リードと首輪と甘い罠








「辞めて……辞めて下さ、い」

イヅルは泣いた所為で締め付けられたような喉から言葉を絞り出す。

けれど市丸はイヅルを抱き締めたまま、それ以上動こうとはしなかった。

抱き締められた背中から市丸の体温が移ってくる。

そうして暫く抱き合っていると、いつの間にか涙は止まって、イヅルも幾らか冷静になってきた。

「どうして……僕を?」

小声で訊ねると、背中の市丸が少し身動ぐ。

しかし何も答えずに、イヅルの腰を抱き締め直した。

そしてまた少し間をあけて、イヅルは再び訊ねる。

「市丸先生?」

今度は背中越しに、小さな「ごめん」の声が聞こえてきた。

どうなっているのかイヅルは訳が分からなくて混乱する。

市丸に会ったのは四日前。

担任の教師として知る前に偶々バイト先で会った時は、思わず嫌われたと思ったのに昨日は放課後にキスされた。

自分の担当の生徒だと言うことも分かっていたはずなのに。

そして今夜、突然鍵をなくしたから泊めて欲しいなんて、まるで言い訳みたいにやって来て。

好き、もなくいきなり、抱かせて欲しい、なんて
―――――

「市丸先生」

動かない市丸にイヅルは首だけ振り返って呼ぶ。

ゆっくりと市丸の顔が上がった。

影になった表情はよく見えなかったが、笑ってはいない。

悲しそうな、辛そうな、何かを耐えるような複雑な表情に見えて、イヅルは眉を寄せた。

「市丸先生?」

「ごめんな、イヅル君」

あ、とイヅルは市丸が自分を再び”君”付けで呼んだことに驚く。

「気の迷いや。ご免。忘れて。ボク出て行くし」

「え?」

ゆらりと立ち上がった市丸を、思わずイヅルは掴んで引き留めた。

「何……言ってるんですか。もう12時過ぎてるし、服洗濯しちゃったし、鍵、なくして家帰れないんでしょう?」

市丸は顔を顰めて俯く。

「僕なら平気です。こんな事くらいで追い出したりしません。今日はここに泊まって下さい」

市丸は辛そうに顔を歪め、しかしイヅルに引かれるまま布団に足を折った。

片膝を立てたままの格好で、思い悩むように前髪を掻き上げて吐息する。

イヅルは何と言っていいのか分からずに、けれど市丸をこの部屋から出してはいけないことだけは分かった。

「あの……どうかされたんですか?」

そっと、足先に触れて訊ねる。

市丸はイヅルを見ないまま、しかし「ご免」と再び謝った。

「ご免な。イヅル君は、ボクのこと知らんのやもんな。なんやボクだけ焦って……アホみたいに……ご免」

「え?」

イヅルは市丸を見つめたまま訊き返す。

「知らないって……市丸先生は僕のこと、ご存じなんですか?」

市丸の口角が上がる。

嫌な笑いを刻んで顔を上げた市丸は、イヅルを向いて溜息を吐いた。

「知っとるよ。でも一方的にや。しかも小さい頃のイヅル君しか知らん。二日前名簿の名前と顔が一致して初めて気ぃ付いた。せやからコンビニで会ぅた時は君が誰かは知らんかった」

「小さい頃?」

疑問を上らせたイヅルに、市丸は緩く笑う。

「そうや。君はまだ小学生やった。偶々従兄弟の家で見掛けてな。君はボクの従兄弟と……修兵とキスしてた」

―――――っ!?」

イヅルは声もなく驚愕に目を見開いた。

修兵、はまさしくイヅルが小学生の頃、唯一の心の支えと恋していた人。

顔がから血の気が引くのが分かった。

喉が干上がって何も言葉が紡げない。

身体が勝手に震えて、嫌な汗が背を伝う。

「衝撃的やった所為かな。忘れられんかったんよ。でも君と知り合う切っ掛けにはならんくて、すぐに引っ越したて聞いた。子供にな……何考えとんのやろって思うくらい一目惚れしてな。けどもう会うこともない思てたら昨日や。おんなし名前の子ぉがおるなて思てたら、コンビニで可愛いなて思てた子ぉで」

こんな偶然があるのかと、イヅルは開いた口が塞がらない。

修兵さんの従兄弟が担任教師なんて……。

ましてやイヅルの小さい頃のことを知っていて、しかも絶対秘密であった二人の関係を知っていた。

その上一目惚れって……。

イヅルはパジャマの胸元を掴んで眉を寄せる。

「何で告白からじゃないんですか」

惚れていたというのならまず順番的にそうだろう。

何でいきなり抱かせてなんだ、とイヅルは唇を尖らせた。

市丸はイヅルを振り返ると「せやから勢いでつい押し倒してもてんやんか」と言い訳する。

「何ですか、それ」

大人のクセに”つい”とか”勢い”とか。

「せめてちゃんと段階踏んで、告白してからにして下さいよ」

すると市丸はイヅルを向き直り、「好きや」と言った。

「なっ……」

イヅルは二の句が継げない。

そんな適当な告白があって良いものだろうか。

それともからかわれているんだろうか。

判断に迷ってイヅルは市丸の顔をまじまじと見つめた。

「やってボク、イヅル君のことよう知らんし。小学生であれだけ積極的やってんから、相当遊んでるンかなって思うやん」

イヅルは勝手に赤くなって行く頬を恨みながら、市丸を睨み付ける。

「そんな訳ないでしょうっ!」

「昨日キスして逃げられたから、そうでもないんかなって思とったら。さっきキスした時えらい積極的やったから、やっぱりそうなんかなって思てしもたんやんか」

「あ、あれはっ……っ」

言い返そうとして言葉に詰まる。

何とも言い訳の出来ない衝動に駆られたのはイヅルも同じだ。

「つい……」

俯くと向かいの市丸が「ともかく」と言うのが聞こえた。

「ボクはイヅル君が好きやねんけど……イヅル君はどうなん?ボクのことどう思てンの?」

「ええ!?」

そんな済し崩しな告白って……しかも妙に強気だし、何ナノコノ人……。

イヅルは眉を顰めて溜息を吐いた。

「変な教師だと思ってます」

「なっ……何やそれ。それが返事なん!?」

市丸は案の定、有り得ないという表情でイヅルを見つめる。

「だって本当にそうじゃないですか。いきなり人のこと黒い性格とか腹黒とか言うし、自炊しないでコンビニ弁当ばっかり食べてるし、生徒の前でエロ本立ち読みするし、学校で居眠りしてるし、好き嫌い多いし、いきなりキスするし、告白もなしで押し倒すし、そんなの変な教師と思う以外になんて思えば良いんですかっ」

なんか全部言ったらスッキリした。

市丸がちっとも教師らしくない所為で、イヅルの口も軽くなっている。

市丸は呆気にとられてイヅルを見つめていたが、「そらぁ……そうやなぁ」と納得してしまう。

二人顔を見合わせると、どちらからともなく勝手に笑いが込み上げてきた。

「ぷ……っはははははははは」

「はははははははははは」

こんな馬鹿な話しってない。

おかし過ぎて笑うしかない。

なんじゃそりゃっていう出会いに、なんじゃそりゃっていう告白。

全然格好良くないし、全然素敵でもなんでもない。

ドラマみたいに憧れる再会シチュエーションなはずなのに、エロ本とか居眠りの所為で全然格好つかない。

目尻に涙さえ浮かべて笑うイヅルは、しかし心に返事を決めていた。

まさかあんな小さい時から自分を気に掛けてくれていた人が居たなんて。

しかも相手はこんな変態教師で。

大人なんだか子供何だかさっぱり分からないこんな困った人。

付き合おうなんて思う方が絶対おかしい。

恋人になんてしたら、絶対振り回されて大変な想いをするに決まっている。

まぁ、外見は格好良いと思うけど。

イヅルは涙を拭って笑いを収めると、市丸に向き直って言った。

「付き合いますよ。僕なんかで良いンなら」

だって僕だって市丸先生のことを言えない。

小学生のクセに高校生の男に恋して、告白する前にキスしたりナニしたりしてた変態なんだから。

丁度お似合いじゃないか、とイヅルは笑った。

市丸はイヅルの告白に面食らった顔をしていたが、やっと承諾したのだと理解したらしい時には同時に再び押し倒されていた。

「ちょっ……っ」

イヅルが焦って顔を上げると、蕩けるように幸せそうな市丸の顔が「好きや」と囁く。

勝手に頬が熱くなって、目線を逸らしたイヅルは、「どうも」と言った。

「なんやそれ。イヅルは好きて言ってくれへんの?」

苦笑いの問いかけに、イヅルはけれど上手く答えられない。

「だって……」

好きかどうかと問われたら、まだよく分からないのが本音。

出会ってまだ四日。

しかも初日と二日目は嫌われていると思っていたし、三日目は突然のキスに混乱させられて、今日も今日で色々あったし。

大きな手が前髪を掻き上げた。

目線を上げると市丸と目が合う。

「好きやで」

微笑まれるとどうしようもなく嬉しくて、イヅルは仕方なし「僕も……好きです」と囁いた。

唇が重なる。

だってしょうがないじゃないか。

好きかどうかはともかく、この心地よい体温も、感触も、どれももう手放せないくらい染み込んでる。

よく考えたら一人暮らしをするようになって、部屋に誰かを泊めたのは市丸が初めてだった。

それまで溜まり場的に部屋を催促されたことはあったが、イヅルは頑として拒否した。

一度でも誰かと一緒に、しかも二人きりで過ごしてしまったら、もう一人で眠るのが嫌になってしまいそうで。

弱い自分を知っていたから、決して誰も受け入れなかった。

「ん……はぁ……っぅ」

なのに市丸は鍵をなくしたなんて、そんな事を言うから追い返せなくなってしまった。

嘘かも知れないとは思ったけれど、拒絶する言葉も思い付かなくて。

舌を解くと、近くで赤い瞳が笑う。

「鍵なくしたって嘘ですよね?」

イヅルが問うと、市丸はふふふと笑って「嘘」と言った。

全く、質の悪い詐欺師に捕まってしまったものだ。

けれど二人きりで過ごす部屋は、まるで恋人……本当の家族みたいで、とても温かいから良い。

イヅルは市丸を睨み付けると、「嘘の責任は取って下さいね」と言った。

「責任?」

「そうです。僕の……家族になって下さい」

そうして決して捨てないで。

一人にしないで下さい。

暗に祈りを込めたイヅルに、市丸は笑って「ええよ」と答えた。

それがどこまで本当かは分からないけれど。

それをいつまで本当にしてくれるかは分からないけれど。

今は幸せに浸ろう。

イヅルは市丸の背に腕を回し、より深くと舌を絡める。

深いキスはやはり気持ち良い。

身体は勿論、心も解けて本当に一つになったみたいになる。

一瞬の夢想に浸って、至福の安堵を貪る。

一人じゃないと嘯いて、夢が覚めないことを祈る。

「好き」

それはまだ”ここにいて”と同じ意味だけれど。

「好きやで」

貴方が喜んでくれるならそれで良い。






素肌に市丸の体温を感じながら、イヅルは刹那を幸せと、深く身体に刻み付けた。



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あんまり市丸さんが格好良くなくてごめんなさい。
まだ続きます。。。