六月の空は、六時を回ってもまだ明るい。
紫微色の雲を眺めながら、イヅルは溜息ばかりついていた。
会計室で交わした日番谷との会話が、何度となく頭を過ぎる。
市丸は自分を、都合の良い駒にしか見ていなかったのだろうか。
乞われて、与えて、結びついたつもりが、気付いたら自分が市丸という糸に絡んでいただけだった。
絡まりあっただけの糸では、所詮、いつかは分かれてしまう。
市丸がイヅルを不要と思った時、その時が来れば、いとも容易く彼は自分を振り解くかも知れない。
「……っ」
胸が痛かった。
馬鹿みたいだった。
あんなにあんなに求められて、鬱陶しいとさえ思っていた市丸の腕が、今すぐ欲しかった。
常春頭だと思っていた、顔から火を噴くような台詞を、今、直接、彼の口から聞きたかった。
「こんな時ばっかり帰ってこないなんて、詐欺だよ」
言葉にしたら、涙が滲んで、イヅルはちょっぴり織姫にメールの転送を頼もうかとも思ったのだが、もし次に市丸に会った時、彼を問いつめて捨てられた時の事を考えると、怖くてそれも頼めなかった。
イヅルが食堂に降りたのは七時前だった。
一応市丸の言いつけ通り、恋次の部屋を訪ねたのだが、ノックをしても返事はなかった。
彼はアルティメットクラスに所属していながら、剣道部に入部して、毎日のように道場に通っている。
頭脳派揃いでプライドの高いアルティメットクラスでは、部活動に所属している者など恋次一人だ。
きっと今日は練習が長引いて、まだ帰ってきていないのだろう。
仕方ないのでイヅルは一人、食堂で夕食を取っていた。
それとなく視線が痛い。
イヅルは入学以来、市丸が四六時中ベッタリくっついていた所為で、ただでさえ敬遠されがちなアルティメットクラスの生徒と言う事も手伝って、余り友人の数は多くない。
それどころか、恋次、雛森を除けば、イヅルの友人は生徒会、会計部、寮長やら部長など、年上の責任者ばかりだ。
―――雛森君の姿もないし。もしかして市丸会長とまだ一緒なのだろうか。
市丸はイヅルに、「頼みたい事があるねん」と雛森を生徒会室に連れてくるよう言った。
内容は知らされていない。
―――きっと僕には関係ないって。知られたらマズイとか思ったんだ。きっと。
疑心暗鬼になっていく自分を分かっていても、止められそうもなくて、イヅルは何度目かの深い溜息を吐いた。
「どうした? 酷い顔色だな、吉良」
呼ばれて顔を上げると、浮竹がイヅルの正面に、トレーを持って立っていた。
その隣には京楽と、何故か修兵。
「何で先生達が学生寮の食堂にいらっしゃるんですか?」
教師は教師用の宿舎に専用の食堂がある。
SS学園は生徒の自主性を尊重する方針に終始している。
生徒の自主性が特に重んじられる生徒会、会計部、寮運営は暗黙の了解的に教師不可侵とされていた。
「抜き打ち監査さぁ♪」
京楽が楽しそうに言うのに、イヅルは真顔で返した。
「え? そんなのありましたっけ?」
「市丸君から訊いてない?」
「…………聴いていません」
胃の辺りがじくりと痛んだ。
その台詞は特に、今は聞きたくなかった。
俯くイヅルの目の前で、浮竹が京楽の頭を軽くはたいた。
「違うよ。修兵から寮の一部に破損箇所があるから確認して欲しいと言われたんだ。それで時間的に夕食時でもあったし、ついでだからご相伴に預かりに来ただけさ」
浮竹のフォローに、イヅルは曖昧に笑って応えた。
すると突然、浮竹がイヅルの前と横に各々の食事を盛ったトレーを並べて、修兵を向き直った。
「修兵、俺達はちょっとデザートを探しに行ってくるから。ここで待っててくれないか?」
「……はぁ」
あからさまではあったが、浮竹は自分達よりも修兵にイヅルを任せた方が良いと判断したらしい。
それじゃあと、デザートテーブルの方へ去っていく二人の後ろ姿を見送って、修兵はイヅルに呼びかけた。
「会長と喧嘩でもしたのか?」
「いぇ」
修兵はイヅルの正面に腰掛けると、箸すら持たずに訊ねる。
「じゃあどうした。お前、この世の終わりって顔してるぞ?」
「何でもありませんよ」
修兵はしつこく食い下がったが、イヅルは何も答えなかった。
そうこうしている内に、浮竹達が帰って来てしまったので、二人の会話は中断される。
それでもイヅルは黙って機械的に食事を続けていた。
「ここの食事は実に美味いな」
浮竹達はお互いに喋り合うだけで、イヅルを構ったりはしなかった。
修兵も京楽の冗談に笑ったりして、イヅルはちょっと気が楽になった。
そして傍目からは異様としか言えない食事が終わった頃、浮竹が沈みがちなイヅルの頭をポンと撫でた。
「誰かに話したくなったら、いつでも話においで」
「そうそう、一人で溜め込んじゃうと早く老けるぞぉ」
京楽の軽口に、イヅルはぎこちない笑顔を返す。
二人の教師は修平を連れて席を立った。
そして浮竹、修兵と歩き出すのに、京楽だけがイヅルを振り向き、口角を上げて笑う。
「市丸と喧嘩でもしたかい? 仲直りするには相手の事をまず信じてやる事だ。どうも君と市丸はセットでないと落ち着かない。そう思ってるのは俺達だけじゃないと思うね。……まぁ、市丸は最近、よく生物室の方に出入りしてたみたいだから、また明日にでも訪ねてみると良い。捕まると良いね」
「生物室?」
「ああ、夜一と話していたみたいだよ」
「四楓院先生……」
そんじゃ、頑張ってちょーだい、と京楽は今度こそ去っていった。
そして深夜、点呼も終わった時間になって、イヅルの部屋の戸を叩く者が居た。
「吉良くーん、あたし、井上なんだけど」
潜めた声が聞こえて、イヅルはドアを開く。
するりと隙間から身を滑り込ませた織姫は、片手に持っていた手紙をイヅルに差し出した。
「ごめんね。こんな夜中に。吉良君にこれを渡して欲しいって、さっき頼まれちゃったの」
それは白地にピンクのハートマークの封筒で、表に『吉良イヅル様』と書かれているだけで、差出人の名はない。
「誰から?」
「ごめんなさいっ」
織姫がぴょこんと頭を下げた。
「それは忘れる約束なの。食券三枚追加でお願いされちゃったから」
「ふーん……」
それじゃあ、そう言う事で、おやすみなさぁーい、と織姫は去っていった。
イヅルはしばし封筒を眺めていたが、一応カッターなどの触感が無い事を確認してから、開封した。
『至急、生物室まで来てくれ。市丸ギン』
「…………っ、勝手だよ」
イヅルは唇を噛んで考えた。
市丸はいつもこうだ。理由や原因を説明しない。ただあれをしろ、これをしろと命令するのだ。
それでも、帰れないと言っていたこんな夜中に、しかも生物室への呼び出しなど、何かよほどの理由がありそうにも思える。
少なくとも京楽が言っていた自分の知らない市丸の情報と一致するし、もしかしたらやっと自分に全てを話す気になったのかも知れない。
そう思うと居ても立ってもいられずに、イヅルは薄手のジャケットを羽織ると、疾風のように寮を抜け出した。
「もう一回だけ、貴方のこと信じますから。京楽先生に感謝して下さいね」
誰もいない闇に、イヅルは小さく呟いた。
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