SCANDALOUS BLUE
白熱の歓声。
滝のように流れる汗が先程までの熱いステージを彷彿とさせて、強すぎるライトを避けるように、アンコールを叫ぶ観客に背を向けた。
バックステージに戻ると恋次は頭からドリンクを被っている状態で、充足感にメンバー同士、してやったりの顔で拳を付き合わせる。
「おつかれさんっ!!!」
「お疲れさまぁー」
スタッフ同士で労いを口にしながら撤収。
今日はでかいイベントで、イヅル達のバンドはトリ。
ボーカル兼ベースを務める修兵と、ドラムの恋次、そしてキーボードを預かる雛森がごちゃごちゃに詰まっている控え室へと消えていくのに続いていたイヅルは、不意に鳴り出したケツポケットの携帯に気を取られ、足を止める。
バイブに液晶画面を覗き込むと『×××』の表示。
イヅルははっと息を呑み、回りを確認するとそっと外へと抜け出した。
裏口の非常階段前で着信の消えた携帯を見つめる。
掛け直すべきかと悩んで、けれど、カンッ―――――という金属音に頭上を見上げた。
「―――――!?」
人影。
まさか、と非常階段を上がると、細長い男の影が視界に映る。
名前の呼べない相手は手摺りの端からチラリと顔を覗かせると、イヅルに向かって手を差し出す。
飛び込む。
「おつかれさん」
小声の囁き。
イヅルは何も答えないまま数週間ぶりの愛しい匂いに顔を埋める。
ステージメイクはまだ落としていなかったがかまやしない。
どうせ汗で流れてしまっている。
そんな事よりも不意打ちの喜びに膝ががくがくと、力が抜けそうになりながら必死で男のコートにしがみついた。
―――――市丸さんっ!!!
名前を叫んでしまいたかったが、ここは小さなライブハウスの裏手。
表通りにはファンの子がひしめきあっている。
ましてスタッフ気付かれでもしたら言い訳の仕様もない。
時間もないことに気付いて、イヅルは泣きそうになりながら市丸の顔を見上げた。
キスを?
唇の問いかけに、答えるよりも早く口付けて。
息も止まる勢いで舌を絡める。
熱い。
蕩けてしまいそうに熱い咥内を掻き混ぜながら、互いの身体をまさぐり合う。
此処にいると、確信に安堵できるまで。
大きな手に腰を掴まれながら、イヅルは達してしまいそうな幸福感に目を瞑った。
―――――好き。
好き。好き。好き。大好き。
潤んだ眼を開けば同じように熱っぽい視線がイヅルを見つめていて、余計に舌が熱くなる。
ガチャガチャと言う立て付けの悪いドアの音。
裏口の開く音に体を竦ませたイヅルは、口付けたまま静止する。
「あれー? いねぇや」
恋次の声が響く。
「だから便所探せって言ったろぉが」
修兵の声も聞こえて、重く扉の閉まる音がした。
「んーっ……んんっ」
突然市丸の口付けが深くなる。
不意打ちに声を漏らしたイヅルは、必死で応えようとその背を掻き抱く。
頭の芯がぼぅっとして何も考えられない。
市丸が好きという心だけが身体中を満たしていく感覚。
溺れてしまいたくて、けれど溺れられなくて、爪を立てたイヅルに市丸は眉を寄せる。
「行って下さい」
唇が離れるとイヅルは右腕で市丸を突き放す。
市丸は答えない。
「僕も行きます」
背を向けて、階段を下りようとしたイヅルの腕が引かれる。
「離して」
抗議に振り返った唇が奪われる。
「離したない」
熱い囁きに二人、同時に切なさに顔を歪める。
けれどイヅルは市丸の腕を振り解き、カンカンと靴音を響かせながら建物の中へと走っていった。
「お、吉良。どこ行ってたんだお前?」
楽屋に戻れば恋次と修兵が機材を運び出す準備をしている。
「ちょっと電話してただけ」
イヅルは笑って、恋次の持ち上げるアンプの片側を支えた。
イヅル達のバンドは結成して2年という、やっと知名度も上がり、地方でワンマンも開けるようになってきたインディーズ。
メジャーへの話しが進む中、イヅルにはメンバーに言えない秘密があった。
イヅル達は人気バンドDay turn Valleyのプロデュースで来春、メジャーデビューする予定になっている。
そのDay turn Valleyのライバルとも言えるバンド、spearのギタリスト市丸ギンと、イヅルは関係を持っているのだ。
*********
それは2年前の秋のことだった。
いつものように修兵の友人が主催するイベントに参加していたイヅル達は、馴染みのハコで自分達の出番が終わった後の余裕に後方からステージを眺めていた。
「あ、吉良君」
スタジオスタッフの顔見知りに呼び止められ、振り返ったイヅルは「お疲れ様」と笑う。
「お疲れ様。ね、今日うちの打ち上げ来るよね?」
「え、でも今日って合同なしでファン入れるんじゃなかったんですか?」
スタッフの女性はそこで首を竦めると、イヅルの耳に手で壁を付くって耳打ちする。
「それがねー、来・る・の・よ!吉良君憧れの人ぉー」
「え?」
そう言われてもイヅルは分からない。
困惑に首を傾げたイヅルに、女性は「鈍いなぁ」と笑い、「あの人よ、あの人」と奥の壁に貼ってある色褪せたポスターを指さした。
「……うっそ」
イヅルは瞳を見開いて驚く。
女性はやっと期待通りの反応を得られたらしく、にまにまとご満悦で親指を立てた。
「ホントに!?」
「ホントホント。ほらぁ、うちの水色こないだラジオ出た時DJの人と仲良くなっちゃってねー。飲みに行った時に今度打ち上げ参加してくれるって、あの人、連れて来てくれるって言ってたんだって!」
「わぁぁあ」
イヅルは女子高生のような声を上げて頬を赤らめる。
それも仕方ないことだ。
なにせそのポスターで妖しく笑っている男はイヅルの憧れの人。
音楽の世界に入る切っ掛けになったとさえ言えるようなギタリストだったのだから。
市丸ギン―――――人気絶頂バンド、『spear』の天才ギタリストにしてメインコンポーザー。
現在はバントとしての活動よりも個人としてそれぞれ単体で活動しているが、一年に2.3枚出されるシングルは毎回チャート1位を一ヶ月以上キープするという人気は未だ継続。
市丸自身はロンドンにアパートを借りたとか、ニューヨークにスタジオ兼邸宅を建てたとか、ワールドツアーを敢行したりと世界規模で動き回っている時のアーティスト。
イヅル自身、『spear』のライブには欠かさず足を運ぶという熱狂的なファンであり、市丸を尊敬する数多いアマチュアアーティスト達の一人なのである。
―――――市丸さんと会える!!
イヅルは天にも昇るような気持ちで、その日、ライブスタジオのメンバーと打ち上げ会場へ足を運んだ。
そこは小洒落た寄せ鍋屋で、イヅル達が到着した時には既に先行のメンバー達が杯を傾けていた。
「おつかれさーん」
「おつかれー」
まずはビールと全員中ジョッキ片手に乾杯。
音楽話に花を咲かせる仲間を見守るイヅルは、下座から上座に座る市丸を盗み見ていた。
ステージで見るのと変わらない涼しげな顔。
何を考えているのか分からないポーカーフェイスはしかし、薄ら笑いを浮かべているようで酷く扇情的。
長い指がグラスを掴むのも優雅で、何処をとっても男の色気というか、ドキッとさせられるような余裕に満ちていて、イヅルの予想以上に格好良かった。
―――――こんな近くに市丸さんがいるよ!!!
憧れ過ぎて格好良過ぎて、つい近寄って話しもできないでいたイヅルは、トイレへと席を立った。
浮かれ気分にいつも以上に酒の進みが速かったらしく、赤くなった顔を洗おうと鏡を覗き込みながら蛇口を捻っていると、ドアを開いて市丸が入ってきた。
「あ、お、お疲れ、さま、です」
イヅルは酒の勢いにも増して赤くなり、市丸に会釈する。
「お疲れ。君、名前なんていうん?」
市丸はトイレに入ったものの、イヅルの真横に立って笑っている。
「あ、き、吉良イヅルです。あの、69のギターやって……ます」
思わず水を出しっぱなしで、市丸を振り向いたイヅルは、その背の高さにドキドキと顔を見上げる。
「吉良君……イヅル君か」
市丸はそう言うと手を挙げ、イヅルの髪を梳いた。
「〜〜〜っ!?」
驚いて、でも嫌な訳ではなくて、イヅルは飛び上がるように身体を強張らせると耳まで真っ赤になる。
「君……」
市丸が何か言おうと口を開きかけると、ガヤガヤと人の近付く音がした。
他の客がトイレに向かっているのだろう。
離れないとマズイかな、とイヅルが気を利かせようとした時、市丸の手がイヅルの腕を掴んだ。
「え?」
思わず声を上げたイヅルの口を、もう片方の手が塞ぐ。
そして力任せに個室に連れ込まれると、ドアが閉められ施錠された。
今日はこの店は貸し切りと言うことだったから、イヅルの知り合いの誰かかも知れない。
それならば市丸の姿を見られたところで構わないはずなのに、と上目遣いで市丸を見ると、笑っていない眼がイヅルを見下ろす。
その口角が上がった。
口を押さえる手はそのままに、背中から抱き締められるような格好だったイヅルは、更にきつく抱き締められる。
「―――――っ?」
身体がいやと言うほど密着して、市丸の体温が服越しに伝わってくる。
ドキドキ言っている心臓が聞こえるんじゃないかと思うくらいで、けれどイヅルは身動き一つ出来ずに捕まっている。
―――――なんで?
これはどういう事なのかと頭は懸命に理由を探してぐるぐるしていたが、酸素が足りずに空回る。
ただ市丸の腕はしっかりと、イヅルの腰に回って離れようとはしない。
首筋に吐息が掛かる。
顔こそ合わせていないものの、その近さにイヅルは息苦しくて仕方ない。
あの市丸ギンが目の前にいると言うだけでも天地がひっくり返るくらいの大事件なのに、こんなのは予想外だ。
笑いながらの連れションだったらしい一行は、喧噪を後にトイレを出ていく。
再び静寂を取り戻したトイレで、市丸の手がイヅルの口から退けられた。
「ご免な、急に」
「い……いえ」
理由は分からなかったが市丸が謝ったのでイヅルは首を振る。
しかし市丸は個室の戸を開かない。
どうしたらいいのかとイヅルは背後の市丸を振り返ろうとして、肩を抱くように抱き締められた。
「っ!?」
市丸の顔が首筋に埋まっている。
逃げ損ねたイヅルは腕の中で混乱に目を白黒させて口をパクパクとさせた。
「好き」
―――――え?
ポツリと呟かれた言葉に、イヅルは耳を疑う。
「イヅル君めっちゃ可愛ぇえ。めっっっっちゃボクの好み。なぁ、ボクと付き合ってくれへん?」
―――――ぇぇえええええええええっ!?
イツルは声もなく驚愕した。
いやだってそうだろう?
あの伝説の(イヅルの中では伝説と化している)ギタリスト市丸ギンが、まさかまさかの一目惚れ。
しかも自分にっ!!!!
その上告白はトイレだなんて絶対に有り得ないっ!!!
ぎゃぁぁぁ、ぎゃぁぁぁ、と煩く悲鳴を上げている脳細胞に渇を入れ、イヅルは怖々確認した。
「あ……の……僕、男……ですけど?」
「ん。見たら分かる」
「じゃ……じゃあもしや市丸さんて……」
「や。男は君が初めてやから」
と言うことは男と分かっても引く気はないと言うことで。
つまりこれは紛れもない自分に対する告白で。
必然的に今、自分は答えを求められている訳で……???
「お願い」
ぎゅうっと市丸の腕がイヅルを抱き締める。
―――――お願いって言われてもぉぉお!?
イヅルはパニックに口をパクパクさせていたが、九割九分市丸へと心が傾いている自分の心を知って、諦めたように答えを返した。
「僕で……良ければ」
**************
それからは有り得ないような日々がイヅルを待っていた。
市丸の住居は噂通りニューヨークにあるらしく、日本にいる間はウィークリーマンションを借りたりホテルに住んだりと、住所が一貫せず、イヅルが世田谷に住んでいると知ると、高級マンションをポンと買ってしまい一緒に住もうと言い出した。
「いえ、さすがにそれは」
まさか友人やメンバーに市丸とのことを話す訳にも行かず、イヅルは丁重にその申し出は断った。
「えーでも一緒にいたい」
市丸はイヅルが仲間内に話す気がないことを知ると、膨れっ面でぶーぶー言っていたが、惚れた弱みか結局折れて、イヅルの狭いアパートに転がり込んできた。
そんなこんなで同棲することになった二人はしかし、互いの生活スタイルの違いに悉く衝突する。
まず市丸はイヅルからすれば有り得ない自堕落さで、炊事洗濯掃除と言った家事は一切やらないタイプ。
汚くなったら捨てるという経済観念のなさにもイヅルは驚かされたが、何より一番驚いたことは生活時間が24時間基準ではないこと。
基本的に朝起きて晩に寝ると言う一般的なスタイルのイヅルは、二日ほど寝続けたかと思えば30時間くらいぶっ通しで動き続けるような市丸の生活に瞠目する。
音楽メインの生活と言えど、バイトも掛け持ちしていたイヅルは、マイペースに手を出してくる市丸に引きずられ、一週間足らずでバイトをすることは諦めた。
スタジオに通うと言った用事でもない限り、市丸はイヅルをベットから離さなかったし、イヅルもそれに抵抗する術を持たなかったからだ。
それこそ下手をすれば二人揃ってオフの日は、一日中ベットの中と言うこともしばしば。
外にデートに行くなんて以ての外。
二人揃っていると言えば常にくっ付いている状態で、イヅルはあっと言う間に市丸に溺れ、市丸もまたイヅルを己の内へとどんどんと引きずり込んでいった。
それでもイヅルは幸せだった。
市丸は私生活こそ滅茶苦茶だが、仕事はきっちりとこなすタイプで、駄々は捏ねど、遅刻やボイコットはイヅルの知る限り一度もない。
自分の荷物は何処かのトランクルームにでも預けているのか、私物は極端に少なかったが、紙とペンとギターさえあればラジカセ一個で曲を作る。
またそれは感動的なまでにイヅルの好みに合致して、尊敬と憧憬は日増しに泥酔の域に達していく。
市丸はいつもイヅルを猫っ可愛がりしていた。
イヅルが怪我でもしようものなら救急車だ名医だと騒いで大変だったし、仲間内で飲みに行くと言えば変装して後を付いてきたりと、ともすれば度を超えた愛情であったが、それでも市丸の気持ちは十分なほど伝わっていて、イヅルもまた市丸に深い愛情を示した。
「好きや」
市丸は忙しい仕事の合間を縫うように、イヅルとの時間を必死で作り、二人幸せの時を過ごす。
「僕も、大好きです」
イヅルもまた市丸の為に音楽以外の全てを捧げ、その気持ちに必死で応えていた。
それがおかしくなり出したのは昨年の夏。
修兵が知人の紹介でDay turn Valleyの日番谷にプロデュースデビューの話を持ちかけられた時からだった。
「俺はこれに賭けるつもりだ」
修兵はそう言った。
日番谷としては初めてのプロデュースバントになるが、彼は業界でも面倒見の良い男として評判だったしその活動自体、デビュー10年を越える重鎮バンドのリーダーとして多くの功績を残している。
修兵が傾倒するのも当然で、恋次も二つ返事で話に乗った。
しかしイヅルは迷っていた。
Day turn Valleyと言えば市丸属するspearのライバルバンドだ。
たかだかプロデュースバンドがライバルバンドと仲良くしているからと言って、大きく問題視されない気はしたが、良い気はしないだろう。
日番谷を取るか市丸を取るかと言われれば、安易には答えられない気がした。
しかし市丸のこととバンドの事は別である。
私事と仕事を一緒にしないことを己に誓い、イヅルは修兵の話しに頷いた。
そうして秋には来春当たりを目処として、69-sixtynine-のメジャーデビューが確定した。
イヅルの回りも忙しくなる。
市丸は相変わらず日本での仕事にのみ専念しているようだったが、少しずつ時間が噛み合わなくなり、顔を会わさない日さえ出来るようになっていった。
そんな時だった。
イヅルは突然事務所に個人名で呼び出しを食らった。
何事かと社長室に顔を出すと、日番谷と、社長である卯ノ花がイヅルを迎えた。
「吉良、ともかくこれを見ろ」
日番谷がイヅルに手渡したのは白黒のFAX用紙で、何か雑誌のページをコピーしたようなものだった。
受け取ってそれに目を通したイヅルは青くなる。
雑な印刷で写真こそはっきりしなかったが、そこにはイヅルと、そしてspearの市丸との関係についての勘ぐり文が敵意も剥き出しに書かれていた。
「この記事が本当かどうかは問題ではありません」
卯ノ花は言った。
「問題はこの記事の内容を、事実にしないことです」
イヅルは卯ノ花の顔を見つめ、その真意を測る。
―――――つまりそれは、嘘でも本当でも市丸さんに近付くなって……そういうことですか?
イヅルはしかし質問を口に上らせることは出来なかった。
ただ項垂れ、「分かりました」とだけ答える。
日番谷は「ともかくこれがspear側の嫌がらせじゃねぇってことの裏付けがないことには」と別の話を始めていた。
イヅルは部屋を下がり、ショックに打ちのめされて廊下にしゃがみ込む。
やはり無理だったのだと、そればかりが頭を回った。
この記事をイヅルが知らないと言うことは、社長が世に出回る前に握り潰してくれたと言う事だろう。
しかし今後、同じようなことがあれば、それは保証の限りではないと、きっと彼女はそう言いたかったのに違いない。
イヅルは壁に凭れて冷たい床の感触を追いながら、このままでは仲間は勿論、市丸にまで迷惑を掛けかねない恐怖に気付いて、その恐ろしさに怯えた。
―――――もう駄目だ。
イヅルはよろよろと立ち上がって、携帯を手に取る。
修兵の番号を呼び出すと、「今晩、泊まっても良いかな」と頼み込んだ。
その晩、イヅルは市丸と付き合い出して初めて外泊した。
しかも行き先も告げずに。
携帯の電源は落として、身も細る思いで修兵の家に身を寄せる。
「お前、顔色悪いぞ、どうかしたのか?」
何も知らない修兵はイヅルを心配して、精が付く物と焼き肉を出してくれた。
「ありがとう。でもちょっと……食欲なくて」
イヅルは電源を落とした携帯が気になって仕様がない。
もしかしたら今頃、市丸は心配して何度も電話を掛けてくれているかも知れない。
そう思うと居たたまれずに、米さえ喉を通らない。
そんなイヅルに修兵は「じゃあビタミン付けろ」とフルーツ缶を開けてくれた。
「檜佐木先輩、ありがとうございます」
何とか桃だのパイナップルだのにフォークを刺したイヅルを見て、修兵は安堵の息を漏らす。
「お前神経細すぎなんだよ。もっと図太く生きろ」
修兵の言葉にイヅルは笑って、そして夜は更けていった。
しかし時計の針が2時を回る頃、テレビゲームに付き合わされていたイヅルは轟音のドアノックとインターフォンの嵐に、修兵と二人目を丸くして飛び上がった。
「な、なにごと!?」
修兵が「うるせぇっ!!!」と叫びながらドアを開けると、飛び込んできたのは市丸と、ボロボロになった恋次だった。
「い……ちまるさ、ん」
思わず名を呼んだイヅルに、市丸は掴み掛かるように近付くと、「何で電源切っとんねんっ!!!」と怒鳴った。
「ご、ごめんなさい」
イヅルは反射的に謝り、事態を上手く飲み込めていない修兵は市丸の抱える恋次に気付いて声を上げた。
「おま……恋次っ!!どうしたんだ!?」
恋次の左頬は赤く腫れていた。
どう見ても殴られて虫の息になっている恋次に、修兵は市丸目掛けて突っかかる。
「あんたっ、何なんだ。恋次を殴ったのはあんたかっ!?」
イヅルとの間に割って入った修兵に、市丸は苦く一瞥をくれると蹴り退けようと足を上げる。
「待って下さいっ!!!」
それをイヅルが留めて、「ともかく、ともかく阿散井君を病院にっ!!!後で、後で全部話すからっ!!」悲鳴のように泣いて車を出すよう修兵を急かした。
恋次は修兵が病院へと連れて行った。
市丸はイヅルと残って、気まずい空気が部屋の中に漂う。
市丸ははっきりと怒っていて、イヅルは自分がしでかしたことに後悔していた。
別れる為の理由を作ろうと思ったのだ。
一晩くらいの外泊なら、市丸だって苛々しながらでも待っているだろうとイヅルは思っていた。
そして『他に好きな人が出来た』と言えば、怒りながらでも愛想を尽かして別れてくれるだろうと。
まさか恋次の家に殴り込んで、イヅルの居場所を探り出すとは思ってもみなかったのだ。
「ごめんなさい」
イヅルはともかく謝る。
「別れて下さい」
そして素直に事の真相を話した。
しかしイヅルの話しをおとなしく聴いていた市丸は、「何やそれ」と怒りに身を震わせる。
「そない週刊誌にボクとの関係、すっぱ抜かれるんが怖いんかっ!?」
市丸はイヅルの肩を掴んで揺さぶった。
「ボクは構わへんっ!!!イヅルとやったら付き合うてるんバレても痛くも痒くもないわっ!!!」
市丸の声は大きく、怒りと悲しみに満ちていたが、イヅルは答えることが出来ない。
「それとも日番谷か!? あの餓鬼がそないに怖いんかっ!? ボクと一緒におるよりあいつ等と一緒におる方がええ言うんか!?」
イヅルは泣いて、けれど答えられなかった。
そんな訳はない。
市丸さんのことが好き。
市丸さんと別れるくらいなら、バンドも全部辞めて、市丸さんの元に走り込んでしまいたいくらい。
だけどそんな事が出来る訳がなかった。
イヅルは一人じゃない。
69のギタリストはイヅルなのだ。
日番谷が見込んで、世に送り出そうとしているのは、修兵と恋次と、そしてイヅルの三人で築いてきたバンドなのだ。
しかもデビュー直前。
イヅル目当ての固定ファンだっている。
メジャーになれば必然的に一旦はインディーズ目当てのファンが消える。
そこでメンバーまで失って更にファンを減らすことは、69にとって最も避けたい事態。
そこまで修兵や恋次、そして日番谷や卯ノ花に迷惑を掛けることはどうしても出来ない。
それに何より市丸なのだ。
自分は市丸にとって公表できない恋人。
隠しておかなければならない醜聞。
心の底から憧れて、尊敬する一人としてずっと目指してきた人に、まさか自分で泥を塗ることなんて出来る訳がない。
市丸の気持ちに応えることは出来ない。
自分の気持ちを伝えることは出来ない。
イヅルは市丸の瞳を見つめると、はっきりと、「別れて下さい」と言った。
市丸の顔が凍り付く。
イヅル肩を掴んでいた指の力が抜けて、だらりと両脇に落ちた。
「うそや」
小さな呟きに、「本当です」完膚無きまでの否定を返し、イヅルは立ち上がると玄関の戸を開けて言った。
「出て行って下さい。二度と会いません」
市丸が座ったまま振り返る。
項垂れて顔の表情は分からない。
ただ憔悴しきった身体をゆらりと起き上がらせると、よろめくように玄関へと歩いた。
市丸の手がドアに掛かる。
イヅルは隣の壁に背を付けるように項垂れて、市丸の足元を見つめている。
ふらふらとそれでも歩いていた市丸は、イヅルの前で不意に足を止めた。
静かな間。
その静寂に耐えきれず、イヅルが顔を上げると、強い力で顎を掴まれ、深々と舌を差し込まれた。
「んんっ〜〜〜っ!!!」
息さえできない激しいキス。
これが最後と互いに相手の全て貪るように口付ける。
イヅルの手が市丸の背に縋った。
言葉とは裏腹に、耐えられないほど悲しくて。
けれど目は瞑り続ける。
もし目が合って、その瞳が悲しみの色に染まっていたら、もう見送ることなど出来なかったから。
―――――さよなら、さよなら、愛しい人。
さよなら。
唇を離して、市丸の胸を押したイヅルは、力任せに扉を閉めた。
鍵も閉めて、二度と会えないように、硬く扉を閉めたイヅルはその場に崩れる。
石畳に膝をついて、胸の痛みに震えながら、 市丸の靴音が、遠離っていくのを掻き消すように、声を上げて泣いた。
***********
市丸と別れて、イヅルは憔悴の日々を送っていた。
恋次と修兵はイヅルの話を聴いて、市丸を咎めることはしなかった。
ただ「別れたんだ」というイヅルに、「本当に良いのか」とだけ訊いてきたが、イヅルは「いいんだ」と答えた。
「もう市丸さんとのことは終わったんだ。夢みたいなものだよ。現実に戻っただけ」
イヅルは笑って、それでも毎日の仕事には休むことなく働き続けた。
しかしそれは抜け殻のまま、惰性で動いているようなもので、周囲からはむしろ痛々しくて見るに耐えないものであった。
それでもイヅルが頑なに現状を貫き通すので、段々と修兵も、恋次も、誰もその事について触れなくなっていっていた。
そうしてやっと2月が経ち、やっと落ち着いてきたかという時期に、イヅルはレコーディングを終えて出てきたスタジオ前で見知らぬ車に拉致された。
「んんーんっ!!!」
突然開いた運転席から伸びた手が、イヅルの口を押さえ、凄い勢いで車内に引き込まれる。
横抱きに抱えられて、猛スピードで発進した車に逃げ道を奪われ、イヅルはともかく手足の自由をと藻掻く。
「んんんーっ!!!」
両手で口元の手を掴み、剥がそうと見上げた顔は、しかし見覚えのある銀髪で、イヅルは瞬時に凍り付く。
―――――市丸さん!?……何で?
それはまさかの再会だった。
「んんんっ!!!んーんっ!!」
イヅルは市丸を見つめ、口元の手を叩いて退けるよう訴える。
しかし市丸はまったくこっちを見ることなく車を走らせ続け、そうして30分ほど猛スピードで走っていたと思ったら、やっとどこかに停車した。
イヅルの口から手が退けられる。
最後の方は全くの無抵抗で市丸の膝に頭を預け、サイドシートに足を投げ出すように寝転がっていたイヅルはゆっくりと身を起こした。
窓の外を見ればそこは港で、秋初めの平日の真っ昼間と言うこともあり、人気はない。
ブラックフィルムを貼り付けた窓に内を覗かれる心配がないことを確かめると、イヅルは助手席に座って俯いた。
転がされている間も、ずっと市丸に言うべき言葉を考えていたが、今も一向に浮かばない。
ただ『どうして』が頭を回り、イヅルはむしろ泣きたい気分でそこに身を縮めていた。
「イヅル」
変わらない、懐かしい声が名前を呼ぶ。
イヅルは唇を噛んで、必死で涙を堪えた。
「イヅル」
市丸の腕が伸びる。
肩を抱き寄せられ、胸に抱き込まれ、近付いた唇に、しかしイヅルは腕を突っぱねる。
「辞めて下さいっ!!!」
悲鳴のように訴えると、市丸が震えたことを感じた。
「イヅル」
痛みを堪えるような声に、イヅルの胸も痛み出す。
2ヶ月の市丸不在のはけれど、慣れてなどいなかった。
忘れた振りをしていただけ。
気付かない振りをしていただけ。
市丸の腕の中で、イヅルは滲んできた涙を必死で止めようと唇を噛む。
「やり直したい」
市丸が言った。
「無理です」
イヅルは吐き捨てるように答える。
「イヅルがおらん生活やなんて耐えられへん。お願いや」
市丸の声は泣いているようで、イヅルの涙が零れだす。
嫌いになった訳じゃない。
むしろこんなに愛していて、なのに、なのに一緒にいる訳にはいかなくて。
「ごめんなさい」
イヅルの声も泣いていた。
それでも腕を振り解く気にはなれなくて。
イヅルは市丸に抱かれたまま震えていた。
「イヅル」
市丸がイヅルを抱く腕に力を込める。
抗う素振りを見せないイヅルに、そっと触れて、潤んだ瞳を見つめながら唇を近づけた。
下がって寄った眉が苦悩に歪みながら、それでも瞳は伏せられて、二ヶ月ぶりのキスをする。
最初は触れるだけだったそれは、あっと言う間に激しく、飢え餓えていた何かを取り戻すように、互いに激しく舌を絡ませ合い、唾液一つ逃すまいと貪り合う。
好き過ぎてどうしようもなくて、この人がいないとだめだと確認する。
確認したところでどうしようもないと分かっていてさえ、求める心は変わらなくて。
唇を離した市丸は、罪に震えるイヅルの瞼にもキスを落とした。
「好きや」
言ってはいけない禁句を繰り返す市丸に、けれどイヅルは答えない。
市丸の腕がイヅルの頭を抱え込み、何も言わずに抱き締める。
その心地良い温度に慣れてしまわぬ内に逃げ出さなければいけないのに、腕に力が入らなかった。
―――――好き。
心が痛いほど訴える。
悲鳴のように、市丸が好きだと叫び続ける。
どうしてダメなのと自問しながら、それでも踏み切れないイヅルは曖昧に抱かれるだけ。
「イヅル」
市丸が呼ぶ。
「どうしてもあかんの?」
最終確認のような問い。
イヅルは振り下ろされる刃に目を閉じる殉教者のように、「ダメです」と答えた。
「―――――っ」
市丸が息を詰めたのが分かった。
もうダメだとイヅルの中の警告灯が点滅している。
腕に力を込めて、市丸の胸から身体を起こす。
しかしその肩は掴まれたまま、市丸は射竦めるようにイヅルを睨み付けて言った。
「ほな取引しょうや」
「取引?」
イヅルは眉を寄せる。
「そうや。ボクはお前の元恋人や。ヤバイもんなら仰山持っとる。覚えてるか? あの時の写真」
イヅルは記憶を巡って顔を顰めた。
確かに、市丸とそういう関係にあった時、戯れに情事の写真をデジカメで撮ったことがある。
あれは市丸のカメラで、別れた時に勿論市丸が引き取ったのだろう。
「表に出されへんようなとこまでバッチリ写っとる写真や。あのデータ、流されとうなかったら、おとなしくボクの言うこと聴き」
「なっ……」
イヅルはあまりの台詞に言葉を失った。
まさかそんな手に出てくるなんて。
「脅迫するつもりですか」
市丸はにやりと笑うと、「そうや」とギアを入れ替える。
走り出した車の中で、イヅルは苦い思いと共に、これからどうなるのかという不安に顔を曇らせた。
市丸が連れてきたのは見覚えのないマンションだった。
そこは市丸の持ち物らしく、駐車場に車を突っ込むと、「出ぇ」と命令して車を降りる。
暗証番号とカードキーで動くエレベーターで上まで上がったイヅルは、止まった階の前、ワンフロア全部がスペースという空恐ろしいほど広い部屋に通される。
中はモデルルームのような嘘くさい空間だった。
西洋式らしい玄関はドアだけで、靴を脱ぐスペースはない。
正面はリビングでばかでかい空間の中央にデザイナーズブランドっぽい日本では余り見ない形の使い難そうなソファセット。
観葉植物なんかが飾ってあったりするのに、生活の匂いは一切しない。
ぼんやりと部屋の作りに見とれていると、市丸に腕を取られ、奥の部屋へと連行された。
そこはベットルームで、ここもやはりばかでかい空間の壁に寄せるようにキングサイズのベットが一つ、設えてある。
イヅルはそこへ腕を取られ、放り投げられるように離されると、間髪入れずに市丸にのし掛かられた。
強引に口付けられる。
慣れた舌の愛撫を受け入れて、大義名分にイヅルはベットへと這い上がる。
市丸の指がシャツのボタンに掛かって、一つ一つ優しく解いていく。
これは脅迫されての強要行為だから。
頭で何度も言い聞かせて、煩い理性を黙らせた。
舌を差し出す。
市丸の指は優しい。
露わになった肌に這う指は変わらない動きでイヅルを愛する。
―――――このぬくもりが欲しかった。
思ってはいけない感情に蓋をするように、イヅルは市丸の頭を掻き抱く。
好き。
言葉は紡がない。
ただその指で、身体で、必死に訴える。
貴方が好き。
ズボンを剥ぎ取られるのももどかしく、自ら腰を浮かせて足を開き、絡めるように抱き付いて。
市丸の瞳が嬉しそうに細まる。
好き。
瞳が語る。
泣いたところで変わらないのに涙が溢れて、イヅルは再びキスで誤魔化した。
市丸の手がイヅルの下肢に伸びる。
長い指が愛撫に折れて絡み付く快感。
イヅルは膝で布越しの市丸を刺激した。
―――――来て欲しい、早く。
ねだる言葉も乗せられない唇は、ただ小さく喘ぎを零し。
市丸はイヅルの奥まった箇所に指を滑らせた。
指が一本入り込もうとして、予想外のキツさに引き抜かれる。
ぴりっと走った痛みに眉を寄せたイヅルは、そっと市丸の指を取って口に含んだ。
「……っ」
市丸が息詰める。
予想外の積極性と瞳を見開いて驚いているのが分かる。
でも止められない。
気付いて欲しくて。
本当は好きだと悲鳴のように叫んでいるこの胸内に気付いて欲しくて。
イヅルは市丸の指に舌を絡める。
濡れた音を響かせて吸い上げたイヅルに、市丸が優しいキスを落とした。
まるで分かっているというように。
紡がれない言葉に愛撫を乗せて、再びイヅルの奥へと指が滑った。
「っん……ん」
久しぶりに感じる違和感。
以前は毎日のように市丸の熱い物を受け入れていたはずが、嘘のようにイヅルのそこは硬く窄まっている。
「ぁ……んっ……ぅん」
性急に解そうする指が市丸の昂ぶりを伝えている。
もう保ちそうにないのはイヅルも同じで、本当は顔を見たまま挿れて欲しかったが、俯せに変えて濡れた瞳で合図した。
『来て』
市丸のそれがイヅルの狭い箇所に宛われる。
先走りを何度か擦りつけられるように入口を解されると、溜まらずにイヅルは甘い喘ぎを漏らした。
「あああっ……ぅんん」
「ええ声」
初めてから最初の市丸の声に、イヅルは背筋に甘い痺れを感じる。
「来て」
理性が止めるより早く、飢えた心が本当を口にする。
「ぅああああっ……ああ、〜〜〜っ!!」
押し開かれる感触に、イヅルはシーツに爪を立てた。
キツイ。
キツイのが良い。
その方が市丸を意識出来るから。
―――――好き。
それでも口に出来ない言葉は喘ぎに変えて、イヅルは啼き続ける。
「ああ、あああ、んー……っああ!!」
激しいグラインドにシーツから身体が浮くほど揺さぶられ、脳天まで突き抜ける快感に意識が白くなる。
「ああ、……ぃあ……ぁぁあっ」
イヅルの身体が衝撃に動けば、市丸が腰を掴んで引き戻す。
久しぶりのセックスにしては熱すぎるほどのやり方に、イヅルは意識を飛ばしそうになりながら受け止める。
「イヅル」
熱い囁きさえ、電撃が走るような痺れが身体を駆け抜ける。
「ああ、……い、いち……あああっ」
身体を反転されて、膝の上に抱きかかえられるように貫かれて、イヅルは一際高い声を上げる。
恥じ入る暇も与えない市丸は、イヅルの身体を力強く揺さぶり続けた。
「はっ……あ、……ああ……やぃ……いちま、……さんっ!!」
イツルが市丸にしがみつく。
頭を掻き抱くように絶頂が近いと訴える。
「ええよ。めっちゃええ気持ち。イヅルゥ」
市丸の声も昂ぶりに掠れて。
「ひっ……あ、あ、あ、イ、ぃ……〜〜〜っ!!!」
イヅルの腕の力が一際強くなり、びくびくと痙攣した身体が弧を描いて反りかえった。
途端に内部の締め付けも強くなり、市丸を強く感じたイヅルは、奥で放たれた精を感じて、余計に身を震わせる。
「〜〜〜っぅ……ん」
背中からベットに倒れ込んだイヅルは、市丸の腕で優しく横たえられる。
久しぶりの充足感。
長く渇いていた躯はやっと戻ってきた熱を取り戻すかのようにドクドクと、粟立つように震えた。
「市丸さん」
イヅルが呼ぶと、市丸は濡れた額にキスをくれる。
「市丸さん」
好きの代わりに名を呼んで、愛しさに口付けたイヅルに、市丸は熱い舌で応えてくれる。
「イヅル」
市丸の腕が足りないと、イヅルの背を抱き寄せた。
息も整わないまま、二度目に誘われたイヅルはそのまま無し崩すように市丸の上に乗り上げて。
自分も飢えているのだと、貪るように市丸の唇を吸った。
*************
どれくらい抱き合っていたのだろう。
イヅルは混濁した意識の中で自分の腕時計が鳴る音を聞いていた。
この部屋の時計は音一つ立てないらしい。
隣で眠る市丸はまだ規則正しい寝息を吐いている。
身体が怠くて重い。
指一本動かせないまま、目だけがぽっかりと開いて天井を見つめた。
此処にいてはいけない。
理性が囁く。
でもあの写真をばらまかれたら元も子もないじゃないか。
感情は嘯く。
身を捩るとまだ奥に注ぎ込まれたままになっていたらしい市丸の物が、どろりと伝う感触がして、イヅルは気持ち悪さに身を竦めた。
「……んぅ」
下肢の濡れた感触が恥ずかしい。
今更赤面しているイヅルの髪が、長い指に梳かれた。
「起きた?」
「市丸さん」
優しい微笑を浮かべる市丸に、イヅルの胸は熱くなる。
―――――好き。
ああ、本当に好きだ。
イヅルは泣きたい気分で赤い瞳を見つめる。
好きで好きでどうしようもない。
離れたくない。
失いたくない。
市丸はイヅルの頬に掛かる邪魔な髪を梳き退けると、「流そか」と背と膝裏に腕を差し込み、抱き上げてバスルームへと運んでくれた。
二人でシャワーを浴びる。
市丸は優しい。
こんな優しい脅迫者なんかいやしない。
イヅルは首に抱き付いて、市丸の指が奥を掻き出すのに息を詰めながら、シャワーの音に紛れるように「好き」と呟いた。
「ごめんなさい」
聞こえていたって聞こえていなくったって、どっちだって良いと思った。
どうせ面と向かって伝えることは出来ないのだから。
市丸は何も言わないでただイヅルを抱き締め、ボディソープを泡立たせると、優しくイヅルの身体を洗ってくれた。
「また呼び出すよ」
別れ際、市丸はイヅルにそう言った。
「写真ばらまかれたくなかったらちゃんとおいで」
言葉とは裏腹に、優しい顔が名残惜しさを訴える。
「分かりました」
イヅルは答えて、自分のアパートの前、市丸の車の中でキスをした。
楽園はここで消える。
この車から一歩でも外に出てしまったら、市丸は脅迫者。
イヅルは弱みを握られた被害者。
それでも繋がっていられるというのなら、全てを投げ出しても構わないとさえ思うのに。
新しい市丸の携帯ナンバーは、登録名を『×××』にする。
見られても誰のものか分からないように。
言えない思いをキスマークに閉じ込めるように。
タブーを自分に戒めるように。
走り去る車の見送りながら、イヅルはいつまでもいつまでもそこに立っていた。
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