君と恋する








とんでもないことになってしまったな、とイヅルは携帯を握り締めて溜息を吐く。

今は学校で、昨晩から何通か市丸と交わしたメールをチェックしながら眉を寄せた。

まだ一回しかデートしてない訳だし、熱はどうやら冷めていないらしい。

今晩も夕食を一緒にどうかと誘われて、毎晩では悪いのでと断りのメールを入れたら、『ボクはイヅルの顔見れるンやったら、毎晩でも全然構わへんねんけど』の返事。

どうしよう、と再び溜息を吐いていると、雛森が後ろから肩を叩いてきた。

「どうしたの吉良君。溜息ばっかり吐いて、元気ないよ?」

「え、あ……雛森君」

イヅルは級友で幼馴染みの雛森に隠すように携帯を閉じて、笑う。

「何でもないよ」

「困り事?」

こんな時、幼馴染みというのはお互いをよく知っているだけに簡単に騙されてくれない。

苦笑いのイヅルは「ちょっと」と言葉を濁して逃げた。

しかしそれで離してくれる雛森でもなく、「恋煩い?」と余計興味津々で顔を覗き込んでくる。

「うーん……何というか……友達のことなんだけど」

イヅルは引き下がりそうもない雛森に、友達のこととして、成り行きで社会人と付き合うことになったけれど、どう考えても不釣り合いなのが気に掛かって仕様がないと相談されていると称して話しをした。

「えーそんなの。愛があればそれくらの年の差なんて関係ないと思うけど」

「でもやっぱり僕らはまだ扶養家族だったり、まだまだ勉強が本分な身分だし、やっぱり付き会い続けていくとなると難しいんじゃないかな」

「そんな事ないよ。学校とプライベートは別だよ?両立させなきゃ折角の青春が台無しだよ」

雛森はどうやら高校生と社会人の年の差は全然構わないと言う意見らしい。

「それに社会人が高校生と……なんて、やっぱり本気とは思えないし」

「なるほど。結局相手の愛情が疑わしくて、吉良君としては安心して身を任せられないのね」

「え……」

雛森は前の席の椅子を逆向きに座って腕を組むと、うんうんと頷いている。

「よし。じゃあその人の本心をまず確かめることからしてみようよ」

ね?、と駄目押しに微笑む彼女は、完全にイヅルのことだと決め付けて話していた。

確かにその通りなのだけど、イヅル的には腑に落ちない。

「と、友達の事だよ?雛森君」

「そうだね。取り敢えずその相手の人って誰?」

話を聴いているのかいないのか、否定はしないが軽く流されているのを感じながら、イヅルは言葉に詰まった。

ここで本当のことを言って良いものなのか。

いやいやそんな訳はない。

何と答えよう……と苦心して適当な人間を探しあぐねていると、「病院で会った人?」と訊かれて目を見開いた。

「な、な、な、なん……なんで!?」

もしかして心の中が読めるんじゃないかと疑ったイヅルは、思わず心臓辺りを握りしめてしまう。

「だって吉良君が昨日今日会った人で、しかも社会人だったら、会う機会が限られてくるでしょう?」

にこにこと笑った雛森は、更に「もしかして市丸内科の先生とか?」と首を傾げた。

「―――――っ!?」

イヅルの顔は意図せず真っ赤になる。

こうなってしまえば火を見るよりも明らかで、雛森は自信満々で「吉良君綺麗だから、もしかしてって思ってたけど、やっぱり男に引っ掛かっちゃったんだねぇ」と嬉しそうに言って笑った。

そして放課後になるまでおとなしかった雛森だったが、ホームルームが終了すると同時にイヅルの前に来て、吉良君一緒に来て」と腕を捕まえて引っ張り出した。

ずるずると廊下を引きずられるように連行されながら、「どこに行くの!?」イヅルは秘密を知られた焦りで青くなりながら訊ねる。

「昼休みの間に協力者を雇っておいたのよ。良いから来てっ!」

女の子のパワーというのは時に凄いものがある。

全く逆らえないまま生徒指導室に連れてこられたイヅルは、ギョッとして雛森を見つめた。

「ひ、雛森君っ、ま、まさか」

友達の誰かに相談した訳ではないのだろうか、とイヅルは青い顔を引き攣らせる。

「いいから入ってっ!」

ドアを開けた雛森に引きずり込まれて、生徒指導室に入ったイヅルは中央の机に座って煙草を吹かしながら微笑む女教師に複雑な表情になった。

「松本先生……」

「やっほー吉良。あんた男に惚れられたんだって?」

あっははははは、と笑う松本はイヅル達二年生の学年担任。

男子生徒憧れの美人教師だが、がさつな性格に恋敗れる生徒は少なくない。

松本先生と雛森君のダブルコンボなんて……。

イヅルは先行き不安で胃元がキリキリする思いがした。




雛森の話しによると、乱菊はイヅルの恋人である市丸の本心を試す為の子芝居に付き合ってくれると言う。

芝居の内容は簡単なもので、乱菊が市丸に近付いて悩殺し、その反応を見るというもの。

「松本先生になびかなかったら吉良君への想いは絶対本当だよ」

雛森は力説したがイヅルは乗り気ではない。

「そんなの、市丸さんに悪いよ」

騙し討ちみたいな事をして、傷つけてしまうのではないかと思えばそんな事はしたくなかった。

「でも信じられないんでしょう?」

雛森に肩を叩かれ、イヅルは眉を寄せる。

「でもそれは僕の問題で、市丸さんを騙すのはやっぱり間違ってると思う」

それまで二人を黙って見守っていた乱菊が笑った。

「桃、それくらいにしときなさいよ。吉良にその気がないって言ってるんだから、無理強いはするもんじゃないわ」

「えーでも先生ぇ」

雛森は不満そうだったが、乱菊にまで寝返られてしまっては分が悪い。

「ともかく、信じるって決めたんだったら、四の五の言わずに信じてみることね」

乱菊の言葉にイヅルは頷いた。

そうして一応の決着は見たものの、イヅルはいまいち腹を決めかねていた。

信じるも信じないも、今はそうでもすぐに飽きられてしまうとしか思えない。

結局断り切れなかった夕食の誘いに応えるべく、今日もイヅルは市丸内科を訊ねようとしていたが、時間的にまだ少し早かった。

時計を見れば六時過ぎ。

まだ患者も沢山残っているだろう待合室で待っているのは気が引けて、イヅルは外で待っていた。

市丸内科は住宅街の中にあるので、すぐ近くに公園がある。

もう薄暗くなった園内に子供の姿はなかったが、イヅルは一人ブランコに乗って暇を潰していた。

本くらい持ってくれば良かったなぁ……と思っても、この後出掛けるのであれば邪魔になるし、やはり学校と仕事では時間帯だって上手く合わないじゃないかと思えば、場違い感は余計に募る。

錆びた鎖をキィキィ言わせながら、ぼぅっと中央に立った柱時計を見つめていた。

その時バタンと車のドアの閉まる音が大きく響き、イヅルは何となく気になって音のした方を振り返った。

生け垣の所為でなにも見えなかったが、市丸の声が響いた。

「明日やったらええけど、今日は先約があるんや」

まだ診察時間は終わっていないはず。

何で外に出ているのだろうと気になって、こっそり生け垣の隙間から声のした方を覗いた。

別段盗み見するつもりではなくて、単に気になっただけだったのだが、イヅルは見たことを後悔した。

病院のすぐ近くに止められた車の脇に市丸が立って、運転席の人間と話している。

遠目に薄暗い夜目だったが、街灯の下なので運転手の顔はハッキリ見て取れた。

松本だ。

「どうして……」

あの計画は自分の反対で無しになったはずなのに。

もしかして自分は二人の間で遊ばれていたのだろうか……。

嫌な考えに首を振って、イヅルは出来るだけ好意的に現状を捉え直してみようとした。

しかしどう考えてもこのタイミングでこのシーンというのは出来過ぎている気がして、一旦疑いだした心はそれこそ坂を転がるように不信に冷え固まっていく。

イヅルはともかく二人に見付からないように茂みの陰にしゃがみ込むと、車が走り去るまでそこでじっと耳を傾けていた。

ややあってドアの閉まる音が聞こえて、市丸が院内に戻ったのが分かる。

それまでの二人の会話はボソボソしていてエンジンの音で聞き取れなかったが、何やら親しげだったのは分かった。

イヅルは立ち上がると時計を確かめて、まだ六時過ぎなのを見ると再びブランコに乗る。

頭の中に色々な考えが浮かんでは消えていったが、どうしてか約束を反故にして家に帰る気にはなれない。

ただ俯いてブランコをこいでいたが、七時になっても結局病院には足を運べなかった。

どんな顔をして会えばいいのか分からない。

好きだと言われて嬉しかったし、優しくして貰えて楽しい時間を過ごせた。

けれどそれは気紛れか、はたまた暇つぶしのゲームの為だったのではないかと思うと、真剣に思い悩んでいた自分が馬鹿みたいで……、子供特有の青臭さのような、泥臭さのように思えて恥ずかしくなる。

本気だと思ったのに、とか、信じてたのに、とか言い募れば、冗談に決まっているだろうと返されそうな気がして怖い。

もともと疑い半分ではあったけれど、ちょっぴり本当なんじゃないかと思っていた分、バツか悪かった。

携帯の着信音が響く。

市丸からなのを確認して、イヅルは通話ボタンを押した。

「もしもしイヅル?どないしたん?今どこにいるン?」

ちょっと心配したような優しい声。

イヅルは俯いたままブランコを止めて言った。

「ごめんなさい。僕やっぱり市丸さんとは付き合えません。僕なんかより素敵な大人の女性を探して下さい」

そのまま電話を切ったイヅルは、電源も切ってポケットに仕舞う。

そして溜息を吐くと、再びブランコを少しこぎ出した。

短い付き合いだったけれど、一瞬本当に恋人が出来るんじゃないかと思っていた自分がちょっとおかしかった。

一人の家で、一人でご飯を食べる。

両親が死んでから続いている、当たり前の毎日が変わるんじゃないかと淡い期待を抱いていた。

帰っても真っ暗な部屋。

喋る相手もいない部屋の中で、電気代を惜しむイヅルは大抵テレビではなく本を読む。

それさえ沢山は買うことが出来ないので、教科書を引っ張り出してきては予習や復習に精を出した。

それが成績に反映されて、奨学金も毎年受けられるようになった。

良いことではあったけれど、心のどこかは寂しさに震えている。

誰かに縋ってしまいたい気持ちをいつも抑えつけている。

それでも時々溢れ出してしまいそうで、イヅルは慎重に他人との距離を置いていた。

バタンと病院のドアの閉まる音がする。

大きな音。

まるで不機嫌に叩き付けたような音に、イヅルは闇に目を凝らす。

生け垣が邪魔で市丸の姿は見えないが、車のエンジン音が聞こえてきた。

凄い勢いでタイヤが回って、アスファルトを擦る高い音が響く。

猛烈な勢いで車は何処かに走り去る。

松本先生の所に行ったのかな。

何だか目頭が熱くなって、イヅルは上を向いて涙を堪えた。

思っていたより期待していたらしい。

好きだと認めた訳ではなかったけれど、心惹かれていたのはやはりそう言う意味らしい。

素直じゃなくて、その上鈍感な自分の心に、イヅルは苦笑を漏らした。

こんな風に、棚からぼた餅みたいにあんな凄い恋人が、早々出来る訳がないよ。

ブランコは、キィキィと高い音を響かせながら、イヅルの心のように軋みながら揺れていた。












*************













どれくらいそうしていただろう。

振ったのに失恋したような、妙な気分を味わいながらイヅルは立ち上がった。

もういい加減帰らなければ補導にでも遭ったら困る。

公園を出て市丸内科の前まで来たイヅルは、闇に浮かぶ建物をぼんやりと眺めた。

市丸とこんな風になってしまったからには、多分もう来ることはないだろうな。

元々使っていた病院は真逆の方向にバス停二つ分先にある。

歩いて通える市丸内科は近くて便利だったのだけど……。

諦めたように溜息を吐いて、俯いたまま歩き出そうとしたイヅルは暴走族のようにタイヤを鳴らす車が近付いて来るのに気付く。

大通りがこの奥にあるのだが、近所の馬鹿な連中が走り回っているのだろうかと騒音に耳を塞いだ。

しかし病院のある通りに現れたその騒音車は、ライトをアップ状態にしたままイヅルのいる方向に向かって走ってくる。

危ないなと壁際ギリギリに寄ったイヅルの前を、その車は走り抜けようとして止まった。

見覚えのある車体にイヅルはまさかと振り返る。

しかし次の瞬間、車から勢いよく開いて飛び出してきた市丸に、イヅルはギクリと身を固めた。

「イヅルっ!!」

市丸の声は怒っている。

あんな一方的な切り方をした自分が悪いことは分かっていたが、イヅルは怯えて言葉を失う。

市丸は大股でイヅルの前に来ると、いきなり腕を掴んで歩き出した。

病院裏のドアの鍵を開けた市丸はイヅルの腕を掴んだまま中に入る。

真っ暗な病院の中を灯りも付けずに市丸は奥へと進んでいく。

イヅルはそれに引きずられながら、自分はどうなってしまうのだろうと肝を冷やしていた。

市丸の手に力が籠もる。

ぶん、と勢い付けて遠心力をかけられたイヅルは、突然腕を離されて何かの上に倒れ込んだ。

「っぃた」

太股辺りにあった硬い感触に強かぶつかってしまい、打ち身になったかも知れない。

しかし思わず足に伸ばした手が打ち身に触れる前に、イヅルはその硬い感触の、多分診察台の上に抑えつけられた。

「どこ行っとった?」

やっと口を利いた市丸の声は怒りで震えている。

イヅルは恐怖に震えながら闇に目を凝らす。

赤い瞳が睨み付けていた。

「別に……どこにも」

答えると同時に掴まれた腕の力が増して、イヅルは小さく痛みを訴えた。

「家まで探しに行ったンやで?こんな夜中に一人で彷徨いて。夜遊びグセでもあるン?」

薄闇の中で口角が上がるのを見つめて、イヅルは首を振る。

「そんなこと……市丸さん、離して下さい」

「いやや。離したらまた逃げるんやろ?何でいきなり別れよ思たんや?ボクの何が気に入らんの?」

「勝手に……一方的にあんなことを言ったのは謝ります。でも、離して下さい。腕が、痛い」

真っ暗な中で不気味な静寂だけが流れた。

市丸の腕は緩まない。

イヅルは決心すると目線を外して言った。

「僕なんかじゃやっぱり不釣り合いなんです。市丸さんは大人だし、お医者様なんて立派なお仕事されているし、僕なんかじゃなくて、綺麗で、市丸さんに似合った女の人と付き合った方が」

話している途中で市丸の手がイヅルの顎を掴んだ。

無理矢理目線が合わせられる。

「なんやそれ。まだ言うとんの?ボクのことが嫌なんやったらそない言い訳せんと、ちゃんと嫌や言うたらええやんか。何が不釣り合いなん。こないオジサンはお断りか?」

市丸の顔が近付いて、強引に唇を合わせられる。

引き結んだ唇を力で押し割って、舌が咥内へと侵入した。

「んっ……んんっ」

昨日の今日で、いきなり豹変した市丸の態度に、イヅルは混乱を隠せない。

それでも乱菊とキスしたかも知れない唇で触れられるのは何だか悲しくて、勝手に涙が溢れた。

散々口腔を嬲った舌が離れて、涙に濡れた瞳で市丸を見つめたイヅルは、その表情がひどく悲しげなのに気付く。

市丸の首がかぐりと垂れ下がり、イヅルの胸に額を付けた。

「医者が嫌なら今すぐ辞める。大人が嫌なら、男なんが嫌なら変えようがないもんは慣れて貰うよりない。好きになって貰えるよう努力するよ。せやから別れる言うンは勘弁して。こない一方的に別れましょう言われても、ボク納得出来へん。イヅルが好き。イヅルが好きなんや」

胸の上の温かい首は泣いてはいないようだったが、イヅルは市丸の気持ちに胸を痛めた。

まさかこんなことを言われるだ何て思いもしなかった。

もっと簡単な、面倒くさくなったら、飽きたら捨ててしまうような、そんな程度の『一目惚れ』だと思っていたから、まさか医者を辞めるとか、努力するとか、そんな言葉が出てくるとは夢にも思わないでいた。

けれどそれも市丸を疑う自分の心がそう思い込んでいただけで、彼がそう言ったことなど一度もない。

最初から優しくて一生懸命、誠実でいてくれた人に対する言葉ではなかったと、イヅルは今更ながら後悔した。

「ごめんなさい」

おず、と抑えつけられていた腕を上げて市丸を抱き締めると、彼はだらりと凭れ掛かっているだけで簡単に腕の中に収まる。

さらさらの銀髪を梳いてみると、小さく溜息を吐いた。

「ごめんなさい、市丸さん。僕、信じられなかったんです。あんな、いきなりの告白だったし。それに市丸さんみたいな大人の男の人が、僕みたいな子供を本気で想って下さるなんて。市丸さん格好良いし、優しいし、女の人にもモテるだろうし、僕なんて冗談か、勘違いだろうって勝手に思い込んで」

もぞりと市丸がイヅルの胸の上で動く。

腹をさわさわと撫でられて、イヅルはくすぐったさに少し身を捩った。

「ボクはイヅルが好きや。一目惚れやったけど、勘違いなんかやないて思ってる。ボクは確かにイヅルに比べたら大人かも知れんけど、そないたいそうな人間やないよ」

市丸の腕が腰に回って、ぎゅっと抱き付くように抱き締められた。

「ただの男や。イヅルを好きな、ただの男やで」

「はい」

抱き締められながら、イヅルは何だか市丸のことを可愛いと想っていた。

大人の男の人を可愛いだなんて、失礼かも知れないけれど、そう想えてならない。

振られて激昂してしょげ返っている市丸は、何だか自分とそう年の変わらない普通の男に見える。

口元に浮かんだ笑みを刻みながら、イヅルはもう一度ごめんなさいと謝った。

「勝手なことばかり言ってごめんなさい。でももし市丸さんが良ければ、……僕、僕も市丸さんが好き、です」

二度目の告白はイヅルからする。

顔を上げた市丸が闇に目を凝らすようにイヅルの顔を覗き込んだ。

「ほな別れるのはナシやな?」

「はい。あの……市丸さんさえ良ければ……ですけど」

「ほなボク、医者で大人で男やけど、それでもええ?」

「ええ、勿論です。僕の方こそ、馬鹿な子供ですけど、あの、よろしくお願いします」

薄闇に青い瞳と紅の瞳が見つめ合う。

笑みを刻んだ双眸が寄り添い、そっと閉じられると自然に唇は重なった。

イヅルの手がもどかしいほどゆっくりと、市丸の背に回る。

引き寄せるように深く、口吻を交わした二人はお互いを求めるようにきつく抱き締め合う。

色んな事に怯えて、傷つかないよう逃げ回っていた自分が、いつの間にか市丸を深く傷つけていた事実に、イヅルは胸を塞ぐ思いだった。

逆を返せば、たかだか自分一人の為に、こんなにも傷ついてくれる人が居る、想ってくれる人が居る喜びに、弱い涙腺が緩んでしまう。

それでも泣くのを堪えて、口吻の後に市丸と目が合ったイヅルは、にっこりと笑った。

「大好きです、市丸さん」

少しびっくりしたような市丸の表情は、しかしすぐに蕩けるよな笑みに変わる。

「ボクも、大好きやでイヅル」

真っ暗な診察室で、消毒液の匂いのする胸に抱かれて、イヅルはやっと心底幸せを噛みしめていた。



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すんません。最初10000Hitお礼SSの医者ネタにしようと思って書き始めたのですが、
こらあかん、長くなる……と思い移動しました。
大体にして医者である醍醐味がないっ!!!
医者と言えば診察室エッチで「いやん、先生ダメですぅ」が定番なのに……。
出直して書き直してきまーす。