君と恋する








前回診察して貰った時、何でか先生に夕方七時以降においでと言われた。

ここの診察時間は七時までだったと思うんだけど、そう言われたのだから仕方ない、イヅルは七時ぴったりに市丸内科のドアを開ける。

この病院は二ヶ月前に出来たばっかりの新しい病院で、先生が格好いいと近所のおばちゃんとクラスの噂。

今まで行っていた病院を辞めてイヅルがこっちに来たのは単に家が近かったからだが、市丸先生は確かに格好良い先生だった。

何よりも目立つ銀髪。

歳はまだ二十代だろうか。

痩身でお洒落な感じで、モテそうな感じ。

これならクラスの女の子や近所のおばちゃんが騒ぐのも分かるなぁ、と思いながら風邪の診断を受けたのだけど、何でかやたらと色々なことを訊かれた気がする。

名前と歳と電話番号、住所は診察券を作って貰う時に書いていたから訊かれなかったけれど、恋人はいるかとか、どんなタイプが好きかとか、朝食はご飯派まで訊かれた時にはこの先生何考えてるんだろうとちょっと不安になった。

それでも生来の真面目な性格からか、全て本当を答えたイヅルに、市丸は「ほな明日また七時以降においで」と言ったのだ。

薬は三日分貰った。

なのにどうして明日も来なければならないのか、訊こうか迷って、医者の言うことだから仕方ないかと訊かずに置いた。

そうして本日も来た訳だけど、さすがにこんな時間に入ってくる者はイヅルだけらしく、待合室には誰もいない。

「すみません。吉良ですけど」

昨日新しく作って貰ったばかりの診察券を出しながらそれとなく様子を窺うと、眼鏡をかけてピシッとした看護婦らしいお姉さんは「吉良さんですね。そこのソファでお待ち下さい」と言った。

やっぱり七時以降と言う時間指定は本当だったらしい。

しかしそうと分かったからと言って安心して待っていられる訳ではなく、逆にこんな時間に呼ばれると言うことは、もしや自分は風邪などではなく、何かとんでもない病気だったりしたのではないだろうかと不安になってくる。

所在なくソファの端に腰掛けていると、さっきの受付のお姉さんが私服で出てきた。

「お先に失礼します」

イヅルにそう言って頭を下げ、外へ出て行く彼女の背を見送る。

一体どういうことだろう。

途方に暮れて時計を見上げると、「やぁ、お待ちどぉさん。ごめんなぁ」と市丸が顔を見せた。

「あ、あの、僕……」

イヅルが不安げに立ち上がるのを見て、彼は奥へと手招きする。

「なんやイヅル君とゆっくり話ししたくてな。無理言ってご免なぁ」

「はぁ」

奥の診察室に通されたイヅルは丸椅子にちょこんと腰掛けて俯く。

ゆっくり話しがしたいと言うことは、やはりそれなりの話しがあると言うことで。

これは覚悟して聴かないといけない話しなんだろうな、と。

下から見上げるように市丸の顔色を窺ったイヅルは、にこやかな笑顔に見つめられた。

「イヅル君、一人暮らしや言うてたけどホンマ?こない遅くで心配する人おらん?」

「あ、はい。本当に一人暮らしなので、誰も家にはいませんから」

やっぱり家族の人が居たらその人達と一緒に聴くような話しなんだろうか。

どきどきと早まる心臓を押さえながら、イヅルは膝に手を付いて肩を強張らせる。

癌とか不治の病だったら、どうしても一度やってみたかった誕生日おめでとうプレート付きの5号とかホール一個丸まるのケーキ買って歳の数だけロウソク刺して食べよう。

それからもう特売日やお勤め品しか買わない生活を辞めて、通常プライスの商品でご飯作って食べよう。

お米も一回食べてみたかった魚沼産コシヒカリを買って食べてやる。

それから、それから……。

イヅルがぐるぐると走馬燈のように死ぬまでにしたい憧れを思い浮かべていると、市丸が膝の手を握ってきた。

思わず視線を上げたイヅルに、市丸の真剣な顔が飛び込んでくる。

「イヅル君」

「は、はいっ」

ああ、もうダメだ。

やっぱり僕は死んじゃうんだ、と涙ぐんだ時、思いも寄らない言葉が耳に飛び込んだ。

「ボク君に一目惚れしてん。恋人になってくれへん?」

「……へ?」

ヒトメボレってお米があったなぁ……あれも結構良い値段するんだよなぁ……。

イヅルは一瞬現実逃避する。

なにせ死を覚悟した次の瞬間の告白だったから、脳がそれように動いていなかったのだ。

暫くぱちくり言われた言葉を脳内で反芻していたイヅルは、段々と意味を解すると共に赤くなる。

「な……なに……何で!?」

まさか高校生の自分に大人の医者(しかも男)が、真面目に告白してくるなんて有り得ないっ!!!

イヅルは思わずギャラリーを探す。

こんなのドッキリくらいしか思い付かない。

それでもこんな分かり易いドッキリでは番組にもならなそうだが。

市丸は首を傾げると、「どないしたん?キョロキョロして」と不思議そうに訊ねる。

「な……何かの罰ゲームとかだったんじゃないんですか?」

イヅルの言葉にキョトンとした市丸は次の瞬間ガックリと項垂れた。

「罰ゲームて……ちゃうよ。ほんまの本気の告白やったのに」

「えええ!?」

飛び上がって驚いたイヅルに、市丸は再び真剣な顔を向ける。

「なぁ、ボク本気やねん。イヅル君ちょおマジに考えてくれへん?ボク大人やし、それなりに甲斐性もあんで?絶対幸せするから、お試しでもええし、付き合って」

「ほ……本気ですか?」

真っ赤になっておどおどしたイヅルは確認してしまう。

だってこんな事って信じられない。

生まれて初めての告白が、こんな大人で医者でしかも男だなんて。

「市丸先生……格好いいし、モテそうなのに、何で僕なんですか?」

両手は未だ市丸に握り込まれたままなので、二人の距離は内緒話くらい近い。

そんな至近距離にも赤面が納まらないイヅルは俯きがちに訊ねた。

「やから一目惚れやってんて。イヅル君ボク好みの顔やし、体型も好き、それから声も好きやし、性格も多分好みバッチリやでっ!!」

「き、昨日会ったばっかりじゃないですか」

一目惚れ説がいまいち信じられなくて、イヅルは困ったように眉を下げる。

「せやかて運命感じてんもん。な?信じて?ちょこっとでええから試しに付き合うてみてよ」

イヅルは怖ず怖ずと目線を上げた。

大の大人がこんな弱り声を出して、高校生の自分に頼み事をするなんて信じられない。

でも何だか冗談でここまで一生懸命言い募るのもおかしいし、本当なのかも知れない。

思えば思うほど勘違いされている気がするのだが、それでも答えなければこの手は解いてくれない気がする。

どしよう……。

イヅルはやっと振るべきなのか、それともお試しと言うくらいだから、少しは付き合ってみるべきなのかと考え出した。

市丸自身は悪い人ではないようだが、ハッキリ言って自分に市丸を惚れさせるほどの何かがあるなど到底思えない。

勘違いでしたと振られるのがオチだろうけれど、大人にこれだけ頼まれて、きっと勘違いですからと言ってしまうのはやっぱりちょっと気が引ける。

イヅルよりは長く生きてる分、人生経験は絶対市丸の方が多いはず。

だったら自分がそれを言わずとも、市丸なら分かりそうなものなのにこうまで言って来るというのは、やっぱり何かしら思うところがあるから……なのかなぁ。

「えっと……」

イヅルはいまいち腹が決まらないまま、期待に熱い眼差しを送ってくる市丸の顔を見つめた。

「あの……僕きっと市丸先生が思っているような凄い奴じゃないと思うんですけど」

「そんな事ない。絶対ボクの運命の恋人やっ!!」

ここまでハッキリ言い切られては、やはり試して頂いて、それで納得した上で振られなければ納まりそうもない。

イヅルは手に変な汗をかいてしまっているのを気にしながら、「じゃあちょっとだけ。お試しで」と言った。

市丸の顔がパアッと綻ぶ。

「ありがとう。めっちゃ嬉しいっ!!」

掴んでいた手は離されるどころか、胸に引かれて抱き締められた。

―――――っ!?」

驚きに目を見開くイヅルだったが、何だかこんな風に喜ばれると悪い気はしない。

それどころか何だか嬉しくなってしまって、「いえ、僕こそよろしくお願いします」と頭を下げた。

すると市丸はイヅルの頭に頬ずりしていた顔を離し、「さっそくご飯食べ行こか」と言う。

「え?……ご飯……ですか?」

白衣を脱ぎ捨て、鼻歌でも歌いそうな勢いで車の鍵を掴んだ市丸は「ええ店あんねん」と手招きした。

「あ、あの……僕、今そんなに持ち合わせがなくて」

しかも制服ではあまり外食という気にはなれない。

渋ったイヅルに、市丸は「そんなんボクが誘うンやから、イヅル君は気にせんでええよ」と手を引いた。

強引に車に乗せられて、着いた先は外観からは何のお店か分からない真っ白いビルみたいな店。

市丸は大喜びで先へと店に入っていき、イヅルも仕方なくそれに従う。

カランカランと懐かしい音を立てて入った店内は、水槽の壁に囲まれたバーのような店だった。

思わずイヅルの足は止まる。

場違いにも程があるだろう格好で、こんなでは店の人に迷惑をかけてしまうのではないかと市丸を見つめた。

「どないしたん?おいで?」

市丸はイヅルの肩を抱くように歩かせるが、イヅルは気が気ではなくて「あの、でも僕制服だし、お店の人に迷惑が」と困り顔を向ける。

「なんやそんなこと。ここ別にお酒飲むとこちゃうから、心配せんでええよ。ここはなぁ、創作系の美味い料理出してくれんねん。結構お洒落でええ雰囲気やろ?」

お酒を飲むところではないと聴いて一安心したイヅルだが、落ち着かないのは変わらない。

確かに店内はお洒落だし、落ち着いているし、とても良い雰囲気なのかも知れなかったが、イヅルにはそれを楽しめる余裕がない。

おっかなびっくり高椅子に腰掛けて、注文を取りに来たバーテンダー風の店員に気後れする。

「どれや食べたいのあったら追加しよな。取り敢えず……」

市丸がすらすらと注文を通してくれたおかげで、イヅルはちょっと安心した。

「すみません」

店員が消えてから謝ったイヅルに、市丸は首を傾げる。

「どうしたん?なんで謝るん?」

「僕……こう言うところ慣れてなくて……その、市丸さんに頼ってばかりになってしまって」

こういうところどころか、イヅルは外食自体慣れていない。

中学二年の春、両親が亡くなって一人暮らしを始めてから、イヅルは節約の鬼になっていた。

両親の残してくれた財産は多少あったものの、何があるか分からない未来に先立つものは必要だからと、ちょっとでも無駄なお金を使わないよう努めている。

故にこんな風に外食をしたのは本当に久しぶりで、イヅルはそわそわと落ち着かない気分で座っていた。

「そんなん……イヅル君はほんまにええ子やね」

市丸の言葉にイヅルは顔を上げる。

「ボクのことや店のことばっかし気にしてくれよるみたいやけど、せっかく美味しいモン食べに来てんから、楽しんで食べなもったいないで?」

「あ……」

頬を染めて眉を寄せたイヅルは、「そうですね。ごめんなさい。せっかく連れて来て頂いたのに」そう言ってやっと笑顔を見せた。

「やっぱりイヅル君は可愛えぇね。笑った顔は特に可愛えぇわ」

元々赤かった顔が、更に赤くなって首元まで染まる。

男の自分なんかより、ずっと綺麗で魅力的な女性が沢山いるはずなのに、どうして僕なんかが良いんだろう。

絶対勘違いしているし、絶対すぐに飽きるよ。

イヅルは恥ずかしくて溜まらなくて、けれど反論出来なくて、膝頭を掴んだ手に力を込めて、肩を竦めて縮こまった。









市丸が言ったとおり、その店の料理はどれも美味しかった。

見た目もとてもお洒落に飾り付けられていて、イヅルは見たこともないような料理に「美味しいです」を繰り返した。

会計はやはり市丸が先に出ててとイヅルを追いやったので、一円も払えないまま車に乗り込む。

「あの、本当に御馳走様でした。ありがとうございます」

狭いシートの中で下げにくい頭を精一杯下げて礼を言ったイヅルに、市丸は軽く「ええって」と笑った。

何だか本当にとんでもない人と付き合うことになってしまったな、とイヅルは今更ながら不安になる。

高校生の自分とは全く釣り合いの取れない、大人の社会人って感じだ。

やはり落ち着かないままシートに座って、こっそり市丸を見上げると、嬉しそうな顔をしてイヅルを振り返った。

笑いかけられて、笑い返して、イヅルは結局何も言えない。

不釣り合いなのはよく分かるが、何だか振ってしまうのが惜しいような気もするし、何より自分が振るという立場になるのがおこがましいようで気が進まない。

やっぱり飽きられるまで、振られるまでこうしているしかないのかな、と思っていると、市丸の車はイヅルのアパート前に止まった。

「あ、ありがとうございます。すみません。わざわざ家まで」

イヅルが礼を述べると、市丸は車のライトを落とした。

シートベルトを解いて、イヅルの前に身を乗り出すと、ぎゅうっと身体を抱き締める。

―――――っ!!」

驚いて硬直したイヅルの耳に、市丸の囁きが流れる。

「キスしてもええ?」

「!?」

お試しとは言っていたけれど、実質付き合うのをオーケーしたような形なのだから、こうなることは予想範囲だったとは言え、イヅルは身を強張らせた。

「まだちょお早かったかな」

市丸が苦笑する。

イヅルは市丸の身になって考えてみた。

もし自分が運命の恋人だって思えるような人と出会って、お試しでも付き合うことになったら、そりゃあ勿論キスだってしたいだろう。

しかも市丸には食事に連れて行って貰って、車で送って貰いまでしてしまった。

それで『ありがとうございましたー』だけでは、さすがに悪い気がする。

イヅルは両手を握りしめると、決心に顔を上げた。

「良いです……よ。あの、キス、しても」

市丸の顔がそっと近付いて、イヅルは思いきり目を閉じた。

くす、と眼前で笑われたと思ったら、温かい感触が唇に触れる。

びくりと身を竦ませて泣きそうになったイヅルの唇は、そのまま濡れた感触に割られた。

「んんっ!?」

市丸の舌が入ってくる。

ゆっくりと口腔を舐め回されて、イヅルの目尻を涙が伝う。

初めての感触は何だか背筋がぞわぞわするばかりで気持ち良いとか甘いとか、そう言う感想は持てなかった。

ただ舌を舌で絡め取られた時、市丸の味みたいなものを感じて、ひどく生々しい感覚に一層背筋を何かが走る。

「っ……んっ……ん」

イヅルにとっては長いキスが終わって、唇が離れると小さな声が勝手に漏れた。

それが何だかひどく甘えたような声で、イヅルは自分の口を押さえて赤面する。

「可愛ぇえイヅル。好きやで」

ただでさえ熱い顔が更に火照って熱くなった。

抱き締めて髪を撫でて、別れを惜しむ市丸にイヅルは言葉を返せない。

好き、と言うにはまだ早いような気がして。

自分の中でもまだ何にも気持ちがはっきりしていないのに、好きだなんて言えなくて、イヅルは困って俯いた。

「今日はありがとう。またメールするな。夜やし遅いし、一人暮らしや心配やから、寝る前メール送ってな」

「はぃ」

そう答えるのがいっぱいいっぱいで、車を降りたイヅルはふらふらと部屋に戻った。




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