リードと首輪と甘い罠








市丸が何だかおかしい、と気付いたのは日曜を明日に控えた土曜のこと。

朝、出勤の時間になっても布団にくるまって出てこない市丸に、「遅刻する気ですか」とイヅルは目くじらを立てた。

「んー……頭痛い」

「え?」

風邪でも引いたのかと慌てて体温計を差し出し、額を掌で触れたイヅルに、市丸は「熱はないよ」と言う。

確かに額は熱くなかった。

「昨日も別にお酒を飲まれていた訳ではないし……何か心当たりがあるんですか?」

訊ねれば、「分からん。でもシンドイ」と顔を毛布に埋める。

「病院行ってきた方が良いんじゃないですか?」

イヅルは時計を気にしながら言ったが、市丸は「イヅルは学校行ってええよ」と言っただけで顔を出さない。

「はぁ」

イヅルは迷って、しかし病人を一人家に置いて出掛ける気にはなれず、学校に風邪で休むと自分の分の連絡を入れた。

「えっと……僕が連絡入れるとちょっと問題があるので……あの、市丸さんの分の連絡は自分で入れられますか?」

市丸は返事をしない。

掛け布団に埋もれたままの顔が心配になって、イヅルはそっと端を捲り上げる。

すると市丸はイヅルから顔を逸らすように背を向けて寝返りを打った。

おかしい……。

イヅルは一組しかない布団の隣にぺったりと座り込んで途方に暮れる。

何か怒っているようにも受け取れる市丸の態度に、イヅルは昨日までのことを振り返っていた。

いつもの小さな小競り合いは幾つもあったが、特に大きな喧嘩をしたことはなく、喧嘩にもならなかった懸念があるとすれば明日の恋次との映画くらい。

それについては市丸がイヅルを強引なやり方で抱きだしたので、中途半端なまま終わっていた。

しかし具合が悪いと言っている相手にそんな話題を掘り返す訳にも行かなくて、イヅルはただ黙ってそこに坐り続ける。

学校は休んでしまったが、イヅルにすることはなかった。

こんな時、自分は思いの外気の利かない奴なんじゃないかと思えて悲しくなる。

偶に他人が自分に対して思いもかけない台詞や行動で労いをかけてくれるのに、イヅルはひどく羨望を覚えた。

そんな風に、思い謀った言動ではなく、スマートに、感情の儘に人に優しく出来る人というのは素晴らしい。

そう言う点では市丸などは逸品といったところだろう。

自分の心の儘に行動すること以外を良しとしない市丸は、イヅルに対して掛けてくれる優しさや労い、思いやりの心は全て本心、嘘偽りないストレートな感情。

そんな風に真っ当で優しい市丸を認めるのは、イヅルにとって自分を貶めること以外のなにものでもなく思えて、辛い作業でもあった。

その所為で市丸を卑下してしまう。

まったく自分は心根の醜く、腐った卑しい人間だ、とイヅルは落ち込んだ。

そんな風に自分を貶めていることさえ、まるで誰かへの言い訳のように思えて嫌になる。

自分一人の思考に没頭していると、いつの間に寝返りを打ったのか、市丸はイヅルをふり返って見つめていた。

「何考えてるン?」

市丸に問われて、イヅルは瞬間なにを答えたものかと迷った。

「えっと……」

口籠もると温かな手が伸ばされ、イヅルの手に重なる。

「心配せんでええよ」

微笑まれて、イヅルはギクリと嫌な汗を掻いた。

市丸の心配などそっちのけで自分のことばかり考えていた。

なんて冷たい人間なんだろう。

情けなくて申し訳なくて、イヅルは市丸を見ていられなくなって俯いた。

「ごめんなさい」

こんなところで謝っても市丸には何のことか分からないだろうし、余計混乱させて困らせるだけだと分かっていたが、つい自分の贖罪の為にそれを紡ぐ。

この謝罪に意味はなかった。

むしろ自分の為にそれを口にした分、罪は深くなった気がする。

「ごめんなさい」

それでも言葉を止められなくて、イヅルは抱え込んだ膝に身を縮めて再び謝った。

市丸が心配して気遣ってくれるのを見越してそうしているのかと自問すれば、余計に心苦しい。

しかし市丸はくす、と鼻で笑って言った。

「イヅルはほんまに恐がりなんやなぁ」

「え?」

どういう繋がりでその台詞を言われたのかが分からない。

困惑に市丸を見つめたイヅルは、自分の手に重なった市丸の手が、甲をそっと撫でてくれているのに気付く。

「そない人に嫌な奴やて、嫌われたり疎まれたりするんがしんどい?」

イヅルは言葉を失う。

そうと言えばそうだが、市丸の言っている意味は別の所にある気がする。

「イヅルはどうして…………ちゃうな。”誰に”良い子やって褒めて貰いたいんや」

誰に、を強調させて言った市丸に、イヅルの脳裏に過ぎったのは沢山の他人達。

イヅルを経済的に、社会的に守って支えてくれた人達。

恩ある他人。

イヅルが感謝しなければならない人。

市丸の手がイヅルの頬に伸びる。

「きっとイヅルは誰に褒められたかて満足せんよ。イヅルがアカン子やって、悪い奴やて思ってるんは、イヅル自身なんやから、誰が褒めてくれたかて、イヅルはええ子になんてなられへん」

「それは……っ」

鋭い人だ、とイヅルは唇を噛んで俯いた。

こんな所ばかり、ちゃんと大人なんだとイヅルはほぞを噛む。

自分はまるで小さな子供で、本当は駄々を捏ねているだけ。

答えのない問いに埋没することで、なんとか自分を支えているだけの、手酷い依存症。

一旦誰かを”味方”だと、”仲間”だと、認識してしまったら最後、裏切りには耐えられないほど弱い自我の持ち主。

だから誰をも否定する。

だから自分を律している振りをして、それを己の中の己を否定する何かに見せることで初めて自分を受け入れられる。

「分かってはいるんです」

イヅルは苦しげに呟く。

「僕が酷く弱くて、自分の為に、物凄く否定的になっているんだって事は、分かっているんです。弱いから。でも弱いことを理由にそれを肯定しているだけの言い訳だって言うことも分かっているんです。だけどもう、僕には、どうして良いのか分からなくて。僕ではもうどうにも出来ないところまで来ているのかも知れません」

救いようのない馬鹿だ、とイヅルは自分のことを評価する。

けれど市丸はこの気持ちを何となく分かってくれいるような素振りがあるからいけない。

分かって貰えるのではないか、救って貰えるのではないかと、甘くて愚かな自分が期待を掛けようとする。

それが弱さだと分かっているのに、自分の本心は理性で言い聞かせなければ、こんなにもきかん坊の我侭なのだ。

懺悔のように項垂れて、イヅルは市丸の前に座り込む。

市丸は溜息を吐いて、イヅルを抱き寄せて布団に引きずり込むと、頭を抱えって言った。

「面倒くさい子ぉやな。イヅルはほんまに」

「そうですね。申し訳ありません」

悄然と答えたイヅルに、市丸の腕の力が強まる。

「謝らンで良いから泣きなさい」

「え?」

驚いて見上げようとした首は強い力で抱き込まれている所為で動かせなかった。

温かな布団と、抱き締めてくれる温かい腕。

心音さえ聞こえてくる密着度に、イヅルは知らず赤面する。

ひどく居心地が悪い。

けれど逃げられない。

不慣れな他人の体温の近さに、イヅルはふとこんな風に人に抱き締められたのは何年ぶりだろうと思った。

両親を亡くして、新しい家族がどんどん出来て、そして離れて。

新しい友達も沢山出来て、でもまたすぐ離れて。

その誰もにこんな風に抱き締められたり、あんな風に喧嘩をしたりした覚えがなくて。

今更自分がひどく寂しい人生を送ってきたんじゃないかと思い至る。

満たされている。

支えられている。

幸せだ。

感謝しなくちゃならないと思ってきた裏側は、いつまでも満たされない何かに絶望していた。

それは自分が我侭だから。

それは自分が欲張りだからいけないのだと戒める。

けれど戒めきれない心の隙間が、寂しいと、悲しいと訴える。

そう思うのは自分が弱いからで、それは悪いことだと否定してきた。

誰も求めずに、偽りで笑う姿が本当になるまで、強く、強く、一人で立てるほど強く、大人にならなければいけないのだと思い決めてきた。

それなのに
―――――

「なんで……」

イヅルは涙が溢れるのを感じる。

馬鹿みたいだと思った。

泣きなさいと言われただけで泣くだなんて、おかしすぎる。

「……っぅ」

それなのに涙は止まらない

寂しかった。

悲しかった。

誰も自分なんか分かってくれないんだと。

受け入れて貰える事なんて、理解して貰える事なんてないないと思ってきたのに。

「どうして?」

そんな風に期待させることばかり言うんですか?

イヅルは市丸の胸に縋る。

市丸はそう言う意味で言ってくれた訳ではないかも知れない。

イヅルの気持ちなんか本当は分かってくれいないかも知れない。

それでも泣いて良いよじゃなくて、泣きなさいと言った。

それが正しいのだと。

市丸の手が背を撫でる。

イヅルをスッポリ包み込んでしまうくらい、大人の大きな身体。

「イヅルはよう頑張ってるよ。ええ子や。許してあげ。泣いたって失敗したって、間違ったことしたってええ。一緒に成長したらええ。一緒に勉強したらええ。イヅルのこと教えてくれたらちゃんと覚えるよ。ボクのことも少しずつ分かっていったらそれでええ。人のことばっかし考えてやらんと、自分が何が好きなんか、ほんまに好きなんは何か、ちゃんと見付けていき」

イヅルはまだ子供なんやから。

そう囁かれて、子供相手にあれだけ手を出したクセに何を今更と泣きながら苦笑する。

「イヅルはいっつも嘘吐きや。初めて修兵ン家で会った時も、嘘吐きの顔やった。ホンマのことは話してへん顔。そのくせ幸せそうやない。自分の為やなくて誰かの為に嘘吐いてるんやってすぐ分かった。ほんまは修兵のこと好きやったんやないの?」

問われてもイヅルには答えることが出来なかった。

「恋人になりとぉて、せやけど我侭言えんくて、遠慮してあない子供っぽう振る舞っとったんやないの?バイト先でも学校でも、素直で優しいて優秀なイヅルでいて欲しいて誰かに望まれるから、死にそうな顔して嘘吐くんやないの。せやけどそないことして貰っても、ボクは嬉しないよ。今のままのイヅルでええ。怒ったり泣いたり、面倒くさいイヅルんこと好きになったんやから、それでええよ」

「……っ」

ひどい殺し文句だと思いながら、イヅルは市丸の胸で泣く。

今日の市丸はとても饒舌だ。

最近よく考えたら市丸は口数がどんど減ってきていた。

何となくそれを感じていたイヅルは、やっぱり自分一緒にいるのは市丸にとって幸せではないのじゃないかと考えていた。

それを言えば市丸は否定したかも知れないが、そんな事は分かり切っていたので訊くつもりはなかった。

ただ、市丸を想うなら尚のこと、早くに別れを切り出してやった方が良いのじゃないかと、そう思っていた。

「ごめんなさい」

色々と。

謝ってイヅルは、自分から市丸に口付ける。

多分市丸と出会えたことがイヅルにとって一番の幸せだったのだろう。

こんな面倒くさい自分を知ってなお求めてくれる人など彼の他にはいる訳がない。

市丸の顔を覗き込めば、青い顔が苦笑した。

「…………何やほんまに頭痛くなってきた」

「え!?」

そう言えば市丸は頭が痛いと寝ていたのだからこんなことをしている場合ではなかったかも知れない。

慌てて飛び起きたイヅルは「ど、どうしましょう。病院行きますか?あ、その前に学校に連絡入れないとっ」と携帯を手にする。

市丸の休みの連絡をイヅルが入れるのはおかしい。

おかしいが……今はそんな事を言っている場合ではない。

腹を決めて学校の番号に電話したイヅルは、受話器口に出た用務員のおじさんに話そうと口を開いた瞬間、携帯電話を横から奪われた。

「あ、もしもし市丸です」

結局市丸が自分で連絡を入れ、二人揃ってお休みと言うことになる。

土日も必ず長時間でバイトを入れるイヅルは、何気に市丸と揃って一日お休みというのはこれが初めてだった。

「えっと……病院、行きますか?」

電話を切った市丸にイヅルは下がり眉で訊ねる。

「ええよ。ただの知恵熱やろ。ここんとこややこし事ばっかし考えとったから、あんまし寝てへんかっひゃはら」

大欠伸で語尾が崩れる。

「それって……僕の所為ですか?」

もしかしなくてもそうだろうな、とイヅルが訊ねると、市丸は「やってイヅル、今にも別れて下さい言い出しそうなナーバスさやってんもん」と言った。

「何気にお見通しだったんですね……なんか腹立ちます」

唇を尖らせると、市丸はキョトンとした顔になって、次の瞬間吹き出した。

「なんや急に素直になって。イヅルはかわぇえなぁ」

未だ布団の中の市丸は、イヅルを再び引き寄せる。

「二度寝するんですか?」

それなら洗濯物でもしてしまおうと思って訊いたイヅルに、市丸は「いや、イヅルと寝たい」といやらしい笑いを浮かべる。

「頭痛いんじゃなかったんですか?」

ちょっと怒った風を装って訊いたが、市丸は嬉しそうに笑っただけ。

「イヅルがボクから離れへんて分かったら治った」

そうして本格的に布団の中に引き入れて、押さえ込むように覆い被さってきた。

「もぅ。結局こうなるんですか」

仕方ない人だな、と溜息を吐いて見せたイヅルに、市丸は「嫌やないくせに」と笑う。

確かに、とイヅルは苦笑する。

嫌じゃないどころか、こうして抱き締められるのが嬉しくて仕方ない。

市丸さんには敵わない。

そう認めてしまえば、楽に息が出来る。

「好きですよ」

囁いたイヅルに、市丸は嬉しそうに「ボクも好き」と唇を合わせてきた。

「っ……ん、でも、離した……ら、んっ」

「なに?」

口付けの合間の言葉に、市丸が首を傾げる。

「離したらもうボク全部市丸さんの所為にして死にますからね」

立ち直れるほど強くないこと知ってて言うなら、我侭を言わせて欲しい。

自分でも無茶を言っていることは承知の瞳が、怯えたように市丸を見つめる。

「ええよ。ほんなら死ぬまで、イヅルはボクのモンやね」

軽口のような誓いはけれど、一生を約束した重いもの。

市丸はきっと分かって、それでも言っている。

だからイヅルは勝手に溢れた涙を無視して、無理矢理深く口付けた。

貴方に一生付いていきます。

掴む者のないイヅルの運命のリードを手にした恋人に、所有の牙を立てるよう噛み付いて。

イヅルは見えない尻尾を振るように、嬉しそうに市丸に笑いかけた。



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く……苦しいっ!!
苦しいよマサルさんっ!!!いやマサルさんて誰!?
いや。そうじゃなくて、そうじゃなくてぇぇぇぇえええええええ
誰だこんなタイトル考えた奴っ!!!私だっ!!!
私の馬鹿ぁあああああああっ!!!!!

…………無念。

続くかも知れませんが、糖分を補給してきます。