リードと首輪と甘い罠








朝、市丸はいつものように教壇に立って、いつものように簡単な朝礼を済ませ、いつものように教室を出ていった。

イヅルもいつものように級長としての役割を果たして、いつも通りの朝を迎えることが出来た。

―――――良かった。

イヅルは市丸の背中を見送ると、何とかいつも通りを演じられた自分に安堵する。

今すぐという訳はいかなかったが、この調子ならば市丸と二人でまた話す機会があったとしても、普通に話せそうだ。

机の上に一限目の教科書やらノートを用意して、安堵の笑みを漏らしたイヅルは、逆に「何か良いことあったのか?」と隣の席の級友に訊ねられたくらい。

「ちょっとね」

思わせぶりに微笑んで、黒板に向き直ったイヅルは、完璧にいつも通りの吉良イヅルだった。










**************








しかし二度目の危機は存外すぐにやってきた。

学校にいる間、全く問題なく過ごしたイヅルは、いつも通りコンビニの深夜アルバイトに向かった。

そうしていつも通り、22時に上がって店を出た時である。

「お疲れさん」

「え?」

振り返れば市丸が店前に立っていて、にこやかに手を振っている。

学校では完璧に、市丸もイヅルを無視した形で過ごしていたので、もう構ってくること自体ないだろうと踏んでいたのが仇になったか……。

不意を付かれて動揺が顔に出てしまう。

無言になったイヅルに、市丸が近付いてきた。

「今晩は。結構遅まで入っとんのやね、バイト。待ちくたびれてもうた」

「はぁ」

すみません、とつい口が滑る。

謝るいわれがないが、イヅルもどう対応して良いのか分からない。

「実はな、お願いしたいことがあって待っとってんけど、今晩一晩泊めてくれへん?」

「は?」

イヅルは思わず瞳を見開いて固まってしまった。

昨日の今日で、泊まりたいとはどういう神経をしているのか。

と言うよりも、何を考えているのか。

思ったことが顔に出ていたのか、市丸は苦笑すると「いやぁ、実はな、鍵なくしてもぅてんよ」と言った。

何でも家に入ろうとして鞄を開けたところ、どこかで鍵を落としてしまったのか、なくなっていて入れなかったらしい。

まぁ、それは良いとして、だ。

どうしてそれで僕の家に泊めて貰おうという発想になるんだろう。

イヅルは返事も出来ないまま市丸をまじまじと見つめてしまう。

何を考えているのかまるで分からない。

かと言ってこんな所でずっと立ち話をしている訳にはいかなかったし、市丸を寒空の下、放っておく訳にもいかない。

「狭い部屋ですけど……それでも良かったら」

イヅルはついつい笑顔も忘れて市丸を案内してしまう。

帰り道、イヅルの横を歩いている市丸は特に喋ることもなく、イヅルはイヅルで夕飯の材料が家にあったかどうかを考えていた。

「市丸先生は夕食は食べられたんですか?」

「ん、いや?食べてへんけど」

「じゃあちょっと買い物寄って良いですか?明日の朝の分もいるし、ちょっとだけ買い足していきます」

そう言い置いてイヅルは24時間営業のスーパーへと道を変える。

「いっつも夜中一人でこないなとこまで買い物くんの?」

「ええ。家まで近いですし。バイトの後で買い物に行く方が値引きしてますしね」

不意に苦笑が漏れて、市丸をふり返ると彼も笑ってくれた。

少し気が休まる。

意識しすぎだろ、と自分に自分で言い聞かせた。

もっと自然にしないと、変に思われてしまう。

次に市丸をふり返った時はいつものイヅルらしい笑顔を湛えて訊ねた。

「市丸先生は食べられない物ってありますか?」

市丸はキョトンとした顔でそれを見つめて、「んー人参、ピーマン、キュウリに茄子に蓮根、オクラ、納豆、あと赤身の魚も好きやないし、味濃い洋食とかも嫌いやし、椎茸とか、あー……後は」と考え込む。

おいおいおい、と思いつつも、こうまで好き嫌いがある人というのもどうしたものかとイヅルは呆れて笑った。

「じゃあ人参抜きの肉じゃがとかしましょうか」

後は豆腐があったからあんかけと、後は出汁巻きでも作って、海老しんじょの吸い物でも付けて。

献立を考えていると、レジの近くでカゴを奪った市丸は「宿代と食費は払わして貰います」と会計を代わってくれた。

二人で並んで買い物袋を下げて帰る姿は何となく仲良し臭い。

昨日あんな事があった次の日だって言うのに、どうしてこんなに気を許してしまっているのだろうとイヅルは苦笑した。

市丸の隣は思っていたほどシンドイ所ではなかった。

むしろ自然体でいられるような、のんびりとした空気に満たされている。

部屋に上げて「楽にしてて下さい」とイヅルが言った時には既にテレビのリモコンに手を伸ばしていたりする所が原因かも知れない。

全く取り繕う様がない。

狭くて使い勝手は悪いが、よく使い込んであるキッチンで料理を作っていると、後ろで市丸がイヅルを呼んだ。

「何か手伝う?」

今頃思い付いたのかと思えば笑ってしまう。

「いいえ。構いません。座っていてください」

そう言って簡単に摘める物をとカイワレ大根と鮪のサラダを机に置き、「すぐ出来ますけど、お腹空いてるなら摘んでて下さい」と伝える。

すると市丸は早速箸を付けたが、「何やちゃんと笑うことも出来るンやね」と意味深なことを言った。

不意にイヅルの顔が曇る、しかしそれは一瞬で、すぐに笑顔に戻ると、「後は肉じゃがに味が染みるよう電子レンジを使うだけですから。もうちょっと待ってて下さいね」とキッチンに向き直る。

しかしその後ろを付いてきた市丸は、背後からイヅルを抱き締めて言葉を続けた。

「なぁ、ずっと気になっとってんけど。イヅル君、可愛い顔してるのに、何でそない嘘くさい笑顔ばっかししよんの?」

「え?」

イヅルは市丸の腕の中で振り返りながら、言葉の真意を測ろうと顔を見上げる。

「やってそうやろ?初めてコンビニで会った時もそうやったけど、営業スマイル言うより、助けてっちゅう顔で笑っとった。そのくせ誰も自分なんか助けられん言う捻たオーラで……イヅル君はどっちがホンマなんやろ」

「何を……言って……」

市丸の顔もイヅルを見下ろして覗いている。

言われた言葉を理解しようと頭の中は必死に動いていたが、上手く考えることが出来ない。

むしろ心臓がバクバクと激しい鼓動を立てて、壊れてしまいそうで、そちらの方が気になって仕方ない。

「僕……は」

口を開くと、丁度いいタイミングで電子レンジが音を立てた。

「あ、……え、と、出来たみたい……です」

イヅルが目線を逸らすと、市丸は素直に腕を解いてくれた。

鍋掴みで取り出した耐熱鍋を鍋敷きの上に置いて、肉じゃがを皿に盛りつける。

そうして出来た料理達を全て机に並べると、ひとまず夕食となった。

向かい合って箸を突いていると、やっと思考がクリアになっていく。

市丸が言っているのは多分イヅルの本心だ。

それは分かる。

彼は多分、物凄く人の機微に聡いのだ。

しかし同時に無頓着。

自分が誰にどう思われようと関係ないと思えるタイプ。

変わった人だなぁ……とイヅルは向かいで嬉しそうに厚焼きを銜えている顔を盗み見た。

加えて言うなら全く教師らしくはないが、人間としてはとても魅力的。

イヅルの周りには今までいなかったタイプだ。

いや、これからも出会う可能性としては低いように思われる。

「味付けは大丈夫でしたか?」

イヅルが訊ねると、市丸は嬉しそうに頷いて「ん。めっちゃ美味い」と微笑んだ。

「良かった」

イヅルの表情も自然と優しくなる。

何となく、市丸の前でいちいち誰にでも分かり易い優等生を演じる必要はないように思えた。

そんな事をしなくても、イヅルが良い奴かどうかは市丸の人を見る目にかかれば自ずと分かるだろうし、逆に演じたり取り繕ったりすればするほど、それはイヅルの意図とは離れて腹黒として映ってしまいそうな気がする。

自然体でいて、素直に優しい気持ちでいれば、きっと市丸先生なら分かってくれるんじゃないかな。

イヅルは苦笑しながら、今にも袖が浸かりそうな醤油皿をそっと脇へと退けた。






***************






「お風呂、すっごく狭いんですけど。先に入って下さいね。着替えは小さいと思いますが、僕ので我慢して下さい」

夕食後、片づけをしながら市丸に呼びかけたイヅルはパタパタと風呂の準備に走り回る。

パジャマにバスタオルも必要だが、歯ブラシだってコップだって必要だろうし、下着の替えに、スーツは干しておかなければならないだろうし、朝一旦帰れるかどうかも分からないのだから今晩の内に洗えるものは洗っておいた方が市丸も使いやすいだろう。

忙しなくあれも、これも、と動いているイヅルに、市丸は「そない気ぃ使わんでええでぇー」と苦笑いしている。

「準備はしておきますから先入っちゃって下さい」

イヅルがもう一度そう言ったところで、やっと市丸は立ち上がると、のそのそと狭いユニットバスに歩いていった。

もともと他人様の家で世話になってきたイヅルである。

奉仕の精神と言うほどではないが、人の為にあれこれ気を回して動くのは得意中の得意である。

それを苦とも思わず湯上がりに飲む為の湯冷ましから、気持ち悪いかも知れないと布団のシーツを変えたりと、思い付く限りのお持て成しに動き回っている内に、鴉の行水といった市丸が出てきた。

「…………早いですね。もっとゆっくり浸られた方が疲れが取れますよ」

イヅルか言うと、無造作に髪を拭いていた市丸は「いっつもこんくらいやけどなぁ」と言った。

「それなら良いんですけど。湯冷まし置いておきますね。良かったら飲んで下さい。あと下着とシャツとハンカチは洗っちゃいますね。明日までに乾くようにお風呂の乾燥機かけときますから」

そうして洗濯機を回している間に風呂に入って、出たらさっそくスーツにブラシを掛けなくちゃと考え、そこでやっとイヅルは思い至る。

「ふ、布団どうしよう」

小柄なイヅルが膝を抱えてちょうどスッポリと言った感じの浴槽に浸かりながら、肝心なことに気付いて青くなる。

一緒に寝ればいいと言えばそうなのだが(男同士だし)、それは微妙に気まずかった。

何故なら昨日、市丸はイヅルにキスしてきたばかりなのだ。

昨日の今日で家に泊まりたいと言ってきた市丸の気持ちも不明だが、それを煽るような事はしたくない。

それでもイヅルの部屋に客用布団がある訳もなく、布団は一組。

イヅルがいつも使っている何の変哲もない普通の一人用の綿布団。

今日一日だけだし、冬用の毛布出して床に直接敷いて、その上に何か……いや、座布団の上に毛布を敷けば一晩くらいなら何とかなるかな。

考えながら風呂を上がると、市丸はイヅルが出して置いたブラシをスーツに掛けている途中だった。

「ブラシ借りたで」

ふり返った市丸に言われ、イヅルは「はい。どうぞ」と面食らう。

何気に市丸に動いて貰おうという腹がなかっただけに、ちょっと驚いた。

「あ、じゃあ僕洗濯物干しちゃいますから」

パタパタと洗面所に戻ったイヅルは市丸の下着やらシャツやらをハンガーに掛けて風呂の乾燥機に掛ける。

粗方干し終わると、いつの間にか入口に立っていた市丸に「髪乾かしてからせな風邪引くよ」と怒られた。

いつの間にか片づけられていた机の代わりに布団が敷いてあって、真ん中に座らされたイヅルは市丸にドライヤーを当てられる。

「あの、僕、自分でしますから」

誰かの為に何かをするのは得意でも、誰かに何かをして貰うのは居たたまれなくて苦手。

イヅルが手を伸ばすと、市丸は「だぁめ」とそれを取り上げて笑った。

そして結局市丸が乾かすことになって、イヅルは落ち着かない気持ちで俯く。

その耳に近く、笑い声が響いた。

「なんややっと分かったわ。イヅル君はあれやな。人に優しいされるンに慣れてへんのやね」

「え?」

振り向こうとして、けれど抑えつけられたままの頭では市丸の顔を覗くことは出来なかった。

ただ低い笑い声がとても近くで聞こえて、イヅルは困った気持ちになる。

それは誤解だ、と言いたかったが、この騒音では聞こえないだろう。

イヅルの周りの人間は大抵優しかった。

早くに両親を亡くしたとは言え、本当に苛められたり嫌味を言われたりした事は一度もないと言っていいくらい。

むしろ優しくされ過ぎて、居たたまれなくなるくらいの扱いを受けることだってしばしばあった。

今だってイヅルの周りの友人も、身元引受人として名前を貸して貰っている親戚も、とても優しくしてくれている。

それで優しくされるのに慣れてないでは、今までイヅルに優しく接してくれた人達に失礼というものだ。

ブン、と風が最後のうなりを残して静かになった。

「んー。サラサラふわふわ。イヅルん髪は綺麗やなぁ」

何気に呼び捨てにされたな、と思いながら、イヅルは市丸をふり返った。

「ありがとうございます」

「ええんよ。イヅルはその何倍も何十倍もボクの為に動いてくれたやろ?」

「いえ、そんな……」

こうしてお礼を言われる瞬間が好きだからと言ったら、また市丸は黒い性格と言うだろうか、と頭の別の所で声がする。

イヅルは市丸を見つめると、「でも僕、別に優しくされるのに慣れていない訳じゃありません。むしろ市丸先生が最初にそう言われたように、僕は少し性格が歪んでいるのかも知れません」苦笑してみせた。

市丸の顔にふと笑みが消える。

何を考えているんだろう、と思っている間に、いつの間にか首の後ろに回っていた手が顎を掬って口付けられた。

「んっ……!?」

目を見開いて驚きと非難に市丸を見つめれば、深く閉じられた瞳が間近で勝手に胸が高鳴り出す。

嫌なはず、駄目なはずなのに、身体の力が勝手に抜ける。

腕を突っぱねれば逃れる方法はあったかも知れない。

滅茶苦茶に暴れたら簡単に抱き寄せられているだけの身体は離れられたかも知れないのに、イヅルはどうしても動けなくて、ただ唇を受け止めた。

温かい感触。

心地良い温度。

思わず目を瞑ると、舌が唇を割って入ってきた。

「んぅ……っん」

深くを探られて、縮こまった舌を吸われると、腰当たりからぞわっとした感触が脳天まで駆け抜ける。

思わず震える指先で市丸の背を抱いたイヅルは、自ら舌を差し出して、市丸のそれと絡め合わせた。

「んっ……ふぅ……ぅん」

どうやってすれば気持ち良いかは身体が覚えている。

目を瞑って映るのはあの時、とても好きだった彼のこと。

だけどこの舌の主は彼じゃない。

イヅルは記憶の中の彼の動きを思い出しながら、こんな風に器用に動きはしなかったな、と思った。

多分市丸は手慣れてる。

だからきっとこれもお遊びで、自分は簡単に落とせると思われた一時の玩具に過ぎないのだろう。

「はぁっ……んっ……っ」

たっぷり唾液を移されて、それを甘く飲み干しながら、イヅルは深い口付けに酔う。

蕩けるように幸せだと、痺れた頭の端で感じながら、ゆっくりと解けていく腕に名残惜しさの息を吐いた。

「上手やね」

くすくす笑いの感想に、イヅルは苦笑で応えながら、けれど市丸の顔が笑っていないことに気付いて首を傾げる。

「市丸……先生?」

呼びかけると、手首を掴まれて布団に押し倒された。

「先生なんて呼ばんといて。市丸さんて呼んでやイヅル」

「市丸さん……どうしたんですか?」

何でか市丸が不機嫌そうで、イヅルは眉を寄せる。

「イヅル、抱かして」

「!?」

イヅルはそこで初めて自分が襲われているのだという自覚に至り、怖いと思った。

自分よりも力の強い、自分よりも年上の男に覆い被されている事実に、やっと恐怖を自覚する。

「い、いやっ!!!」

初めて抵抗を見せたイヅルに、市丸は力でそれを抑えつけてきた。

掴まれた手首は、どんなに渾身の力を込めて動かそうとしてもびくともしない。

身を捩って俯せるように頬を布団に押し当てて、上体で擦り上がろうと藻掻くが、それも膝の力で押さえ込まれた。

「いやだっ、離してっ!!!」

叫ぶと痛いほど掴まれていた手首を離され、代わりに背中から押さえ込むように抱き締められる。

「イヅル」

呼ぶ声は優しいがイヅルを捕まえる腕の力は緩まない。

イヅルは勝手に震えてきた身体を出来るだけ縮こまらせながら、気付いたら涙を流していた。



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