偶然のベクトル
平日の空港は人影も少なく、どこか閑散として寂しい雰囲気を醸し出していた。
国際線の離着陸もあるそこではトランクを引いて歩く者が殆どで、少女と老女の二人連れもまた重そうなトランクを引きずって歩いていた。
「もし」
老女が身軽な出で立ちでロビーに立った男に声を掛けた。
「もし、ちょっと道をお尋ねしたいのですが」
男は振り返ると、糸目を笑みの色に変えて「ボクで分かる場所やろか」と柔らかく頷く。
少女と老女は遠い親戚の家へと向かう途中だと言った。
「おじさんはどこに行くの?」
少女は電車のホームまで案内してくれた親切な男に尋ねる。
ほんのの頬を染めて、手にした人形に顔かを隠すように男を見上げる少女に、「ボクは」男は言いかけた言葉を途中で切った。
「旅行中かな」
不意に苦く視線を外した男に、少女は首を傾げる。
心の機微を推し量るにはまだ幼過ぎた少女の代わりに、老女が柔らかく言う。
「良い旅になると良いですね」
「どうも」
男は老女に向かって微笑み、少女はそれがお気に召さなかったらしく膨れる。
そして肩から提げていたビンクのショルダーを開くと折り紙を取り出し、可愛らしい口を開いて男に言った。
「ねぇ、鶴折れる?」
唐突な申し出に、男はちょっと面食らったが、「鶴やったら折れる……かなぁ」と曖昧な返事。
「折って」
少女はそう言ったが、男が折り紙を受け取ろうとすると、紙を持ち上げて逃げた。
「これは駄目。最後の一枚だもん」
理不尽な、と男は苦笑いしたが、老女が「鶴ならお祖母ちゃんが折ってあげるから」と言うのに、「ええですよ」と笑いながら背広の内ポケットから手帳を取り出す。
ぱらぱらと捲って白紙を破った男は、正方形に折りながら、「まず三角にするやろ」と少女に示した。
男の後を追って鶴を折った少女は、その出来映えを見比べて眉を寄せる。
「おじさんの方のが綺麗」
苦笑した男は、「いっぱい練習したら綺麗に折れるよ」と少女に言った。
そしてやってきた電車に気付くと、二人は仲良く手を繋ぎ立ち上がる。
「本当にありがとう御座いました」
老女が頭を下げるのに、「や、ボクもこの後の電車ですから」男は笑って、二人は電車へと乗り込んでいった。
「おじさん、ばいばーい」
手を振る少女の片手には男が折った綺麗な方の鶴が握られて、男の手元には少女が折った多少歪んだ鶴が残される。
手を振り返した男は、再びホームの椅子に腰を下ろすと、腕時計を見て肩を竦めた。
「どないしょかな」
男は行く宛などない旅の途中だった。
男の名は市丸ギン。
世界を股に掛ける商社マンであり、現在の住所はロサンゼルス。
しかし以前はこの街に住んでいた。
「どれくらいぶりやろう」
市丸は呟いて金網越しの景色を眺める。
この街を離れる時、市丸には捨てていった恋人がいた。
本当は連れて行くつもりで買ったマンションも、今ではすっかり独り者の乱雑な部屋となっている。
「それもこれもイヅルの所為や」
呟いて、未だ忘れられずにいる自分に苦笑する。
イヅルは当時、まだ学生で、市丸は社会人三年目という青二才。
務めていた会社を辞めて、心機一転、海外を拠点とする現在の会社に転職した矢先の話しだった。
それまで一年と半年ほど同棲していた恋人が、ついて行けないと言ったのだ。
「なんでや?」
市丸は食い下がったが、イヅルは最後まで首を縦に振らなかった。
「先の見えない話しについて行ける自信がない」
イヅルはそう言ったが、今となっては彼がここに残ってやりたいことがあったことを市丸も知っている。
けれどあの時はまだ若くて、絶対に自分についてくるものと思っていたイヅルが否を言うので、市丸も切れてしまったのだ。
「そんなんや付き合ってられへん」
そう言ったのは市丸だった。
「分かりました。別れましょう」
イヅルは俯いたまま言った。
そうして感情的になったまま、市丸は日本を離れ、イヅルとは以来一切連絡も取らぬまま今日まで時が過ぎていった。
市丸が日本に足を踏み入れたのも、あの時以来。
イヅルのことを忘れる為に、毎日毎日これでもかと仕事に打ち込んできた甲斐あって、今ではかなりな重要スポットに就いている。
それでも心は相変わらず、失くしてしまった恋人の穴を埋める為に、多くの女や、時には男と関係を持ったりもしたのだが、未だ独り身。イヅルの代わりになれる者などいなかった。
しかしそれも何年も前の話しだ。
イヅルがこの街にいる可能性すら薄く、増して自分を覚えているとは思えない。
市丸は別にここに、イヅルに会いに来た訳ではない。
仕事のついでもあって日本に来たのに、昔を懐かしんでみようと言う気になっただけだ。
電車がホームに滑り込む。
それを目で追いながら、市丸は足を動かせないでいた。
イヅルと二人、住んでいた懐かしい街に行けば、一緒に生活した名残が目に付く。
それを追って、自分が今までの人生を後悔しない自信がなかった。
しかし全てを後悔するには、あまりに時を過ごしすぎていた。
今更引き返せる訳もなく、取り返せる訳もない。
市丸は結局、電車に乗ることなくホームを出て、予約していたホテルへと足を向けた。
***********
ルームサービスでカレーを頼んだ市丸は、明後日の会議で使う書類をチェックしながら夕食を取っていた。
何だか外に出るのが億劫で、ホテルに戻ってからはテレビを見たり本を読んだりと、部屋の中で自堕落に過ごす。
その電話が鳴ったのは、夜の8時を過ぎる頃だった。
知らないナンバーからの着信に、携帯電話を取った市丸は首を傾げながら出る。
「もしもし?」
「あ、もしもし。すみません、えっと、僕、あの、鞄を拾った者なんですが……」
電話はピンクのショルダーバックを拾ったという男からのものだった。
「それで、えーと、中に折り鶴になってたメモ用紙があって、そこにこのナンバーがあったのでかけさせて頂いたんですが」
市丸はうーんと、眉を寄せる。
思い出されるのはあの鶴の少女。
ピンクのショルダーは十中八九彼女の物なのだろうが、市丸は彼女の名も知らない。
「他に手掛かりになるようなモンはなかったんですか?」
「ええそれが……でもミュージカルのチケットが入ってて。これ確か人気のやつだから失くしたら買い直すのは難しいだろうと思って」
律儀な奴やなぁ、と市丸は思ったが、何とか出来るものなら何とかしてやりたい気持ちは同じだった。
「落とし主の女の子の顔は覚えとんのやけど、確か光が丘に親戚の家があるて、そこ行く言うてた思うんやけど」
「そうですか…………」
電話の主は沈んだ声で思案する。
市丸は頭を掻いて、これも何かの縁かなと心を決めて申し出た。
「ボクもその子探すん手伝いましょか?」
「え?」
電話の主は驚いて、しかし「良いんですか?」と訊ねる。
自分が探さなければならない義務がある訳でもないのに、すまなそうな男の声に市丸は苦笑する。
「ええですよ。明日は暇ですから」
「ありがとうございます」
携帯を切った市丸は、電話の主の名前も、自分の名前も言わなかったことを思いだした。
しまったなぁ、と思ったが、携帯ナンバーは互いに分かっているのだ。
待ち合わせの時間も場所も確認しているし、何とかなるだろうと思い直す。
背広を引き寄せ、内ポケット探った市丸は手帳を取り出す。
ぱらぱらと捲って破れたページを確認すると、自分の携帯ナンバーなど書いたかなと首を傾げた。
白紙であることを確認してから破いたはずであったのだが。
折っている間にも気付かなかったのだから、余程小さく走り書きでもしたのかも知れない。
ともかく退屈な明日の予定は埋まった訳だ。
警察に預けて知らぬ顔で済まさなかった律儀な拾い主とは、一体どんな男だろうと多少なり楽しみであったのもする。
頭の後ろのに腕を組んで寝転がった市丸は、深く息を吐いて目を閉じた。
シャワーは明日の朝入ればいい。
スーツもどうせクリーニングに出すのだから、多少皺が寄っていようと関係ない。
それよりも昼間の折り鶴の少女と律儀な拾い主のことを考えて、優しい眠りに就く方が何倍も大切だ。
余計なことを考えて眠れなくなるよりは。
静かな夢へと引き込まれながら、市丸は微かに過ぎる金髪の影を、気付かぬ振りで眠りに就いた。
*************
待ち合わせ場所には五分遅れで着いた。
携帯のバイブがやかましく鳴っている。
通話ボタンを押した市丸は、待ち人に開口一番謝った。
「すんません、電車が延着してもて」
しかし電話口に出た相手も「すみません、電車が遅れてしまって」と同じ台詞を言う。
「「え?」」
吹き出したのは二人一緒で、「今どこですか?」と電話口の声は言った。
「今やっと待ち合わせ場所に着いたとこですわ」
「すみません。僕まだ向かっている途中で。一つ先の踏切で信号待ちしてるんです。すぐ行きますから」
慌てた様子の声の主に、「あ、ほなボクも向かいますよって。先どこか飯喰ってから行きましょう」市丸は携帯片手に歩き出した。
その踏切はなかなか上がらないので有名なのである。
しかも喫茶店やレストランなどの食堂街は駅よりも踏切の向こう側に多い。
どうせ戻るのならと通話状態のまま市丸は向かった。
「あ、ボク紺のスーツに赤っぽいネクタイで背ぇが185でぇ」
「わぁ、背、高いんですね」
電話口の男は驚いた声を出す。
「僕、173pですよ。ベージュのジャケットにオレンジのニットで」
そう言っている間に市丸は踏切前に着いた。
どれ、と対岸を見ようとした瞬間、目に飛び込んできた金髪。
まさか、と思う間もなく、電車が視界を塞いだ。
数人の通行人の中に、確かに金髪の男がいた。
白っぽい服装で、こちらを向いて立っていた姿は記憶の中の元恋人によく似ていた。
そんな馬鹿なと思っても、心臓は高鳴る。
繋がったままの携帯電話は何か言っていたのかも知れないが、電車の轟音と早鐘の心音で何も聞こえない。
高い音を残して、電車が過ぎていった。
携帯を耳に押し当てたまま、市丸は対岸の男を見つめる。
金髪碧眼、ベージュのジャケットにオレンジのニット。
携帯電話を耳に押し当てた顔は、まさしく吉良イヅル、市丸の元恋人だった。
「うそ」
電話口から小さな呟きが零れた。
遮断機がゆっくりと上がって、道を塞がれていた通行人が歩き出す。
しかし市丸も、イヅルも、歩き出すことが出来なくて、互いを見つめ合ったまま立ち尽くしていた。
こんな偶然があるんか?
市丸は携帯電話を握りしめる手が震えていることに気付いた。
髪が少し伸びていた。
相変わらず青白いと言ってしまって良い肌の色は健在で、華奢な肩や肉好きの少ない腰回りも昔と一緒。
思い返せば柔らかな笑い方やはにかんだように喋る声も昔のままだ。
どうして気付かなかったのかと思う反面、気付いていたらここには来なかったかも知れないと思う。
「イヅル」
市丸が呟くと、対岸のイヅルがビクリと震えたのが分かった。
覚えていた。
覚えてくれていたっ!!
走り出した市丸に、けれどイヅルは一歩、後ろへと後退する。
しかし彼が振り返って逃げ出す前に、市丸はイヅルの腕を掴んで捕まえた。
「イヅルっ!!」
力一杯抱き締める。
しかしイヅルは何も言わない。
ただ市丸の腕の中、かたかたと小さく震えている。
「イヅル」
何年ぶりだろうというぬくもりに、市丸は胸が詰まる思いだった。
「イヅル、イヅル」
抱き締める外何も出来なくて、名を呼び続ける市丸に、イヅルは小さく口を開く。
「市丸……さん」
イヅルの手からぽとりと紙袋が落ちた。
中にはピンクのショルダーバック。
鶴の形に戻されたメモ用紙が、寄り添うように袋の中で横たわっている。
イヅルの呟きに抱き締める腕の力を強くした市丸のポケットから、かさりと赤い鈴蘭模様の折り鶴が落ちる。
ひらひらと、紙袋の中に舞い落ちたそれは、ピンクのショルダーバックの上に乗った。
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