リードと首輪と甘い罠








朝礼の後、イヅルは早速市丸を追いかけて、級長の話があるような振りで一目のない階段近くまで行くと、弁当を入れた紙袋を差し出して言った。

「昨日、食材が余ったのでお弁当作ってみたんです。もし良かったら」

市丸は案の定驚いた顔をしたが、それでも「ほんまに作ってくれたんや」と嬉しそうにそれを受け取る。

イヅルは市丸仕様笑顔で「お口に合うか分かりませんけど」と受け取って貰えたことに礼を述べた。

「や、お礼言うンはボクの方やろ。ありがとう。食べさして貰うわ」

紙袋を下げて、市丸は階下へと歩いていく。

その後ろ姿を見送って、イヅルはこっそり小さなガッツポーズを作る。

まずは第一作戦終了と言ったところか。

料理の腕には自信のあるイヅルだ。

市丸が関西出身なのも考慮して味付けはかなり薄味にしてある。

昨晩とその前に買っていった弁当の中身から好みも検証して、無難な内容にしてあるから食べられない物も少ないはず。

仲良くなる為の切っ掛け作りにしてはなかなか手の込んだものだが、これくらいの努力は惜しまない。

もともと目的達成の為には骨身を惜しまない性格だ。

―――――まぁそれも、美味しかったよ、の台詞を聴いて初めて成功と言えるんだろうけど。

教室に戻って何食わぬ顔で授業を受けながら、感想はいつ聞きに行くのが良いか。

夕食を作る約束はいつ果たしに行くのか良策かと考えを巡らす。

授業内容はそっちのけだが、市丸のことを考えている方が数倍楽しい。

今までこれほど人に好かれる為に考え込んだことはなかったが、何故か楽しくて仕方ない。

どんな手が有効か。

どんな風な態度が好まれるのか。

まだまだ市丸のことは研究不足だが、それはつまりまだまだそれに未知の可能性があると言うこと。

攻略する楽しさというか、逆境に立ち向かう爽快感というか、久しく忘れていた闘志が心地良い。

―――――こう言うところが、黒い性格って言う意味だったのかな。

当てられた黒板の問題に答えながら、イヅルは別のことを考えていた。

しかしそれはクセというか、無意識の思考であり、イヅルに悪気がある訳ではない。

むしろ利己的とは言え相手を思っての言動でもある訳で、それがマイナス評価を得るとは言い難い。

100%の良心でなくても、相手に喜んで貰いたい気持はある意味100%であるのだから嘘ではない。

市丸の自分への評価も、”良い奴だ”になるのも時間の問題だろう。

放課後になるのを待って、こっそり職員室に顔を出したイヅルは、しかし市丸の姿を見付けられず、近くの教師に所在を尋ねた。

すると古典の教科準備室の方に荷物を移動させていたという話を聴き、お礼を言ってそちらへと足を向ける。

途中、所在を尋ねた教師に「この間の小テスト、学年一番だったぞ」とお褒めの言葉を戴き、暫く足止めを食ってしまったので終礼が終わってから30分は経とうとしていた。

教科準備室のある棟は教室や職員室、校長室、理事長室などの主要教室が並ぶ棟とは違って、音楽室や科学室、書道室などの部活動に使用されている幾つかの教室以外は静まりかえっている。

小さくノックの音を響かせるが、中からはなんの返事も帰ってこなかった。

―――――もしかしてもうどこかに行かれたのかな。

そっと取っ手に力を込めると、ドアは難なく開く。

ただノックが聞こえなかっただけなのかなと、小さく「失礼します」と声を掛けて中に足を踏み入れると、乱雑な荷物の間に埋もれるように机に突っ伏す背中が見えた。

「市丸先生?」

呼び掛けど背中はぴくりとも動かない。

もしかして、と近付いて顔を覗き込めば、案の定爆睡していた。

「………………」

なんとも型破りな教師である

やる気がないというか、マイペースというか。

生徒の前で気にせずエロ雑誌を立ち読みするかと思えば次は爆睡。

別段それが悪いことではないけれど、人は隠したがる側面だ。

―――――特に教職なんて取っていれば尚更だと思うんだけど。

何だか気の抜ける先生だな。

イヅルはキョロキョロと見回して、何か掛ける物がないかと探す。

けれど全く手つかずに片づけられていない、段ボールが運び込まれただけと言った感じのこの部屋では、毛布どころかジャケット一枚見付けるのも不可能そう。

かと言って自分のジャケットを掛けるのは逆に気を遣わせてしまいそうだし、とイヅルは悩んで、起こすことに決めた。

今は六月とは言え陽が落ちると段々と寒くなっていく。

特に今日は天気が余り良くなくて、今にも一雨来そうな厚い曇天が太陽の光を遮っていた。

「市丸先生」

近くで呼びかけても反応はない。

躊躇いつつ、そっと肩に手を置いて再び「市丸先生」と呼びかけたが、ピクリと瞼が動いた程度で起きる気配はない。

「どうしよう……」

悩んで、しかしその気持ちよさそうな寝顔にイヅルは苦笑すると、起こすのを辞めて暫く様子を見ることにした。

子供のような寝顔だ。

安心しきって眠りを貪っている感じ。

起こさないようにと気を付けながら、そっと手近な本を棚に並べた。

これくらいなら、後で入れる場所が違っても、床に転がしておくよりは選別しやすいだろう。

そうして粗方の本を棚に並べてしまうと、後は書類や余り生徒が触ってはいけないような物ばかりになってしまい、部屋の整理もそこまでになる。

時計を見れば六時前。

イヅルには今日のバイトはないが、そろそろ起こさなければ本当に暗くなってしまう。

さて、と気合いを入れて市丸の肩を揺らし、「市丸先生、起きて下さい」と強めに言った。

「んー……なんや。もう朝か」

なんてベタな台詞だろう。

呆れるやら苦笑するやらだが、イヅルは瞬間的に市丸専用笑顔で答える。

「夕方の6時前ですよ。そろそろ起きないと暗くなってしまいます」

市丸はイヅルの顔を見付けると、「何でここにいるン?」とまずごく当たり前の質問をした。

「市丸先生を捜しに来たんです。お弁当の感想聴こうかなって。でもお疲れのようでしたので」

起こさなかったは暗に含んで、市丸の顔を覗き込むと、「ああ」と寝起きの顔は我に返ったようだ。

「弁当な、美味かったで。ありがとさん。イヅル君ほんまに料理上手いんやな」

「ありがとうございます。お口に合って良かったです」

んんー、第一作戦はやはり成功だったらしい。

イヅルはしてやったりと言う心境だが、それはおくびにも出さず、微笑を湛えてお辞儀した。

「今度は夕飯作りますよ」

すると頬杖をついた市丸の表情が変わり、ニヤリと口角を上げた意味深なものになる。

「噂通りの優等生なんやね」

イヅルは一瞬、返答に迷った。

これは褒め言葉、と言うよりは嫌味かも知れない。

しかし嫌味を嫌味と受け取るべきなのがどうなのか。

いつもなら素知らぬ顔で『ありがとうございます』と天然ボケを装うのだが、何故だか今は上手く出来なかった。

真顔で悩んでしまっているイヅルの前で、市丸は更に言葉を続ける。

「そない良い子の演技ばっかししよって疲れへん?」

良い子の演技……。

イヅルは曖昧に笑って「……いえ」と答えるのが精一杯だった。

どうやら市丸にイヅルのそれは通用しない、と言うよりも嫌われている感がして言葉を紡げない。

昨日の今日で、少しは良い関係が築けそうだと思ったのはさすがに早とちりだっただろうか。

長居しても余計に嫌味を言われそうで、イヅルはそっと目を伏せると、「失礼しました」と部屋を出ていこうとした。

市丸の機嫌を悪くさせるつもりはなかったが、取り敢えず今の方法では上手くないのは分かる。

今までだってとことん馬の合わないタイプというのはいたが、そう言う者とは無理に近付くよりも距離を取ってお互いに触らぬ位置を見付けるのがベストだと、それも経験上知っていた。

市丸ともその方が良いのかも知れない。

多少の敗北感と挫折感に傷心しながら、市丸の横をすり抜けようとした時だった。

突然腕を掴まれて引き寄せられた。

痛いくらい掴まれて思わず上体が市丸に落ちるような格好になってしまったが、腰を支えられた所為でなんとか倒れるのは免れる。

なに、と言う前に市丸の手がイヅルの頬に伸ばされた。

「怒ったン?案外短気なんやね。別に嫌味言うたつもりやなかってんけど」

「え?」

市丸の顔は笑っている。

イヅルは息遣いさえ聞こえそうな距離に市丸の顔を感じて、ドキッと心臓が高鳴った。

細目はよく見れば赤い瞳を持っている。

魅入られたように身動き出来ずにいると、その瞳が意味深に深い笑みを刻んだ。

何かを思い付いたのだろうか。

頬に添えられた指先が首の後ろに回る。

そして引き寄せられるままに唇が重なった。

―――――え?

それは一瞬と言うには随分と長い時間だったように思えたが、イヅルには抗うことなど思い付きもしなかった。

ただ温かな体温が柔らかい、と言うには多少硬質的な感触から伝わってくるのを感じる。

息遣いが肌に触れて、煌めく赤い瞳がとても近い。

いつ離れたのかも分からないくらい、イヅルはその口付けに心酔していた。

「抵抗せぇへんのやね」

「え?」

言われて初めて自分が唇を奪われた事実に思い至る。

「あっ」

慌てて唇を手で覆ったが、何の意味もない。

ただ今更のように顔が熱くなる。

瞳まで潤んで、今更なんてことをされたのかと気持ちが焦った。

市丸は笑っている。

こんな時はどうすれば良いのだろうか。

想定外の状況にイヅルは自分の取るべき行動が思いつけない。

ただ混乱して一歩、市丸の腕から離れると、後は振り返って逃げ出した。

もう何を言われてもどう答えて良いのか分からなかったし、どう行動して良いのかも分からない。

ただこれ以上の失態は見せたくないのと、慣れない空気から逃れて自分を取り戻したかったから。

廊下は走らないが鉄則の生徒会長のクセに、イヅルは廊下の端まで走り抜けて、階段に辿り着くと、やっと立ち止まってバクバク激しい心臓に荒い呼吸を繰り返した。

別にファースト・キスと言う訳ではなかったが、まさかのキスに動揺を隠しきれない。

男としてしまったのだ。

その上教師。

苦手と思って、仲良くなろうと思って頑張っていた矢先のフェイント。

―――――嫌味のつもりじゃなかったって言ってたけど。

じゃあ何のつもりで市丸は自分にあんな態度や言葉を使うのだろう。

イヅルはその場にしゃがみ込んで、呼吸が整うのを待った。

ジクリ、と痛んだ胸の奥の古傷がこじ開けられそうで必死で意識を逸らす。

思い出したくない記憶の蓋が開いてしまいそうで、必死になって閉じた。

―――――違う。違う。市丸さんは違う。”あの人”じゃない。”あの人”とは違う。

握り拳を作って自分の胸に押し当て、深く息を吐いて痛みをやり過ごす。

やっと忘れかけていたのに、嫌な記憶と市丸がタブリそうで、イヅルは首を振って歩き出した。

昔、まだイヅルがとても幼くて、まだ多くの者に頼っていなければ自分で笑うことも出来なかった頃。

早くに亡くした両親を頼ることも、引き取ってはくれたものの気を遣わなければならない他人だった育ての両親に頼ることも出来なかったイヅルが、唯一心を開いて支えと信じた人。

彼は悪い人ではなかった。

むしろイヅルを可愛がってくれて、多感で不安定だったあの時期を支え続けてくれた恩人だった。

―――――ただ、僕が彼の恋人にはなれなかっただけ。

それだけ。

久しぶりに酷く近くで感じた体温の所為か、イヅルはショックでふらふらとよろめきながら歩いた。

帰り道は酷く長く、気が遠くなるほど遠い。

不意に冷たくなった指先を握り込んで、血が滲むほど唇を噛みしめた。

信じてはいけない、と心の奥で声がする。

また傷つくだけ、また失って嘆くことになる。

もう少し大人にならなければ、まだ自分には耐えられない。

心を埋めてしまう誰かを見付けるのはまだ早い。

イヅルはアパートの部屋に辿り着くと、布団を引きずり降ろしただけの布にくるまって無理矢理眠った。




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