偶然のベクトル
「は、離して下さいっ!!」
イヅルの叫びで正気に戻った市丸は慌てて腕を解く。
「ご、ご免、つい」
そうなのだ。
いくら偶然の再会で、イヅルが自分のことを覚えてくれていたとしても、二人の間にはもう何年もの空白が出来ている。
市丸が未だにイヅルのことを想っていようと、イヅルがそうであるとは限らないではないか。
いや、むしろ普通は過去のことになって、今は違う恋人と、いやもしかすれば既に結婚している可能性だってある。
イヅルももう学生ではない。
自分の好きなことをして、社会人として生活しているだろう。
俯いたイヅルに、再度詫びた市丸は、紙袋を拾い上げる。
当初の予定を思い出して、「えっと」と口籠もると、「ともかく移動しましょう」イヅルが踵を返して、市丸はそれについて行くように歩を進めた。
昔とは逆やなぁ。
市丸は相変わらず薄いイヅルの背中を眺めながら思う。
昔のイヅルは市丸の後ばかり付いて歩くような子だった。
年上である市丸に尊敬の眼差しを向け、常に立ててくれるような。
不意に歩を緩めたイヅルが振り返る。
「どこの店に入りますか?」
その顔は混乱と衝撃からか、赤らみ、瞳は少し潤んで、酷く愛らしいものだった。
「……っ、…………えっと」
市丸は言葉に詰まる。
そんな顔は反則だ。
焼けボックリに火だなんて、ただでさえ燻っている火だというのに。
「あの店でも良いですか?」
イヅルが指し示したのは小さな喫茶店で、昼時でも混んでいないようなひっそりした外観。
「ん。何でもええよ」
市丸が頷くと、イヅルは「じゃあ」と店の中に入っていった。
外観からはそれと分からない、落ち着いた雰囲気の良い店だった。
コーヒーの香りが店内に満ちていて、二人席が3.4セットと、後はカウンターだけという店内は、客も少なく、二人は窓際の奥の席に腰を落ち着ける。
軽食メニューだけのメニュー表を覗き込んで、それぞれパスタとサンドイッチを頼んだ。
ウェイトレスが去ると、しばし二人に沈黙が落ちる。
向かい合った顔をこっそりと盗み見た市丸は、少し大人びた表情に昔の面影を探す。
無駄に咳払いをして沈黙を破り、「元気やったか?」と話し出した。
「ええ、元気です。市丸さんこそ、いつこっちに戻って来られたんですか?」
「昨日やで。仕事で……一時滞在やけど」
「そうですか」
妙に渇く喉を水で湿らせ、「イヅルは今、何してるン?」一番に気になっていることを訊く。
イヅルは市丸と目線を合わせないまま机を見つめ、「保育士をしています」とだけ答えた。
「そか。夢が叶ったンやな」
市丸の言葉に、イヅルがピクリと反応する。
その微かに覗く表情があまり幸せそうではなくて、市丸は首を傾げた。
「保育士、目指してたんやんな?」
イヅルは困惑気味の顔を上げると、訝しむように眉を顰め、「どうしてご存じなんですか?」と言う。
イヅルが通っていたのは普通の国立大の文学部で、保育系の講義は特にこれと言って取っていなかった。
だから市丸が保育士を目指していると知ったのも、イヅルと喧嘩別れしてから事。
何故隠していたのかは分からなかったが、言うタイミングを逃しただけのものと思っていた。
「や。阿散井君やったっけ?大学の時の友達の子ぉに聴いてな」
素直に白状した市丸に、イヅルは物言いたげな視線を伏せる。
「父と母は、僕に教師になって欲しかったんです」
「ん。知っとるよ」
それはイヅルがまだ市丸の恋人だった時からの口癖である。
イヅルの両親はイヅルが中学生の時に事故で亡くなった。
それから親戚をたらい回しにされて育ったイヅルは、大学に入って一人暮らしを始めたところで市丸と出会ったのだ。
今思えば出逢いからして偶然に彩られたものだった。
外回りの仕事の空き時間にトイレを借りようと立ち寄った本屋で、本を買いに来ていたイヅルとぶつかった。
棚から飛び出した市丸の失態ではあったが、本棚に見とれていたイヅルも隙だらけだった。
ともかく出会い頭にぶつかった二人は、イヅルを抱き締めるという形で市丸が堪えて、何とか倒れるという無様なことにはならなかったのだが。
まるでドラマのワンシーンのような出逢いだった。
いきなり金髪碧眼の美人が自分の胸に飛び込んできたのだ。
驚いたと同時に見惚れた市丸は、イヅルにお詫びも兼ねてと食事に誘った。
そして迷った末に「ワリカンなら」と言ったイヅルは、市丸と食事に繰り出し、意気投合した二人は友達になった。
そして仲の良い友達から恋人へと発展するのは大した時間はかからず、恋人になった二人が一緒に住むようになったのもすぐのことだった。
本当に、今思い返しても夢のような出逢い、そして幸せの時だった。
それがどうして別れることになったのか。
若気の至りとは言え、どうしてあの時もう少し冷静になれなかったのか。
後悔先に立たずとは本当にこのことだ。
懐かしむように微笑んだ市丸に、イヅルは少し赤くなった頬を隠すように俯く。
そんな仕草は昔と変わらず可愛らしい。
「だから最初は教師を目指していたんですけど……」
「保育士かて立派な職業やン。イヅル頑張ったンやろう?普通の文学部からやってんから、資格試験受けて、合格したんや。お父さんとお母さんもきっと喜んではるよ」
市丸の言葉に、イヅルは余計に赤くなる。
しかし俯いていた顔を上げ、やっと少し、ほんの少しだがはにかんだような笑みを見せてくれた。
この笑顔が、昔はボクの物やったのにな。
哀愁が市丸を苦しめる。
そこへ注文の料理が運ばれてきて、しばし昼食タイムとなった。
「じゃあその子に鶴を折ってあげたんですか」
ピンクのショルダーバックの持ち主である少女との出会いを話した市丸に、イヅルは驚きの表情を浮かべる。
「鶴くらいやったらボクでも折れるからな」
しかしイヅルはとうやら別のことに驚いていたらしく、「優しくなったんですね、市丸さん」と小さく笑った。
「何や、失礼な。まるで昔のボクが酷い奴やったみたいやないか」
「だって、子供嫌いって言ってたじゃないですか」
「そらそうやけど」
そんな昔のことを覚えていてくれたのか、と些細なことで幸せに浸る。
しかしイヅルはサンドイッチを摘んで、「子供が出来て、開眼したんですか?」と言い出した。
面食らった市丸は思わずパスタを絡めたフォークを皿に戻す。
「子供なんやおらんよ」
イヅルは市丸を見ないまま、視線を落としてサンドイッチをパクついた。
焦って言い返して馬鹿みたいだ。
市丸は再びフォークを取ると、パスタを口に運ぶ。
「結婚……してないんですか?」
小さく、やっと聞き取れるほど小さく、イヅルが訊ねた。
「してない」
市丸はイヅルを見つめる。
しかしやはり顔を上げないイヅルは下を向いたままサンドイッチを頬張っていた。
「イヅルは?恋人は男?それとも女?」
自虐的な質問を口にした市丸に、イヅルは仄かに不機嫌になる。
「恋人なんていません」
「…………そうか」
市丸はどうしても緩んでしまう頬を止められずに、安堵の吐息を漏らす。
「市丸さんは…………」
イヅルは言いかけて口を噤んだ。
そして数回瞬きをして、「仕事はどうなんですか?」と言う。
訊きたかったことをはぐらかしたような物言いに、市丸は首を傾げながら「上手くいっとるよ」と言った。
「今もロサンゼルスに住んでいるんですか?」
「ん。あのマンションに住んどる」
イヅルが溜息を吐いた。
「そうですか」
市丸は悩んでいた。
イヅルに恋人がいないことは分かったが、今更やり直したいと告げるのは我侭だろうか、と。
市丸は今も、昔と変わらずイヅルを愛している。
しかしイヅルにとっては、例え今、恋人がいないにしても市丸は過去の人間だろう。
偶然にまた出会ったからと言って、昔のことを掘り返すのはイヅルにとって迷惑なのではないか。
断られたら、振られたら、そう考えると上手く言葉が紡げない。
膝の上で焦れる指先を立てて、詰めた息を緩く吐いては眉を寄せる。
自分がこんなに女々しい奴だとは思わなかった。
「具体的に、どうするつもりですか?」
「え?」
考えに没頭していた市丸は、イヅルの訊ねる声で我に返る。
「?……だから、このバックの持ち主の女の子を、どうやって捜すつもりですか、て」
「ああ」
市丸は渇いた唇を舌で湿らせると、「ともかく光が丘の駅に行ってみたらどうやろか」と言った。
「一応な、あの子を見送った駅の伝言板にはメッセージ残して来たんよ。光が丘駅の駅に預けるいうて」
「メッセージ……気が付きますかね」
「や、分からんけど。駅員にも知らせてはあるけど、ピンクのショルダーや4.5才くらいの女の子や言うたかて、当てならんやろ」
「ええ。僕も電車の中の忘れ物に気付いて、最寄りの駅の駅員にチケットのことを話して捜し出せないかと言ってみたんですけど、預かることは出来るけど、探すのは管轄外だって言われて」
イヅルが目線を落とした先の紙袋の中のショルダーには、明日付けの公演チケットが入っている。
つまり明日まではこちらにいるのは確実だとして、持ち主が探しているにしても届け出たイヅルに連絡がないと言うことは、駅員達にも連絡がないか、はたまたバックと届け出の認識が一致していないか。
「ともかく光が丘に行ってみよ。そんでそこの駅員に預けとくんが一番確率高い思うで」
「そうですね」
納得したように頷いたイヅルは、顔を上げて市丸を見つめる。
そしてはにかんだように笑って、「ありがとうございます」と言った。
「僕の我侭に付き合って頂いて」
「そんなん、イヅルの我侭やないやろ。相変わらずイヅルは優しい子ぉやな」
市丸が笑うと、イヅルは微妙な表情で笑い返した。
店を出て、光が丘へと向かう。
道中、昔に戻ったかのように二人の会話は弾んだ。
イヅルは変わらず素直で明るい、優しい性格の少年のままだった。
対して市丸は「変わった」と何度もイヅルに言われたが、優しくなった、明るくなった、大人っぽくなったと、褒め言葉ばかりを貰って何だかこそばゆくなる。
「何より、余裕がある感じが、大人の男っぽくて格好いいですよ」
さすがに格好いいには照れを見せた市丸に、言ったイヅルも感化されたのか赤面して、途中妙な雰囲気になった。
**************
光が丘の駅に着いた二人は、ともかく駅員室に歩く。
ピンクのショルダーを捜している女の子は来なかったかと訊くつもりで歩いていると。
「あーっ!!!」
背後で高い声が響いた。
閑散とした昼のホームでである。
思わず振り返った市丸とイヅルは、こちらに駆けてくる少女を見付けた。
「おじさーんっ!!!」
叫んだ少女に、「おおっ!!!ええとこにっ!!!」と驚いた市丸が笑いかける。
その横でビックリした表情のイヅルは、「おじさん?」と首を傾げていた。
「おじさんどうしているのー?」
市丸の前まで走ってきた少女は嬉しそうに話しかける。
「それがなー、ビックリやで」
市丸は紙袋からピンクのショルダーバックを取り出した。
「あっ!!あたしのカバンっ!!!」
少女は飛び上がってそれを受け取り、「どうしておじさんが持ってるの?」と訊ねる。
そこへ30代くらいの女性がやって来て、「美久ちゃんのお知り合いですか?」と訊ねた。
市丸はその場で事情を説明し、偶然と、そして二人の好意に感激した女性は「ありがとうございます」と何度も礼を言った。
「や。ほんま偶然の縁ですから」
「でもこんなことって本当にあるんですねー」
女性も驚いた様子でしきりに感心している。
「見付かって良かったね」
イヅルはしゃがみ込んで、美久と呼ばれた少女に笑いかける。
「うん。お兄ちゃんありがとー」
二人は昨晩の内に幾つかの駅に忘れ物がなかったかと電話して、今日、本格的に捜す為にまずはとこの駅に来たところだったらしい。
「鶴さん、また一緒に会えたね」
少女は市丸の作った鶴と、自分の作った鶴を両手に持って無邪気に笑っている。
「あれからねー、あたしいっぱい鶴、練習したんだよ」
少女はそう言うと、ポケットから青と黄色の鶴を取り出して市丸に差し出した。
「へぇ、上手くなったやン」
「うん。へへへー」
市丸が貰った赤い鈴蘭模様の鶴と違って、その鶴はちゃんと鶴の形をしている。
「くちばしもちゃんと尖っとるし、100点満点やな」
笑った市丸に、少女は嬉しそうに胸を張る。
そうして攻めて何かお礼を、と言う女性に帰りの電車代だけ貰った二人は少女に手を振って別れた。
しかし別れ際、少女は二人に走り寄ると、さっそく首に掛けたショルダーを開ける。
そして市丸にあげた赤い鈴蘭模様の鶴と青い鶴を市丸に、市丸の折ったメモ帳の鶴と黄色い鶴をイヅルへとプレゼントしてくれた。
ありがとう、大事にするわ、と幼い少女の好意に礼を言った二人は、帰りの電車の中で沈黙する。
この電車がイヅルの降りる駅に着いてしまったら、二人はまた別れ別れになるのだ。
時間はない。
市丸は心を決めると、イヅルの手を掴んで言った。
「イヅル、今更こんなこと言えた義理やないんはよぅ分かっとる。せやけどボクはイヅルが好きや。今もずっと、昔と気持ち、全然変わってへん。あの時イヅルの気持ちも考えんとキレたこと、ずっと後悔しとった。ボクと、やり直してくれへんか?」
イヅルは真っ赤になって面くらい、けれど瞳を潤ませて微かに笑う。
「僕も……今更ですけど、市丸さんとならロサンゼルス行っても良いです。貴方と別れるくらいなら、仕事くらいどこに行ったって……っ」
最後は涙で言葉を詰まらせる。
市丸は疎らとは言え人前で泣き出したイヅルを、力強く抱き締めた。
「イヅル、ご免な。ありがとう」
囁いた市丸に、「僕こそごめんなさい」イヅルはこそっと背中に腕を回す。
見つめ合って、けれどここが公衆の面前と言うことを思い出した二人は、ともかく次の駅で降りた。
さすがにあの電車で目的地まで行くのは躊躇われ、降りる者の居なかったそのローカルな駅で、二人は人が居ないことを幸いと数年ぶりのキスをする。
「イヅルの部屋行ってええかな?」
市丸が訊くと、「でも市丸さん、明日仕事なんですよね?僕が市丸さんのホテルに行った方が良いんじゃないですか?」イヅルは変わらず市丸を甘やかす。
「ええの?」
色々な意味を含めて小さく訊ねた市丸に、イヅルは照れながらも幸せそうに笑った。
「もちろんです」
帰る場所は決まった。
手を繋いだ二人は、そろそろ夕焼けになる空を見つめて立つ。
「凄い偶然でしたね」
ポツリとイヅルが呟いて、市丸は「そうやなぁ」と笑った。
「けど、想いが通じたんかも知れん。最初の出逢いは偶然やったけど、別れてからも、ボクの気持ちはずっとイヅルに向いとったから」
イヅルの指の力が強くなる。
「僕だって同じです。ずっと、市丸さんのこと、想ってましたから」
イヅルを向いた市丸は、肩を抱き寄せて笑った。
「ほな想いの向きは一緒やったっちゅうことやな」
「はい」
遠く電車の音がする。
近付いてきた轟音に紛れるように、少し背伸びしたイヅルに合わせ、市丸は唇を重ねた。
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そうして二人は再びラブラブカップルとなりました。
めでたし、めでたし(≧∇≦)vvv