやん」

「ふ……ぅ、す、すみませっ」

未だ泣きやめないイヅルは、市丸の指で涙を拭われながら謝る。

「せやけどイヅルが家おってくれて良かった」

市丸は笑いながら尻ポケットに突っ込んでいた書類を取り出した。

「この申請、イヅルが出してくれたんやろう? ヒッドイ話しやな、勝手に離縁させて新し相手と結婚せぇて」

それはイヅルの元に届いた書状と同じ物で、市丸はそれを見せると目の前でびりびりに破き捨てる。

「こんなんぜぇんぶ破棄や破棄っ!!」

大袈裟な振る舞いに、イヅルの顔に微笑が浮かぶ。

「良かったぁ、イヅル。家から逃げてどっか行ってしもてたらどないしょ思ててん」

「逃げるなんて」

イヅルは市丸の胸に凭れる。

「もう会えないかと想ってました」

「なんで。ちゃんと帰ってくるて言ぅたやん、ボク」

そっと抱き寄せて、すっかり弱ってしまった恋人に市丸は眉を下げた。

「でも市丸さんは、もう僕は必要ないのかも知れないって。吸血族として、もっとレベルの高い相手と契約し直すのじゃないかと思ってたんです」

「はぁぁあ!?」

心底呆れた声。

「なんやイヅル、ボクの浮気を疑ごぅてたわけか?」

市丸は、そんなん絶対無いわ、と首を振る。

しかしそんなつもりで言った訳ではないイヅルは「いえ」と赤い目許を戸惑いに染める。

「誰から見ても……市丸さんはもう僕みたいな欠陥品を宛われるべき存在じゃないと、王室だってそう判断するだろうと思って」

イヅルの言葉に市丸顔が険しくなる。

「欠陥品やない言うたやろ」

「……っ、す、すみません」

黙ったイヅルに、市丸が苦笑でキスを落とす。

「ボクはイヅルと一生添い遂げるつもりやで。もう何処かに勝手に消えんといてや」

―――――え?

疑問はけれど口に上ることなく、市丸の舌に絡め取られた。

「……んっ」

優しい腕が背中を抱く。

全てを委ねて目を瞑りながら、イヅルは快感に流されようと努力する。

今はそれで良いと思った。

市丸は一生と言ったが、それは有り得ない話しだとか、そう言うことはこの後で良い。

今はただ市丸を感じていたくて、イヅルは必死で自分も舌を絡めた。

胸の奥でわだかまる感情に名前を付けてはいけないと戒めながら、市丸に望まれるままと機微を計る。

身体を求められたら、抵抗するつもりはなかった。

けれど市丸は甘くて長い口吻を解くと、「好きや」熱く囁いて、イヅルを抱き締めたまま動こうとしない。

互いの鼓動に聞き入ったまま、このまま時が止まればいいと思えるほど、イヅルは幸せを噛みしめていた。

「もうどっこも行かへん。絶対ホンマ。もうイヅルから絶対離れへんから」

優しい嘘に今は酔う。

「はぃ」

好き、に返せない言葉の代わり、イヅルは笑って市丸の唇に口吻た。

夜明けまでは、ずっとこうしていたい。

出来るなら明日も。

そして十ヶ月後の、最後の別れの時まで、ずっと、こうして抱き締めて貰えたら。

イヅルは市丸の胸に顔を埋める。

室内はとても静かで、暖炉で火がはぜる音以外、何も聞こえない二人だけの世界だった。









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