リードと首輪と甘い罠
自意識過剰ではなく、イヅルはよく人に良い奴だと言われた。
素直で明るい性格、その上礼儀正しく控えめ。
両親がいない身の上とは言え、周りはイヅルをとても高く評価してくれた。
勉強にもスポーツにも精を出し、人間関係も友好とあれば奨学金だって「お前なら大丈夫」と教師達は太鼓判を押す。
生徒会長に推薦された時だって、吉良なら安心して任せられると誰もが票を入れてくれた。
イヅル自身、そうあれるように努力を惜しまず。
お墨付きの優等生という肩書きは、自他共に認められる不動の呼称となっていた。
だからそれを言われた時には、心ならずも”どうして自分が”と固まってしまった。
傲慢になっていた訳ではなかったが、まさか自分がそんな評価をされるなんて思いも寄らなかった。
「君、黒い性格しとるやろ」
「え?」
思わずイヅルは訊き直した。
どうしてそんな風に言われたのか分からない。
学校が終わった後、バイト先のコンビニでその男は「お弁当温めますか?」と言ったイヅルにそう言ったのだ。
「負けず嫌いの目立ちたがり、自己顕示欲が強ぅてプライドが高い。腹黒の典型やで」
男はそう言うと冷えた弁当を手に店を出ていく。
背の高い、痩せた、モデルのような小洒落た男だった。
銀髪に細い眼はどこか不思議な雰囲気を纏って、一度会ったら絶対忘れないような。
―――――この辺に住んでいるのかな。
それにしては初めて見る顔だった。
イヅルは受け取ったお金をレジに戻しながら、どうしてあんな事を言われたのかと考える。
そんな風に映ってしまうような態度を取っただろうか。
いや、普通にいつも通りの対応をしただけだ。
笑顔だって口調だって、特に嫌味にした覚えはない。
けれど男がああ言ったからには、そう思えるような何かが出ていたと言うことだろうか。
―――――もっと愛想良く迎えた方が良いのかな。
次に入ってきた客には、いつもの倍増しの笑顔で対応してみる。
出来るだけ丁寧に、出来るだけ優しく接したイヅルに、何故かその男客は「良かったら連絡下さい」と携帯ナンバーを書いた紙を渡して逃げるように去っていった。
―――――……何だったんだろう。
結局イヅルはその晩、5人の男と3人の女性から携帯ナンバーを戴いてしまうと言う事態に陥った。
*************
「―――――と言うことがあったんだよ」
イヅルは早朝、顔を合わせた瞬間恋次を捕まえて昨夜のバイト先での出来事を話した。
「それは自慢じゃねぇんだよな?」
恋次は朝食食いっぱぐれたと言ってパンに齧り付きながら訊く。
「違うよ。意味が分からないから訊いてるんだよ。僕ってそんな黒い性格してるように見える?」
可愛らしく首を傾げて見せたイヅルに、恋次は「何だ、そっちの話しかよ」とぼやき。
「いいや」
と首を振って否定してくれた。
「そうだよね。良かった。やっぱりただ勘違いされただけだよね」
ほ、と胸を撫で下ろしたイヅルは一安心と笑う。
「僕愛想がいいのだけが取り柄だもの。人相悪くなったら生きていけない」
「そうかぁ?頭良いし、身体だって健康だし、充分他にもあんじゃねぇの?」
「そんな。ありがとう。嬉しいよ」
イヅルは上機嫌で恋次の前の自分の席に着いた。
「あ、阿散井君。今日君の出席番号と同じ日付だからきっと当たると思うよ。予習しといた方が良いんじゃない。英語、訳やって来た?良かったら見せるよ」
「やりっ。サンキュ吉良」
英文と訳がきっちり、几帳面な綺麗な文字で書き込まれたノートを受け取って、恋次は大喜びで訳を書き写していく。
イヅルはそれを見つめて誤字や書き間違いを指摘してやりながら、そうだよね、と自分に納得させていた。
自分で言うのも難だが、イヅルは世渡りが上手いと自分で思っている方である。
本音はともかく、人当たりの良い対応とか、人当たりの良い笑顔だとか、そう言うものは自分で練習してでも修得してきた過去がある。
どうすれば人によく見られて、どうすれば人に褒めて貰えるのか。
幼い頃に両親を亡くし、ずっと親戚の家を渡り歩いてきたイヅルからすればそれはごく当たり前の生きる手段の一つで、これの優劣によって自分の待遇は決まると言って過言ではなかった。
そしてそれは家の中だけではなく、学校でも同じく。
教師受けや友人受けが良いと、それだけで色々と好待遇を受けられるのは自覚している。
それを無理矢理求めている訳ではないが、努力した当然の結果と受け止めている
人によく見られること、人に褒められることはいわばイヅルの無意識の強迫観念のようなもの。
そうしなければ皆自分から離れて、あっと言う間に一人になってしまうだろう。
それは嫌だったから、人には優しく接しようと努力したし、認めて貰おうと予習復習は勿論、家事全般だってそつなくこなせる技術と力を身に付けた。
怖いものなしとまではいかないが、それなりに自分の理想通り事が運んでいる。
人生、順風満帆と言うには予想外の躓きも多いが、それなりに上手く生きている。
そう思っていた矢先の事件はしかし、忘れようと思っていた次の瞬間に舞い戻ってきた。
ガラガラと始業ベルの鳴る寸前、教室に入ってきたのは昨晩コンビニにやってきた銀髪の例の男だった。
一瞬言葉を失って呆然と男を見つめていたイヅルは、「おーい、ここの級長は?号令掛けてー」と言う彼の言葉に我に返り、慌てて「起立」と叫んだ。
「礼。お早う御座います」
「おはよーございまーす」
古風なバラバラ大合唱で頭を下げて、席に付いたイヅルは男が自分に気付くかと思い、ついビクビクと目線を伏せたが、男は教壇の前に立って出席簿を見つめたまま、イヅルには気付かなかったようだ。
「はぁ、どうも。今日から家庭の事情で辞めはった久保先生の替わりにこのクラスの担当になった市丸ギン言うモンです。担当は古典です。どうぞよろしゅう」
滅茶苦茶簡素な自己紹介。
生徒達はこそこそとざわめいていたが、イヅルはそんな事より男が逸事分に気付くかとドキドキとしていた。
まさか新しい担任教師だったなんて……。
明るい陽の下で見る市丸は、昨晩の朧気な記憶以上に綺麗な顔立ち、そして均整の取れた体躯をしていた。
女生徒達の声は楽しげに黄色い。
市丸は簡単に出席を取ると、教室を出て行ってしまい、結局朝の内にイヅルに気付くことはなかったようだ。
―――――はぁ、心配して損した。
イヅルはドキドキ言っている心臓を宥めて、一限目の数学に集中しようとする。
そもそも、市丸が昨日一瞬会っただけのイヅルを覚えているかどうかも分からないのに、何をこんなにドキドキしているかと不思議に思う。
あの時のイヅルの言動が偶々勘違いされて『黒い性格』と言われただけかも知れないのに。
偶々たった一度、自分をそんな風に評価した人間が担任教師になったくらいで。
―――――考え過ぎだよ。
自分に言い聞かせて、忘れることにした。
市丸も忘れてしまっているかも知れないし、自分だけ意識しているのは変に思われる可能性がある。
それでも市丸に相対する時は言動や表情に気を付けよう。
そうして放課後、「ありがとうございましたー」と皆で頭を下げた後、イヅルは「級長の子ぉはちょお職員室来て」と呼び出しを食った。
「失礼します」
倍増し笑顔で職員室を訊ねたイヅルは、「学級委員長の吉良イヅルです」とまず頭を下げる。
前担任の机にいた市丸は、急な移動にまだ荷物が片づかなかったのか段ボールを足蹴に座っている。
イヅルは昨夜のことを自分で切り出すべきかどうか悩みながら顔を上げると、「イヅル君な」と笑った市丸の顔に一瞬見惚れた。
「他の先生に聞いたけど、生徒会長もやってるんやね。えらい優秀でええ生徒や言うて褒め言葉ばっかし聴いたわ」
「あ、……ありがとう御座います」
ちょっと照れた風に頭を下げたイヅルは、嫌味にならない程度に「結構天然ボケとも言われますけど」と笑う。
しかし市丸はキョトンとした顔つきになると、「天然ボケ?」と首を傾げた。
「それはないやろ」
「はぁ、自分ではよく分からないんですけど」
余計なことを言ったかとイヅルは心配になるが、市丸はそれ以上突っ込むことはせず、用件の方に入る。
「なんや久保先生の時に配っとったアンケートがあんねんやろ?あれどうなってるんやろう」
「あ、はい。それなら明後日の期日になってますので、僕が皆から回収して市丸先生に持って行きます」
「あ、そうしてくれる?」
「はい」
「ほな任せるわ。ありがとう」
用件はそれだけ、と市丸はくるりと椅子を元に戻した。
イヅルは何だか妙に素っ気ない市丸の態度に苦手意識を覚えながらも、「失礼しました」と部屋を出た。
後ろ手にドアを閉めて、結構緊張していた肩の力を抜く。
―――――ちょっと苦手かも。
そう思って、イヅルは自分に渇を入れ直す。
市丸がこれから暫く担任になることは必須なのだし、自分は級長なのだから何かと付き合って行かなくちゃならない相手だ。
なんとか気に入って貰って、上手く付き合って行かなくちゃならない。
苦手なんて思っている場合じゃない。
「笑顔、笑顔」
この後はコンビニでのアルバイトも待っている。
イヅルは小さく自分の頬を叩くと、職員室を後にした。
****************
「いらっしゃいませ」
笑顔で客を迎えたイヅルは、棚に並べていたゼリーを持って一瞬固まった。
ドアを潜って入ってきたのは市丸ギン、イヅルの高校の新しい担任教師。
深夜にコンビニでは客は元々少ないのだが(特にこの外れにあるコンビニでは)、只今の客は市丸一人だ。
これではさすがにイヅルが昨夜のイヅルで級長のイツルであるとバレてしまうかな、と再び心臓が跳ね上がる。
バレていけない訳はなかったが、昨晩の『黒い性格』発言がずっと気になっているイヅルなのである。
また何か言われるかな、とゼリーを棚に置きながら、笑顔、笑顔、と自分に言い聞かせた。
市丸はしかしふらふらと雑誌コーナーに向かうと、いきなりエロ本を立ち読みしだす。
―――――ぅわぉ。いきなり教え子の前でエロ本立ち読みですか!?
思ったが口には出さない。
客がレジに近寄らなければ商品の整理続行、とイヅルも棚に向き直る。
妙に気まずい空間だった。
せめて他に客が一人でもいてくれたら、互いに余り見られたくないところを見られちゃったな、と言う苦笑いでその場をやり過ごすことだって出来そうなのに。
こうも二人だけの空間だと市丸が気になって気になってしょうがない。
それでもゼリーが終わるとサラダ、と棚を埋めて行っていたイヅルは、隣からぬっと出た手にビクッと身体を跳ねさせてしまった。
「〜〜〜っ!!」
勿論その手は市丸で、棚の弁当を選んでいるらしい。
昨晩も弁当を買っていっていたことだし、今晩も弁当を買いに来たのだろうか。
ともかくギョッとした顔で市丸を見上げてしまったイヅルは、慌てて下を向いて棚に向き直る。
―――――え……笑顔。笑顔。笑顔だっ!!!
よし、と市丸仕様これ以上笑顔なんて出来ません笑顔を作って、「今晩は」と自分からカミングアウトした。
市丸は「ん?」と眉を上げる。
気付いていなかったのだろうか、鈍すぎる。
イヅルはにこにこにこに、と笑いながら「級長の吉良です」と言葉を付け加えた。
市丸は牛丼弁当を片手に「なんや無視するつもりやったんやないの?」と笑う。
「え、そ、そんな。無視なんて。すみません。その、タイミングを逃して」
イヅルは苦笑して頭に手をやる。
気付いていたなら自分から声掛けてよ、と思ったのは顔には出さない。
「市丸先生は昨晩もコンビニ弁当でしたよね」
「ん。ボク料理出来へんから」
「あれ、じゃあもしかして毎日コンビニ弁当とかなんですか?」
「んー。大体そやな」
市丸はつまんなそうに言った。
イヅルは必死で市丸と仲良くなる術を考えていたが、ふと提案が頭を過ぎる。
自炊は得意中の得意だった。
一人暮らしをしている現在も、コンビニの残り物や安い食材を買ってきては安くて美味しいアイデア料理を作って生活している。
一人分くらいなら増えたって作る手間は同じ。
「良かったら、僕、今度ご飯作りましょうか?」
「へ?」
さすがに市丸は変な顔をした。
イヅルは出来るだけ押し付けがましくならないように気を付けて話す。
「あの、僕、一人暮らしなんです。家、この近くですし、もし市丸先生の都合さえよければ、今度僕、晩ご飯とか作りに行きますよ」
一緒に食事はコミュニケーションの第一だ。
苦手克服の為にも、少しでも仲良くなる為にも、この提案は丁度良いとイヅルは微笑む。
「はぁ、まぁ、そら誰かにご飯作って貰えたらボクはええけど」
「なら是非、作らせて下さい。僕料理好きなんですよ。誰かに食べて貰えるなら、僕も嬉しいです」
我ながら素晴らしい言い回しだと思った。
案の定市丸は「んー、ほなお願いしよかな」と言ったので、イヅルは「はい」と笑顔を向ける。
市丸は結局、その日は牛丼弁当とポテトサラダ、それに焼き鳥パックを買って帰ったが、特にイヅルを批判するような言葉はなかった。
知り合いと分かって誤解が解けただけかも知れなかったが、イヅルは、ほ、と一息吐く。
ともかく市丸とは仲良くやっていかなければならないし、気に入って貰いたい。
切っ掛けが掴めたことは収穫だった。
イヅルは人の居ない閑散としたコンビニで、市丸に何を作ろうと考えながら仕事をする。
取り敢えず味の傾向を知る為にも、明日試しにお弁当作っていこうかな。
良い奴、と人から言われることに半ば命を賭けているイヅルは、市丸を取り込むべく、最善の努力を払うことを決意していた。
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