狐の嫁入り
「村長さんのお家に仕えることになったんだ。お前は幸せ者だよ」
両親の代わりにずっとイヅルの世話をしてくれていた老婆が言った。
正座の上に握り込んでいた指先を震わせたイヅルは、俯いたまま「はい」と答える。
「良いかい?狐憑きのお前を見初めて下さったんだ。他の村ならとっくに追われてるくらいさ。。お前は幸せ者だよ。くれぐれも間違いがないようにするんだよ」
「はい」
幸せ者だよ、そう老婆は繰り返した。
****
この村に生まれて十八年。
父は山で、母は海で亡くなった。
イヅルがまだ五つか六つか、物心付くより前のこと。
金の髪に青い瞳なんて狐憑きの子供を身籠もった所為で、両親は酷い迫害を受けて殺された。
残されたイヅルは、山へと七つ送りに出されたが、どういう訳か生きて戻った。
村には七年に一度、数えで七つになる子供を、無病息災豊穣を司る山神である御狐様に奉納する。
山のてっぺんにある御狐様の祠は、真っ暗で、湿っていて、何やら人ではないものが舌なめずりするかのように恐ろしかった。
そこへ子供を両手両足を縛り、目隠しをして転がしておく。
そうすると夜には御狐様が降りていらして、狐火の行列と共にその年の作物の出来を教えて下さるのだ。
代わりに贄と出された子供は帰らない。
御狐様への供物として食べられてしまうと言う。
実際には山犬、狼の類に食い殺されてしまうのだろうが、ともかく、イヅル以外に戻ってきた子供はいなかった。
朝になって、靄の中をひたり、ひたりと裸足で降りてきたイヅルを、村の者は災いと呼んで恐れたが、臆病者の村長が、御狐様の御意向だと、命を取るのは許してくれた。
以来十余年、イヅルはこの村で、狐憑きとして生かされた。
村の外れの荒ら屋で、目の見えぬ、老い先短い卑しい身分の老婆だけを頼りに。
食うや食われぬ日々を慎ましく過ごして、しかしイヅルは村一番の器量良しに育った。
相変わらず、陽を溶かしたような金髪と、海を写し取ったかのような青い瞳を持っていたが、肌は抜けるように白く、細面な作りは繊細で、折れてしまいそうな儚げな美貌を持っている。
それに目を付けたのが村長の息子で、荒くれ者と名高いこの男は、父である村長が止めるのも聞かず、三日に一度は狐憑きの荒ら屋を訪れて、俺の物になれとのたまった。
「僕のような者に触れては、御身が汚れてしまいます」
そう言って逃げるイヅルを村まで追いかけては、父親にどやしつけられ、イヅルも憎々しく睨まれては無慈悲な棒で打たれて追い返された。
あの狐憑きは淫乱で、人の子と見れば誘惑せずにはおれない業の持ち主だ。
村人はそう囁き合ったが、当のイヅルは日中に外に出ることさえ嫌う籠もり性で、栄養失調気味の身体を布団に横たえては、日がな一日、寺の坊主に投げつけられた経文を読んで過ごす。
村にあっては珍しく、文字の読めるイヅルは、時折訪れる行商の訊ねるのを指折り数えて待っていた。
文字の読み書きも、この行商の男に教えて貰った。
行商は勿論、村長や村人等に薬や反物、都の品を売って歩いたが、イヅルの所に訊ねてくるのは物を売る為ではない。
諸国を渡り歩いた面白おかしい話しを聞かせる為に来てくれた。
最初はただの興味だろう。
狐憑きの子供がいると聞いてきた、と男は言った。
老婆は陽がてんっぺんに上ってからやって来て、日が沈む前に帰っていく。
男が来たのは真夜中も過ぎる頃で、イヅルは布団の中の痩せた身体を起こして迎え入れた。
「何や異人の子ぉかいな」
男は笑ってイヅルの頭に手を伸ばす。
「異人?」
何をされるのかとビクつきながら、それでも逃げずに手を受け入れたイヅルは、頭を撫でられ驚いた。
「そや。都には希に居るよ。君みたい綺麗な色の子は殆ど居らんけど、くすんだ茶色や赤髪のモンは結構居る」
「狐憑きではなくて?」
男はイヅルに都の話を、そして異国の話しを面白おかしく語ってみせた。
夢中になって話しを聞いている内に夜が明けて、男は懐から良く効くと言う万病の薬と、綺麗な色の飴玉を取り出す。
「君に上げよう」
記憶する中で、生まれて初めて人から優しくされた瞬間だった。
イヅルの小さな掌に置かれた飴玉は、結局勿体なくて食べられず、どんなに甘くて美味しいかを想像したまま大切な宝物として今もイヅルの手元にある。
男は名を名乗らなかった。
おかげで、次に男が訊ねるまで、イヅルは男の名を毎日想像して楽しく過ごした。
次に男が訊ねた時、男は「市丸ギン」と名乗った。
「僕はイヅルです」
****
それからもう十年の年月が流れた。
イヅルは大人になって、年老いた村長は死に、その息子が村長の役に就いた。
大人になるに連れ、女癖も悪いと評判になった男がイヅルを諦めているはずもなく、とうとう次の大安に本家に仕えよとの命を受けた。
イヅルに否を言う権利はない。
この村に生まれ、この村で生きていくならば、従う他に術はない。
分かってはいたが、老婆が言うように、幸せだとはとても思えなかった。
老婆の帰る後ろ姿を見送って、イヅルはふと村の家を行き来する黒い影を見付ける。
「まさか」
村に笠を被って歩く者などいない。
余所者であれば納得はいくが、この山と海に閉じ込められた小さな村に、行商の者が来るのはそう無いことだ。
あるとすれば市丸だが、この時期に彼が村を訊ねたことはない。
市丸であるはずがない。
イヅルはそう思ったが、同時に市丸であればと泣きそうになる。
腐って今にも強風に吹き飛ばされてしまいそうな戸板に手を付いて、家を渡り歩く影を追った。
影は家を渡り歩きながら、山極の崖っぷちに建つイヅルの住むあばら屋へと近付く。
家が無くなり、後は坂道の先にあるイヅルの家だけ、と言う道を上って影は迫った。
そんな訳はない。
だって市丸さんは、真夜中にならなければ訊ねてこないもの。
村人や村長に目を付けられれば、行商だってやり難い。
市丸が人目を忍んでイヅルの家を訊ねるのは当たり前だった。
なのに―――――
「こんにちはぁ」
杖を持った手で笠を斜めに上げ、市丸は笑顔でイヅルに笑う。
「市丸……さん……っ」
イヅルは口元を掌で覆うと、抱き付くことも出来ずにその場にしゃがみ込んで泣き出した。
その頭を市丸の温かい掌が撫でる。
「ええ子やイヅル。中入ろか。外や都合悪いやろ」
「っ……はいっ」
立て付けの悪い戸を市丸が引いて、薄暗い部屋の中に膝をつき合わせて座った。
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ブログで書き始めたんだけど、あかん、こら長いでつ!!!
と想い、急遽コチラへ……。