リードと首輪と甘い罠








イヅルには昔、兄と呼んで親しくしていた年上の友人がいた。

彼はイヅルが小学五年から六年の春まで世話になっていた親戚の息子の友人で、イヅルとは五歳違い。

やっと高校かそこらだった彼は、しかし小学生のイヅルからすれば大人と同然、頼れる存在に思えてならなかった。

イヅルの両親はイヅルが6歳の時に事故で逝ってしまった。

以来ずっと親戚筋の人間が代わる代わる面倒を見てくれていたのだが、それは幼いイヅルにもそれと分かるほど、家族からは相容れない存在として扱われていた。

居候、もしくは不憫な子。

彼らが童話に出てくる継母のようにイヅルを苛めたことは一度もなかったが、イヅルが彼らを父、母と一度も呼んだことがなかったように、両親でも家族でもなかった。

一緒に生活をしていく仲間、もしくはリーダー。

イヅルにとって彼らは常に気を遣っていなければならない他人同然だった。

幼かったとは言えイヅルは少し大人びた少年だったのかも知れない。

自分の立場や環境をとても冷静に受け止めていたし、彼らに感謝こそすれ、恨んだことは一度もなかった。

けれど、寂しかった。

無性に泣きたくなったり、無性に誰かに甘えて我侭を言ったり意地を張ったりしたくなった時に、それを受け止めてくれる人、そもそもイヅルがそれをしようと思える人が周りにいなかった。

それは彼と巡り会ったあの衝撃の事件の時も同じで、学校の帰り道、突然見知らぬ男に手を引かれて公園のトイレ裏に引き擦り込まれた時も、瞬間誰に助けを求めるべきか出てこなかった。

大声など出して、恥をかかせるのではないか。

注目を浴びたりなどしたら、疎ましがられてしまうのではないか。

恐怖よりも先にイヅルの心内に走ったその考えにより、悲鳴は出せなかった。

ランドセルを乱暴に剥ぎ取られ、押し倒されて服を剥かれそうになった時には口を押さえつけられていたが、それでもイヅルの口から助けを呼ぶ人の名前は出てこなかった。

お母さんも、お父さんも、誰も、自分を助けてくれそうな人の名など浮かばなかった。

そしてただ恐怖に身を引き攣らせながらされるがままに乱暴されている時、彼は突然飛び出してきて男の横腹を蹴り飛ばしたのだ。

男は呻いて、しかしその後は一目散に逃げ出した。

そうして何とか事なきを得たイヅルは、彼が自分の世話になっている家の義理の兄の友人であることに気付き、慌てて今回のことの口止めをしたのだ。

「おばさん達には絶対に言わないで。義兄さんにも、お願いっ!!」

彼は泥だらけになったイヅルの服を払ってくれながら、「何でだ?」と訊ねた。

「僕本当の子供じゃなくて、養って貰っている子供だから、迷惑かけたくないんだ。事件とか、困り事とか、心配事とか、そういうの大人は嫌がるでしょう?」

イヅルの言葉に彼は驚きの顔で「お前ホントに小学生かぁ?」と言った。

そうしてそれから、イヅルと彼の秘密の関係は築かれた。

小学生と高校生の友人なんて言うものは公にするものじゃない。

増してイヅルは目立つことを極力避けたい身の上だったし、彼もそう言う秘密の関係を好んでいたので、自然二人が友人であることは二人だけの秘密となった。

秘密の共有、それはより親密な関係を築くのには何よりも適した素材だった。

義兄に内緒で彼の家を訊ね、世話になっている家族にも友人にも話さないような話しを、イヅルは何でも彼に話した。

イヅルにとって教師は世話になっている家のおじさん、おばさんに何でも話してしまう気を遣っていなければならない人間の内の一人だったし、同級生は皆とても幸福そうな子供ばかりで、自分のような悩みや不安を抱えている者など見付けられず、自然何も話すことはしなかった。

そうしてイヅルはどんどん彼にはまっていき、「兄さんて呼んで良い?」と言う仲にまでなったのだ。

彼はとても優しい人で、それでいて大人っぽくどこか世間を斜めに見ているような、そしてしっかりしていて頼りがいのある、イヅルの憧れそのものだった。

その彼に彼女が出来ても、イヅルは彼と会うことを辞めなかったし、彼もイヅルを遠ざけるようなことはなかった。

おかげでイヅルは暇さえあれば彼の家に入り浸り、彼を唯一の心の支えと、全てを委ねて信頼しきっていた。

そんなある日のことだった。

イヅルは偶然、彼が彼女とキスしているところを見てしまった。

それは恋人同士であれば当たり前のことだったのだが、イヅルは何だか妙に嫌な気持になった。

しかしそれは少年らしい潔癖性から来るものではなく、むしろ嫉妬としてイヅルの中で認識されるほどはっきりとした彼への恋情をイヅルに自覚させた。

イヅルは彼に恋をしていた。

男同士、とか5歳差という認識はもちろんあった。

イヅルが例えどんなに真剣に彼を想ったとしても、自分はいつまでも彼と一緒にいられる訳もなく、彼が自分を想ってくれる訳もないことも分かっていた。

もう少しイヅルが子供らしい子供であれば、或いは直接彼に想いを打ち明け、玉砕していたかも知れない。

けれどイヅルはそうしなかった。

告白したところで返事にかかわらず付き合うことなどできない事が分かっていたイヅルは、彼にこう言ってねだった。

「一度で良いからちゃんとしたキスをしてみたい」

女の子とはしたことがあると偽って、けれど上手くやり方が分からないから教えて欲しいと彼に頼んだのだのだ。

そして最初渋っていた彼も、イヅルが何度かそうして頼んでいる内に一回だけ、と言う約束でキスしてくれた。

もちろんイヅルが頼んだ大人のキスで、舌を絡ませて互いの蜜を与え合うキス。

そしてそれはイヅルがそう謀ったとおり、二人の仲を深める切っ掛けとなった。

一度経験してしまえば人は慣れる生き物だ。

イヅルがもう一回だけ、もう一回だけとせがめば彼はイヅルにキスをしてくれるようになった。

そして自慰や、口技も、最初こそ必ず渋るものの、結局はイヅルにほだされる形で教えてくれた。

そうして彼と出会って半年が過ぎようとしていた時、イヅルは次の親戚に引き取られることが決まった。

予想していたこととは言え、イヅルは彼と離れることが辛かった。

しかし自分でも今の状況が自分達にとって良いものでないことも分かっていた。

イヅルは彼の恋人ではなかったし、彼には付き合ったり別れたりを繰り返していたが大体彼女がいた。

イヅルと彼の間には友人以上の何かは確かにあったかも知れないが、それは恋とは呼べない代物であったし、正しい意味では愛情さえない関係であったかも知れない。

それでもイヅルの大きな支えであり、慰めである事に変わりはなかった。

だから最後の別れの時、イヅルは想いを打ち明けないまま彼に言ったのだ。

手紙を書く、と。

手紙を書くし、電話もするから、偶には返事を返して欲しいとイヅルは言った。

折角仲良くなったのだから、と。

しかし彼は言った。

丁度良い機会だから全部なかったことにしよう、と。

イヅルは目の前が真っ暗になる思いだった。

想いは告げなかった代償に、せめて離れている間も友人でいられると思っていたから。

もちろん何年、何十年と離れたまま友人付き合いをしていけるとは思わなかったが、それでも数ヶ月、一年くらいは友人と思っておいてくれると思っていた。

「どうして?」

訊ねたイヅルに、彼は眼も合わさずに言った。

「全部間違いだったんだよ。俺も忘れるから、お前も忘れろ」

イヅルに縋る言葉はなかった。

ただ大人びた作り物の顔をして、「分かった。今までありがとう」と言って走って逃げただけ。

気付いたら酷く彼に依存していた自分だけが取り残されていた。

今までのように誰もいないのが当たり前の吉良イヅルではなく、彼という秘密の大切な人を持っていた吉良イヅルになっていた。

それはイヅルにとって、途方もない大きな損失だった。

人を信じる、人に甘える、人に真実を晒け出すという、基本的で大切な全てを失わせるほどには大きな損失だった。

彼を失った後のイヅルは、それこそ自分でもおかしいと思うくらい精神が不安定で、何もないところで泣き出したり、突然自分を酷く傷つけたい衝動に駆られたりと、まるで精神病のような症状を覚えるようになっていた。

それでもイヅルが何とかそれを隠して生きて来れたのは、生来の頑固な理性の所為か。

自分は養われている身なのだからと思うことが、イヅルに人に優しく接すること、人に良く思われることを強いた。

それは一秒も崩れることはなく、泣き叫ぶ時も、壁を殴りつける時も、必ず人目のない一人の時に限ったし、殴り過ぎて変色した手の甲や、時には額を打ち付けた所為で出来た傷なども、上手いこと話を作って苦笑混じりに伝えることで隠し通すことが出来た。

そしてそれを上手く隠し仰せるたびに、それほど自分は他人にとって無関心な存在かと余計に捻くれたりもした。

しかしそれも時が過ぎて年を取るごとに少しずつ自分の中で消化され、高校生になった今のイヅルにとっては全て自分が大人になる為の貴重な経験だったのだと思い込めるほどにはなっていた。







しかしそれもふとした瞬間に崩れる事はあるもので、特に今日のようなフェイントは反則だった。

布団にくるまったまま、イヅルは嫌なデジャブに身を縮めて拒絶する。

偽りの笑顔とか、本当の自分とか、黒い性格、良い子の演技、見破られてはならないはずの全ては、矛盾した道理で誰かに分かって欲しい自分の姿でもある。

触れた体温も、彼以来の感触も、全てが何かを肯定したがって、イヅルの中の脆い堤防が激しく揺さぶられていた。

―――――苦手だ。

イヅルは必死で自分に言い聞かせようと繰り返す。

市丸先生は苦手だ。

近付いちゃいけない。

近付いたら期待して、無様に自分をさらけ出してしまう可能性がある。

そしてその時、もしまた拒絶されるようなことがあったらきっと二度目は立ち直れない。

今度は子供ではないぶん、崩れたら生活そのものが出来なくなってしまう。

そんな事は出来ない、とイヅルは明るくなった部屋の中で自分を取り戻そうと両手で頬を叩いて渇を入れた。

冷たい水で顔を洗って、目の前の鏡で笑う練習をする。

それでも市丸とは今日また顔を合わせることになるのだから、笑顔の仮面は厚い方が良い。

きっちり制服に着替えて、きっちり髪をセットして、朝食だけ抜いて家を出たイヅルは、いつもより少し早めに付いた教室で、いつも通りに微笑んで級友と挨拶を交わした。





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