狐の嫁入り
「嫁入りするんやて?」
茶も出せない荒ら屋で、市丸はあぐらをかいて言った。
「…………はぃ」
イヅルは俯いて眉を寄せ、掌を握りしめながら答える。
行商の先で村の者に聞いたのだろう。
老婆と同じように、幸せ者だと言われることを予期して、イヅルは身を固くした。
「そらまた酔狂なうちのモンに嫁ぐことや。村長さんトコの坊は、かなりなうつけモンやと思ったが……。イヅルはそれでええの?」
「…………」
祝われずに済んで安堵したのも束の間、イヅルは返答に迷う。
市丸が村の者にイヅルが何と言ったかを言い付けるとは思えなかったが、誰かが壁に耳を傾けているとも限らない。
この村で村長の事を悪く言う者は弾かれる。
イヅルは元々狐憑きの弾かれ者だが、それでも生きて来れたのは先代の村長が御狐様の祟りを恐れてのことだ。
その後ろ盾を失った今、今の不信信者である村長の機嫌を損ねて、イヅルに生きていける保証はなかった。
市丸の質問、ただ俯いて身を固くしたイヅルに、小さな溜息が投げられる。
「望まん祝言なんや、だぁれも幸せになれんよ」
「っ……」
イヅルの瞳が涙に揺らめいた。
イヅルとて、拒絶出来るものならしてしまいたいと思っている。
誰が好んであのような乱暴者の物になるだろう。
もともとイヅルには心から慕う人が居た。
幼い頃の熱病で、すっかり色の抜けてしまった髪を持ち、祠の御狐様みたいに笑んだ顔をした優しい行商。
唯一イヅルを普通の人間と同じように扱ってくれる市丸を慕うのは、ごく当たり前のことだ。
イヅルは顔を上げると、悲壮に染まった瞳を潤ませて市丸を見つめる。
「あの男の元へは嫁ぎません」
唇を噛んだイヅルに、市丸は真顔になった。
「どないするつもりや?この村で長に逆ろぅて生きてはいかれへんやろう?」
「祝言の日までに、命を……絶つつもりです」
あんな男に汚されるくらいなら、死んでしまった方が良い。
イヅルは決意を秘めた眼差しで市丸に言った。
「ですが……死ぬ前に、打ち明けてしまいたいことがあるのです」
市丸が位を正す。
決意の鈍らない内に口を開いたイヅルは、出会った頃から抱き続けた市丸への想いを告げた。
「ずっと、市丸さんのことを、お慕いしておりました。…………ご迷惑なのは承知です。でも、どうか、死ぬ前にせめて、この心内だけは伝えて逝きたいと思ったのです。我侭をお許し下さい」
頭を下げたイヅルは、己の膝に涙が落ちるのを見つめる。
儚い一生だったが、市丸に逢えたことで生まれてきて良かったと思えた。
生きる価値のある人生を送れた。
市丸が居なければ、一生笑うと言うことを知らずにいたかも知れない。
その全てを伝えて背負わせてしまうには重かろう、とイヅルは顔を上げる時、苦労して笑顔を作った。
市丸はただ静かにイヅるを見つめている。
「イヅル」
「はい」
泣きながら作った笑顔は、きっと不細工だろうと想いながらも、イヅルはただ笑って答えた。
「お前はボクが人間やのうても、ボクの物になってくれるて言うてくれるやろか?」
「え?」
市丸は笑う。
その右手が上がり、何やら指を擦り合わせると、途端に一つの杯が現れた。
「昔話をしたろうイヅル」
杯には透明の酒が満ちている。
気が付けば差し込んでいた夕日は落ち、闇に蝋燭が灯っていた。
********
それはいつもの七つ送りの夜だった。
その山の神である九つ小尾の銀狐は仲間の狐と共に祠まで参道を上った。
いつもの夜だった。
普段は人の入らぬ奥地に、贄の子供の匂いがぷんぷんしている。
泣く子を追いつめ、四肢を千切って喰うのが好きな陰惨な山神は、祠に着くなり子供の枷と目隠しを食いちぎった。
真っ暗な祠の中で、月明かりを受けた子供はしかし、青い瞳を揺らしもせずに山神を見つめる。
「子よ、子よ、我が恐ろしくはないのか?」
山神は訊ねた。
子供は粗末な着物を直すと、背筋を伸ばして正座する。
「いいえ。恐ろしくはありません」
きっぱりと答えた子供に、山神は更に訊ねた。
「子よ、子よ、我は陰惨なる獣の神。山神なれば、お前の四肢を喰い千切ってくれよう。それでも我が恐ろしくないと言うか?」
子供はやはり泣き出しもせずに答える。
「はい。痛いのは嫌いです。それでも父上や母上に会いに行けるのであれば、どんなに痛いことも耐えるつもりです」
目を瞑ってどうぞと言わんばかりにじっとしている子供に、山神は尻尾を丸めて笑った。
「おかしな子よな。お前の父母は死んでしまったのか?」
「はい。狐憑きの僕を身籠もったばかりに、村の人達に嫌われて、死んでしまいました」
山神は更に笑う。
「お前は狐憑きか。なれば何が出来る?何故狐憑きと呼ばれるか?」
子供は再び青い目を開いて首を傾げた。
「何も出来ません。でも、この髪の色と目の色は人の色ではないと、村長様が仰有っていました」
「ほう」
山神はそこでくるりと自分の尻尾を追うように一回転する。
その毛並みは月明かりに映えて、とても美しい物だった。
子供はその色に見惚れて、うっすらと笑みまで浮かべているように見える。
山神は酔狂を思い立ち、仲間の元へ駆けて戻るとこう言った。
「今宵の贄は狐憑きじゃ。喰えば五臓六腑が爛れるぞ。今宵の贄は追い返そう。山を下りれば我らの記憶も消えて無くなる」
仲間の狐たちは騒ぐ。
人間達は、何故そのような子を供物へと差し出したのか。
山神は仲間を鎮めると、「あの子は我らの仲間。いずれは迎えを出さねばならぬ。時が満ちるまで我は山を下り、暫し山神の任を退く」そう言って子供を連れて山を下った。
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御伽噺を語るような市丸の言葉に、イヅルは静かに耳を傾けた。
それでもその話しが、御伽噺(作り話)では無いことは分かる。
語られる端から記憶が甦っていた。
七つ送りの夜のこと。
山から下りたイヅルは何も覚えてはいなかった。
それでもイヅルを最初に発見した村長は、隣に立つ銀色の七つ小尾の狐を確かに見たと言っていた。
お陰でイヅルは山神様によって降ろされたのだとされ、荒ら屋ではあったが住む場所と、そして日に一度か二度であったが、食べ物を与えられ生かされた。
全てはその山神様のお陰であったかと、イヅルは目の前の市丸を見つめる。
市丸の語らんとしていることが分かると、イヅルは何の躊躇いもなく心を決めた。
「人を山の精に変えるんは難しい。どんな霊験灼かな神でも相当の霊力が必要になる。山を下りて四方の国から大きな霊力を吸収する必要があった。せやけどそれももう溜まっとる。イヅルが望むんやったら、ボクはお前を連れて行くよ?」
杯を持ち上げ、イヅルに向かって差し出す。
杯から流れてくる豊潤な馨が人の手により作られた酒ではないことを示していた。
「それを飲んだらもう戻られへん。お前は人ではないもんになる」
「僕はっ」
既に心を決めたイヅルは叫んだが、市丸は眉を顰めると低く囁く。
「親にも会えんようになる」
イヅルは震える手で杯を受け取った。
喉が鳴る。
市丸は何も言わずにイヅルを見つめるているが、睨みつけられたように身体が強張った。
これを飲めば市丸さんと行ける。
けれど人間ではない物に、本当の狐になってしまう。
そして何より、先に逝って自分を待っていてくれているかも知れない両親に会えなくなってしまう。
他とは違う髪の色と目の色で、随分と苦労を掛けさせた両親に、せめて一言詫びたい気持ちはあった。
命を全う出来ず、悪戯する自分の親不孝を謝りたい。
しかしイヅルの本心は、市丸と共に生きることを望んでいた。
狐憑きの自分を仲間と、迎え入れてくれると市丸は言っている。
自分の思いを告げた末の誘いに、これに応えるは生涯の誓いと思えた。
父上、母上、ごめんなさい。
僕は、僕はどうしても、幸せになりたいのです。
この人と、市丸さんと生きていきたいのです。
そっと杯に口付ける。
伏せていた青い瞳を市丸に据えると、視線の先の顔はただ静かに事の成り行きを見守っていた。
「…………っ」
イヅルが杯を呷ると、途端に液体と思っていたそれは口の中で雲のように肺を満たす。
「っ……ぅ」
口を押さえて崩れたイヅルを、市丸の手が支えた。
「飲んだね、イヅル」
低い囁きに、イヅルはこっくりと頷く。
「イヅルの決心、ちゃんと伝わったで」
市丸の腕がイヅルの腰を抱き、横に抱えられるようにして荒ら屋を後にした。
外は月のぽっかりと空いた紫紺を広げ、黒々とした山には狐火の行列。
さすがに気味悪くなって怖くなったイヅルは市丸の胸にしがみついたが、行列は近くに来ると人型になってイヅルと市丸にお辞儀した。
「お帰りなさいませギン様。よくぞ来られましたイヅル様」
年長格らしい髭の老人が頭を下げ、奥に控える何人もの者も一斉に頭を下げる。
「祝言の用意は整って御座います。さぁさ、御山に戻られませぃ」
さぁ、と音を立てて天から雨が降り注ぐ音がした。
イヅルは市丸に抱き運ばれながら、白く煙る村を遠く眺める。
「狐の嫁入りじゃ」
村の者が戸窓を開けて言うのを聞いて、不意に笑いが込み上げた。
「なんや?急に笑ろてから」
市丸に見下ろされ、イヅルは思わず赤面して答える。
「いえ、本当に狐の嫁入りには天気雨が降るものなのだと」
「ああ」
行列を包む雨はしかし、その上には降っていない。
まるで雨の紗で覆うように、ひっそりと山を登る行列に、市丸は目線を向けながら言った。
「人に邪魔されるんが、一番腹立つからなぁ。今日はボクとイヅルの祝言や。誰にも邪魔されとぅない」
しゃん、しゃん、と何処かで鈴の鳴る音もする。
狐憑きの美丈夫が、明けの夜に御狐様に嫁いだと、村は後々まで言い伝えた。
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取り敢えず定番は書いとけっ!!……という趣旨。