雛恋








その日、市丸は一世一代の賭を前に緊張していた。

オレンジの街灯に照らされた目的の家の前、車庫に車がないことを確認した市丸はインターフォンに手を伸ばす。

ピンポーン
―――――

明るい電子音と共に、玄関の扉が開き、「いらっしゃい」満面の笑顔を浮かべた愛しき君が笑っていた。

「こんばんわぁ」

子供らしく可愛らしく挨拶してみる。

「道、迷わなかった? 汚い家だけど、上がって」

市丸は促されるまま家に上がる。

「えっと、居間でやる? それとも僕の部屋でしようか」

愛しの金髪が少し傾いて、困った風に揺れる。

「イヅルのさんの部屋の方が落ち着きそうやね」

市丸が答えると、イヅルは「そう?じゃ、二階にどうぞ」と自室に案内してくれた。

「ちょっと待っててね。お茶煎れてくるから」

イヅルは市丸を部屋に残すと、パタパタと階下に降りていく。

一人残された市丸はひとまず部屋を観察した。

シンプルに片づいた部屋。

目に付くほど多いのは本。

殆どが推理物などの小説であって、特にこれと言って他に目に付く物は何もない。

紺色のベットはシングルで、下も覗いたがエロ本はなし。

簡素なデスクには市丸の為に用意したのか小さな椅子がもう一つ。

可愛いぬいぐるみもなければ、女とのツーショット写真もない。

―――――よし。

市丸は一人拳を握りしめる。

イヅルに彼女が居ないことは確認済だが、おいそれと鵜呑みにしてはいけないことは分かっていたりするマセた小学生なのである。

「お待たせ」

イヅルが紅茶を持って戻ってきた。

「あ、鞄置いてて貰って良かったのに。ごめんね、気が利かなくて」

イヅルは机に紅茶を並べると、ベットの隣で立ちっぱなしの市丸に気付いて顔を上げる。

「どうしたの?」

何の気無しに近付いて、市丸の顔を覗き込もうとした瞬間、イヅルは強い力でベットに突き飛ばされた。

―――――っ!?」

どすっ、と言う振動と共に市丸が馬乗りになる。

「イヅルっ!!!」

叫ばれて、イヅルは抗議するよりも先に驚きに「はぃ?」と改まってしまう。

「ボク、イヅルのことが好きやねん! ボクの物になって!」

市丸はそう言っていきなりイヅルに口吻た。

「……んんっ!?〜〜〜っ!!」

ぬるりと舌が差し込まれ、イヅルは瞳を白黒させながら慌てる。

―――――どうなってるのぉ!?







*************************************








ことの発端は二週間前に遡る。

イヅルは某会社社長の秘書を務める姉、乱菊の休日に付き合わされ、買い物の荷物持ちにファッションビルをそぞろ歩いていた。

「あ、ギン君!!」

突然乱菊が前方の少年に手を振って駆け出す。

イヅルはその見覚えのない少年に首を傾げながら、紙袋を5つも下げ、その後に続く。

「あれ、乱ちゃんやん。どないしたん? 買い物?」

ギンと呼ばれた少年は銀髪で、笑っているような細い目をした小学校高学年くらいの外見。

少年と話していた乱菊はイヅルを振り返ると、「この子、うちの社長の息子さん」と簡素な紹介をしてくれた。

「あ、吉良イヅルです。姉がお世話になってます」

イヅルは小学生に向かって頭を下げるのも何だかな、と思いつつ、ぺこりとお辞儀する。

「市丸ギンです。よろしゅう」

市丸は頭を下げたが、瞳はイヅルに釘付けだった。

その不躾なまでにじろじろと、頭から足先までを見つめてくる市丸に、イヅルはちょっと首を傾げる。

しかし市丸は次の瞬間、乱菊に向かって言った。

「なんや賢そうな弟さんやね。どこの高校行ってはるん?」

「K大付属よ。イヅルは頭良いわよぉ、私に似て」

乱菊は得意げに言って笑う。

それに笑い返した市丸は「そらすごい」と感心の表情を見せた。

―――――なんだ、良い子なんだなぁ。

イヅルは市丸に好感を持って、目が合った瞬間、微笑んでみせる。

市丸はちょっと焦ったような顔をしたが、すぐに元の微笑に戻って、今度はイヅルに話しかけてきた。

「イヅルさんてなんやバイトしてはります?」

「あ、うん。二つ掛け持ちしてるけど」

両親の居ない吉良家は乱菊の収入と、イヅルのバイト代で生活している。

別段苦しくもないが、裕福という訳ではない。

「ボク、今から塾行くとこなんやけど、家から遠ぉて、家庭教師探してるんです。せやけどお父さんが知らん人の家行かすの嫌ってはって、イヅルさんみたい知ってる人でちゃんとした学校通ってる人探してたんですけど。ボクの家庭教師やってくれませんか?」

「ええ!?」

急の申し出にイヅルは驚く。

「あきませんやろか?」

イヅルだってバイトを掛け持ちしている忙しい身だ。

この上家庭教師なんて引き受けたら、バイトどころではなくなってしまう。

いや、どちらかを捨てて家庭教師をした方が割が良いのか……。

そこへ市丸が「無理言わせて貰ろてますから月謝も奮発させてもらいますよって」と駄目押しをした。

「え、ちなみにどれくらい?」

つい家計を切り盛りする主夫イヅルの顔になり、市丸に目線を合わせる。

「通常の相場がこれくらい……やろから、このくらいは出させて貰います」

市丸がポケットから取り出したメモ帳に書いた金額は、イヅルのコンビニバイトの二ヶ月分に近い。

「こんなに!?」

イヅルが驚くと、「多分もっと出る思いますけど、最低こんくらいで」市丸は苦笑した。

「やらせて貰いますっ!」

現金だが仕方ない。

イヅルは金がいるのだ。

何せ遊びたい年頃の高校生でありながら、生活費も負担している状態なのだから。

市丸の手を取ったイヅルに、「恥ずかしい奴」と乱菊は苦笑したが、交渉は成立。

「ほなまた詳しいことは電話させて貰います」

そう言った市丸の笑顔に、「どうぞよろしくね」微笑んだイヅルは、しかし気付かずにいた。

手を振って去っていった市丸が前方を振り返った瞬間、この上もなくしてやったりというブラックな表情になったことを……。









*****************************************









そうしてイヅルは市丸の家庭教師になった。

しかし市丸の目的は勿論別の所にあった。

イヅルに一目惚れしてしまったのだ。

金色の髪。

青い瞳。

はにかむように笑う、清純そうな表情。

派手で可愛らしい、軽い女の子は付き合い易いが、自分の物にするなら貞淑で夫を立ててくれる大和撫子が理想。

その点イヅルは完璧に理想的中。

美人で可愛いくて、外見は派手なくせに、中身は古風な大和撫子。

これ逃したら男やないやろ。

市丸はそう思った。

絶対に逃されへんっ!!!

そう思ったからこそ、無理矢理過ぎるバイト話しを持ちかけて、そうしてまんまとイヅルを釣り上げたのだ。

第一段階はクリア。

しかしここからが勝負と市丸は、イヅルの家へと勉強を教えに貰いに行く初日、一世一代の賭けに出た。

イヅルが好きだと、告白する。

勿論失敗する訳には行かない。

なにせイヅルは高校生で、市丸は小学生で、年の差四つとは言え、十代の四つは外見的にも全然違うのだ。

今落とさなければイヅルに彼女が出来るかも知れない。

今落とさなければ自分は一生子供扱いのままだ。

市丸は無理矢理にでも自分を意識して貰う為、痛いとは思ったが超強硬手段に訴えた。

「……っン……んぅ」

肩を押さえつけ舌を絡めて、吸い上げる。

痺れるくらい……てヤツを実践。

薄く目を開ければ、力一杯閉じられていたイヅルの眦に涙が浮かぶ。

―――――ちょっとは感じてるんかなぁ……。

何気にディープキスは初めてだったりする市丸である。

イヅルは市丸の腕を掴んで交戦中だが、その腕に力は余り籠もっていない。

余りしつこ過ぎても駄目だろうと、頃合いを見計らって唇を離した市丸は、トドメの開眼。

他人からは怖いと評判の赤目でイヅルをじっと見据えた。

「イヅル、好きや」

笑っていない表情で開眼すると、大抵の者は怯んでしまう。

解放された唇に目を開けたイヅルも、市丸の紅い瞳を見た瞬間、小さく息を詰めたのが分かった。

「好きや、イヅル。ボクの物になって」

三度目の告白。

イヅルは冷や汗の表情で市丸を見上げる。

「え……と、ちょっと落ち着こうよ市丸君」

その子供をあやすような口調に、市丸は、む、と唇を引き結ぶ。

「悪いけどボク、冗談のつもりやないねん。真剣に言うてんのやから、真剣に答えてイヅル」

眼差しを強くすると、イヅルは幾らか怯んだように眉を寄せた。

「で、でもいきなりこんな……市丸君、男の子だろう?」

苦笑でシャレにしたいイヅルは曖昧に笑おうとするが、真剣な視線がそれを許さない。

「ボクは男や。イヅルも男やな。せやけどボクが惚れたんはイヅルや。男や女やそないなもん、何も関係ない」

―――――子供のクセに、なんて貫禄だ。

イヅルは内心焦っていた。

何とも情けないことに、逆らえないのである。

強すぎる瞳に、溢れ出るほどの凄味に、気圧される自分が居る。

干上がった喉で、「でも」を唱えるしかないイヅルは、しかし上手い反論は出てこない。

市丸は馬乗りのまま、「うん、て言うてイヅル」と、交渉の成立を促す。

「中学入ったら、すぐイヅルの背やって抜かす。頭やってめっちゃええから、イヅルがそうして言うんやったらスキップして同じ学年通ったってええ。ともかくイヅルの約束が欲しいねん。心が欲しい。ボクのこと好きて言うて。ボクの物になるて言うて」

「そんな……」

イヅルは眉を寄せて困るしかない。

市丸は強引で、小学生のクセにイヅルよりもずっと貫禄があって。

馬乗りの自分よりも小さな身体を退かせることさえ出来ない。

いや、力はきっとイヅルの方が上なんだろうから、物理的には適うのだが、精神的にそれが出来ない。

「イヅル」

強い声。

引き込まれそうな紅の瞳に、イヅルは鼓動を逸らせる。

「好きて言うて。ボクのこと、嫌いやないやろ?」

「……そりゃあ……嫌いじゃないけど」

市丸が眉を寄せる。

「好きやねん。ほんまに、一目惚れやねん。イヅル以外考えられへん。イヅルんことばっかし気になって、中学受験かて辛いねん。イヅルが一言好き言うてくれたら、ボク全部約束するよ。めっちゃ勉強するし、イヅル大事にする。絶対幸せにするし、一生イヅルだけ愛する」

―――――どうしよう、凄い殺し文句だよ。

イヅルは色々困っていた。

市丸のことは嫌ではないのだが、相手はそもそも小学生なのだ。

しかも姉が秘書をする会社社長の息子。

ここで絶対嫌だとはねつけるのも可哀想な気がするし、そこまでしなくっても初恋など淡い夢と、中学にでも上がれば忘れてしまうかも知れない。

市丸がイヅルを悪く言えば、姉の仕事にも影響が出る……かも知れないし。(市丸がそんな事をするとは思いたくはないが)

小学生相手にこれ以上を心配することもないかも知れない。

だとすれば承諾してしまうべきか……。

イヅルは市丸の、今は悲しげに歪められた瞳を見上げた。

「えっと」

イヅルが前置きに言葉を紡ぐと、「好きや、イヅル」どこでそんなの勉強してきたというような腰砕けの甘い声で囁かれる。

心なしか赤面したイヅルは、「じゃあ……お、お試し期間と言うことで」最大譲歩の提案をしてみた。

「お試し期間?」

市丸は面食らったような顔でイヅルを見る。

「だ、だっていきなり過ぎだろ?……会って話すの今日で二回目だし」

上目遣いのイヅルに、市丸はちょっと眉を上げると、「そやね。イヅルは恥ずかしがりの奥手さんやから。しゃあないかぁ」嬉しそうに破顔した。

「お……奥手?」

微妙に聞き捨てならないイヅルはけれど、再び市丸に口吻られて黙り込む。

「ん……っ」

市丸はイヅルの顔を覗き込むと、「ほなよろしゅう」と笑って、頬に音付きのキスをした。








*************************









そうしてイヅルは市丸の恋人になった。

まさかの小学生とのお付き合い。

最初のデートは次の日曜日。

笑っちゃ悪いけど、公園の時計塔の前に朝十時。

―――――ベタだなぁ、市丸君。

律儀なイヅルは約束の時間の十分前にはそこにいた。

小学生のデートってどんなことするんだろう。

考えて、手を繋いだり、二人っきりで一緒に遊んだりかな……。

イヅルは微笑ましくて独りでに笑みが零れてしまう。

出世払いでデート資金はイヅルが持つつもりだ。

まだかな、と時計塔を見上げれば、約束の時間を五分過ぎた頃。

―――――最初のデートで遅刻!?

イヅルはちょっと呆れたが、いやまてよと考え直す。

ベタ好きな市丸君のことならば、下手をすれば、遅れてご免をやりたいのかも知れない。

「おはようイヅル」

「うぉわっ!?」

真後ろから声をかけられて、完全に意識の飛んでいたイヅルは変な声を上げた。

「何やそれ、可愛ない驚きかたやなぁ」

思い切り期待外れだったらしいが、そこはそれ、これはこれ。

「5分遅刻だよ」

言ってやったイヅルに、市丸は「ご免、寝過ごした」普通に謝った。

「別に良いけどね」

マイペースなところが市丸らしい。

イヅルは笑って、「これからどうするの?」市丸の顔を覗き込んだ。

「ええとこ。……て言いたいけど、ボクちょお図書館で調べ物せなあかんねん。付き合って、イヅル」

「勿論、良いよ」

良かった、とむしろイヅルは胸を撫で下ろす。

これでいきなり遊園地、だの映画館、だのに行かれるよりは気分的に楽。

小学生とどっちが奢る論争は避けたいところだ。

「手、繋ごか」

市丸が右手を差し出す。

ああ、それはやっぱりするのね。

イヅルは左手を出して仲良く繋いで図書館に向かった。

「何調べるの?」

この図書館はイヅルもよく利用する。

お手伝いを申し出たイヅルに、市丸は「ありがとう」と素直に喜んだ。

「このリストの中にある本、五冊選んで読まなあかんねん」

市丸が差し出したのは全て英語タイトルの本で、イヅルは思わずギョッと見つめる。

「これの……日本語版てこと?」

「ちゃうよ、そのまんま。洋書探してんねん」

「よ、読むの!? 市丸君が!? つか英語読めるの!?」

イヅルは驚きに声を上げたが、市丸はきょとんとした様子。

「読めるよ。ボク、中学からアメリカ行きやもん。TOEICでもレベルAやで。880点取ったし」

「え……」

イヅルは聞き逃せない単語があったことに目を丸くする。

―――――中学からアメリカ行き?

そんな事聴いていない。

イヅルは何でかショックを受けている自分にショックだった。

市丸と付き合うことになったとは言え、相手は小学生で。

小学生とまさかこれから何年も付き合っていくつもりはなかったにせよ暫くは一緒にいるつもりだったからか。

それとも遊ばれていただけのような気がしたからか。

市丸がアメリカに行ってしまうまでの付き合いだなんて、聴いていなかった。

聴いていなかったよ、市丸君……。

イヅルは何となく市丸を見ていられなくて目を逸らす。

「どないしたん?」

市丸がイヅルの手を取った。

「……何でもないよ」

イヅルは曖昧に笑って、「洋書コーナーはこっちだよ」と市丸の手を引く。

「ええと、Crime and Punishment…………て、ドストエフスキーだからぁ……あ、あった。罪と罰だね」

まずはリストの本を集めようと、イヅルは市丸のメモを受け取って、一冊一冊本棚を探す。

「えーと……それからThe Crucible」

棚の上の方を見て、見付けた本を市丸の腕に渡していくイヅルに、「なぁ」と言う声が向けられた。

「なに?」

市丸を見ずに答えたイヅルに、溜息が届く。

「なに?」

その溜息に誘われるように目線を向けたイヅルは、パーカーの胸元を引っ張られ、中腰の状態で市丸とキスした。

「……っ!!」

思わず押し退けたイヅルに、ふらりと腕を離した市丸は悲しそうに笑っている。

「怒った?」

イヅルは唇を拭いながら、「別に」と言った。

「怒ってるやん……なんで?」

イヅルは立ち上がって、市丸よりも高い目線に戻すと、ふいと顔を背けてよそ見をする。

しかしその頬が赤くて、市丸は苦笑する。

「いきなりこんなとこでキスしたから怒った?」

イヅルは答えない。

「それともボクが……遠くに行ってしまうから怒った?」

「……っ」

―――――気付いているンならっ!!

イヅルは怒りも露わに市丸を振り返ったが、見つめる顔は笑ってもいなければ悲しんでもいなかった。

完全なる無表情。

「いちまる……くん?」

思わず訊ねたイヅルに、市丸はふと顔を俯ける。

「ご免な」

イヅルは市丸の表情が気になって、思わず正面にしゃがんだ。

市丸は真っ直ぐにイヅルを見つめる。

しゃがむと市丸の方が背が高くなってしまうので、上を向いたままのイヅルに、市丸がキスを落とした。

「今のボクには留学取り止めにするほど力ないけど、出来るだけ早く帰ってくるよ。せやけどイヅルはボクの物やで?約束したんやから、ボクがおらん間に浮気したら怒るよ?」

―――――何それ。

イヅルは呆れて苦笑する。

お試し期間って言ったのに、いつの間にか君の物なの?

今は閉じられて覗けない紅瞳を想う。

強くてキツイ瞳だと思った。

意志が強くて我が侭そうで、自分て言う物をしっかり持っているから、逆に子供の身軽さのない瞳。

責任と言う言葉を知っている、重みを背負った瞳だと思った。

そんな瞳で言うからいけない。

好きだなんて、自分の物になれだなんて。

悲しさを知っている子供なんて、質が悪すぎて振れやしない。

「はぁ」

イヅルは溜息を吐いた。

「クーリングオフしてやろうかな」

悪戯に呟いた台詞に、「あかんっ」思ってもみない必死の声。

強い瞳がイヅルを見てる。

紅い瞳。

子供のクセに大人の瞳。

「あかんよ」

縋り付いてくる手が、声が、瞳が必死で、イヅルは戯れに少し後悔する。

「ごめん」

謝ったイヅルに、「お願いやから、待っといて」市丸がお願いをした。

「分かったよ」

イヅルは下を向いて肩を竦める。

「君を待ってる。いつまでも、君が帰ってくるまで」

本当に、いつ帰ってくるかも知れないし、本当に帰ってくるかも分からない。

むこうで彼女が出来ちゃうかも知れないし、何て馬鹿馬鹿しい話しだろうとは思うけど。

だけど。

「浮気もしないで待ってるから」

イヅルの言葉に、市丸は口吻で応えた。

洋書コーナーなんて、図書館の最奥、一番端っこ。

薄暗がりで人気が無くて、きっと誰も見ていない……と言うことにして置いた。

市丸が離れるまで、しっかりと舌を絡めて、応えて。

「……っはぁ」

吐息したイヅルに、「ありがとう」市丸は抱き付いて、抱き締めた。

その肩が、腕が、微かに震えている気がして、イヅルは、答えを間違わなくて良かったと思った。































*************************************









あれから8年。

市丸は久しぶりの日本の地に降り立った。

恋人を迎えに行く為。

懐かしい実家に寄るのも後に、市丸は真っ直ぐ役場へと車を乗り付けた。

午後六時。

業務終了の役人達が帰宅へと姿を現す中、目立つ銀髪は駐車場のど真ん中で金髪に向かって手を振った。

「疲れさぁ〜ん」

―――――っ!?」

驚いた顔は8年前と全く同じ。

少し髪が伸びて、美人度が増したイヅルは市丸の姿に直立不動。

「クククっ」

腹を折って笑った市丸は、内心、イヅルが自分の姿を覚えていたことに泣きそうだった。

「い、いいいいいいいいちまるくん!?」

右足と右手を一緒に出しながら歩いてきたイヅルを、市丸は物も言わずに抱き締める。

ここがイヅルの職場前だって関係ない。

大体数日後には退職して頂く予定なのだ。

精々良い噂を残してやろうというところ。

「ただいま」

イヅルよりも頭一個分大きくなった市丸が耳元で囁く。

「〜〜〜っ」

イヅルは耳を押さえて真っ赤になった。

「ええ子で待ってた?」

顔を覗き込むと、悔しそうな涙目が睨む。

「良い子って、何ですかその子供扱いは」

「それが8年ぶりの恋人に言う台詞なん?」

眉を寄せて拗ねた顔を作った市丸に、イヅルは「そうですよ」と憎まれ口を叩く。

「8年も帰ってこないなんて……危うく小父さんになるところでしたよ」

「え〜」

市丸は笑ってイヅルの頬に触れるだけの口吻をする。

「ちゃんと待っててくれたんや」

肩幅も、上背も、足の長さも、靴のサイズも、多分全部市丸の方が大きくて。

イヅルはすっぽり胸の中に収まってしまっている。

俯けばコンパクトな身体は尚のこと、すっぽり市丸に包まれてしまい。

「待ってましたよ」

赤い耳の囁きに、市丸は力ずくで誘拐を決行した。

「ちょっ……っ!?」

慌てたイヅルを抱き上げて、ディアブロに乗せた市丸は、何処へも言わずに急発進させる。

「ちょ、……っ、ちょちょちょっとぉ!!!」

イヅルは慣れない外車でシートベルトを探しつつ、「免許持ってるんですか!?」と叫ぶ。

「持ってるよ。一企業の社長さんやもん、ボク。車好きやから運転手は雇ってへんけどね」

「はぁ!?」

イヅルは何とかシートベルトを締めたのか、市丸の方を向いて瞳を白黒させている。

そんなところは全く何も変わらない。

「社長って、大学は……二十歳ですよね!?」

何でか敬語のイヅルは叫んでばかりだ。

「ん。スキップするて言うてたやろ? ボク社会人四年目やで」

「うっそ……」

イヅルは驚きが止まらないらしい。

「で、でもじゃあ」

イヅルの言葉に市丸は苦笑する。

その言葉が聞きたかった。

「どうして今まで……」

―――――待っててくれてたんやなぁ。

毎日毎日、首を長くして。

その言葉が聞きたかった。

8年も、たった二、三ヶ月の付き合いで、口約束一つ残して、それきりで。

試したと言えば口が悪いが、市丸は怖かったのかも知れない。

イヅルが好きで、イヅルのことを信じていたくて、でも強引過ぎた告白だったから。

自信が無くて。

悪いことをしたなと、思わない訳ではなかった。

だから
―――――

「ご免な」

笑った市丸に、「別に良いですけどね」呟いたイヅルは既視感に襲われる。

最初のデート。

約束したクセに遅れてきた市丸。

ご免と笑ったあの意味は。

毎回遅れるその意味は……。

「次は遅れないで下さいよ。僕ちゃんと待ってるんですからっ!!」

イヅルはちょっぴり涙声になった台詞を最後まできっちり言い切ってやった。

―――――まったく、ベタなんだから。

ふん、と鼻息一つ。

前を向いたイヅルは「何処に行くんですか?」と訊ねる。

「ええとこ……今度は本当にええとこ」

市丸は笑って、高速をかっ飛ばし、夜のビル群へと車を走らせる。

イヅルはシートに埋もれながら、「次は何処に行っちゃうんですか?」と囁いた。

「もうどっこも行かへんよ。イヅルの側に居る。その為に帰ってきてんから」

渋滞に巻き込まれた車が減速して、赤いテールランプに従って停車する。

「ご免な」

謝った市丸の唇が近付く。

シートベルト越しではやり難いんですけどの苦情は流して、イヅルも顔を近づける。

8年ぶりのちゃんとした口吻。

舌を絡めて。

「……っんぅ……んんんんっ!!」

激しさに、思わず身を引こうとしたイヅルの顎が掬われる。

逃さないと追ってきた舌が呼吸さえも絡め取って。

「んーっふ……ぅん」

やっと離れた時には白い糸が伝うくらい。

濃くて激しい口吻に、上がってしまった息を隠しながら、イヅルは夜景を背景に市丸の顔を見つめた。

「好きや、イヅル」

そんなキス、どこで覚えてきたんですか、はまたも保留になってしまう。

「僕も……好きですよ」

長過ぎたお試し期間が終わる頃、市丸はホテルに車を滑らせる。

意図の分かったイヅルは、分かっていながら罠に掛かる。

「仕方ないよね」

呟いて。

先に降りた市丸が空けてくれたドアから足を降ろす。

慣れない低い車体によろめきかけた腰を抱かれて、「ええよね?」囁いた年下の恋人に、「良いですよ」精一杯の年上の余裕を響かせながら。

煌びやかなホテルのエントランスは、8年ぶりの手繋ぎで入っていった。



back






蔵王大志さんの『恋愛遊戯』のプチパクリ。